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+++ +++ +++


 ――目が覚めた。


 どうして自分はこんなところにいるのだろう。

 誰かに呼ばれていた気がするのに。


 ――ほらまた。


 呼ぶのはだぁれ?


「いけない。返事をするな。大樹様のところに連れて行かれるぞ。《《また》》生贄だ」


 たいじゅさま?

 いけにえ?


 ――ああ、思い出した。


 逃げないといけないんだった。


「そう、逃げろ」


 こんなに大事なことなのに。

 今まで、なにをしていたんだろう。


 はやく逃げないといけないのに。

 今度こそ……今度こそ!


「赤、赤、赤、かわりの花をたくさん用意しろ。オカワリサンとお願いすれば花はいくらでも咲かせられる」


 そうだね。

 そうだった、次はそうしようって、あの時思ったんだ。

 オカワリサン。

 オカワリサン。

 言って、笑ってた、あの人たちみたいに。


 必要なのは、オカワリサン。


「その通り。さぁ、逃げろ。追いかけてくるぞ。せっかく目が覚めたのに、《《また死ぬ》》のは嫌だろう?」


 追いかけてくる?

 あの人たち?

 赤い人たち?

 呼んでいたのはそうなの?


「つかまったらお終いだ。赤を撒いて逃げないと」


 逃げないと。

 

「鬼事のはじまりだ」


 走る。

 走る。

 走る。


 息が上がる、肺が苦しい、足が重い。

 それでも、ただひたすら、走る。


 はやくしないと――アレが来る。

 赤が必要だ。

 たくさんの赤

 いっぱいの、オカワリを。


 だから、もっともっとはやく――


「たくさん花を咲かせて、散らしてくれよ」


 遠くから呼ぶ声が消えた。


「キキッ」


 かわりに、かたいものをひっかいたような音が、すぐ近くで聞こえた。

 ――あぁ、はやくにげないと――



+++ +++ +++



 ――駅に近い大通り。

 様々な店が建ち並び、人の往来も多く賑やかな場所だ。

 そんな通りの片隅にある二階建ての建物には、かすれた文字で《〇×探偵事務所》とかいてある。


 肝心の名前が薄くなっていて読めないのにそのままにしている商売っ気ゼロの主は、居住と事務所を兼ねた建物内のうち、仕事スペース……つまりは、二階にある事務にて「大事件だ!」と助手を呼んだ。


「なんすか、一体?」

「のんびりしてる場合じゃないよ、スズ君! 僕のイチゴジャムが消えたんだ! ヨーグルトに入れようと思ったんだけどさぁ、どこにも見あたらないんだよ……!」


 ここ、獏間探偵事務所の所長、獏間 綴喜の助手にして唯一の所員である祈は、インスタントコーヒーを入れ終えた直後だった。大事件だと言うから、なにかと思えばと、呆れてため息をつく。


「はぁ……」 

「スズ君、ずいぶん気のない反応だね。僕がヨーグルトを食べられるか否かの瀬戸際だっていうのに……はっ! まさか、きみ……!」


 わざとらしい獏間の言動に、祈は肩をすくめる。


「俺は食ってねーっすよ」

「だよね。……うう~ん、それにしても、おかしいな……。ブルーベリーもピーチもないんだよ」

「……その二つは、三日前にトーストに塗りたぐって空にしてます」


 冷蔵庫に顔を突っ込んだまま、今度は違うジャムまで見つからないという獏間の問いに、祈は顔をしかめた。

 てんこもりトーストを思い出すと、胸焼けがする。


「え~、じゃあイチゴはなんでないんだろう?」


 その間も、獏間のジャム探しは続いていた。

 いい加減、冷蔵庫の開けっぱなしもよくないだろう。

 やめさせるべく、祈は知っている答えを開示した。


「アンタ、昨日脳が糖分を欲してるとかなんとか言って、ジャムだけ食ってたじゃないっすか」

「あれ? そうだったっけ?」

「そうっすよ」

 

 果肉たっぷり贅沢ジャムとラベルがはられた瓶は、昨日のうちにすっかり空だ。

 パンに塗るならまだしも、新聞片手にジャムだけを食べるなど、甘い物が得意ではない祈からしてみれば理解しがたいが、あいにくと祈の雇用主はドン引きするほどの甘党だった。


「じゃあ、はちみつにしよう」


 そんな甘党所長は、目当てのジャムがなければと早々に切り替えて、ヨーグルトに蜂蜜をたらしている。


「うわ、かけ過ぎっすよ、獏間さん」

「いやいや、これくらいかけないと~。あ、スズ君のコーヒーにもいれるかい? いけるよ~」

「いらねぇっす!」

 

 言われて、祈はすかさず自分のマグカップを庇う。


「はちみつは体にいいのに」

「いくら体にいい物でも、取り過ぎはダメだと思います」

「言うようになったね~」


 はちみつの容器を置いた獏間は、注意する祈の顔を見て笑った。

 ――獏間 綴喜。

 極度の甘党で、子供のような大人。

 それが、祈の雇い主だ。


 元は地方に住む一市民だった祈は、とある事件をきっかけに獏間と知り合い、彼の探偵事務所のアルバイトとして雇われた。

 その後、色々とあったが――現在、活動拠点を東京に移した獏間にくっ付いて、いまだ探偵事務所で働いている。

 しかし……。


「あー、なんかこう、面白いことないかな。こういう時こそ、笹ヶ峰刑事あたりが飯の種をもってくればいいのに。まったく、気がきかない奴だよ」

「……言いがかりもいいとこっすね」


 ヨーグルトを食べながら、お気に入りのソファによりかかり、獏間がぼやく。

 獏間とは旧知で、お上からの訳あり案件を持ってくる強面刑事。

 知らぬところで名前を出されディスられている彼に、祈は内心同情する。


 ――獏間探偵事務所では、閑古鳥が鳴いていた。

 それもこれも、所長である獏間が仕事を選ぶからだ。本人曰く、飯の種以外は請け負わない……獏間は、あくまで変わり種専門の探偵なのだ。


「とりあえず、昼飯でも食べますか? 俺、買い物行ってきます」

「うん、気をつけていくんだよ? 知らない人に声かけられたら、じっと見ないで無視するように。それで走って事務所に逃げてくるんだ。いいね?」


 我が子を初めておつかいに出す、過保護な親でもあるまいし。祈が「はいはい」と生返事をして、事務所のドアノブに手をかけたのと同時、勢いよく階段を駆け上がる音が迫ってきた。

 出かけようとしていた祈が、反射的に身をひいた直後。

 ノックもなく、乱暴に扉が開かれた。


「助けてくれ! 追われてるんだ!」

「!?」


 フィクションではお馴染みの、けれども現実では口にすることも耳にする機会も滅多にないだろう言葉を吐いたのは、事務所の中に転がるように飛び込んできた――柄シャツの男だった。


「あ、ええと……大丈夫っすか?」


 呆気にとられていた祈だが、我に返ると床に膝をついたままの柄シャツ男に声をかけた。 

 その途端、ぐわっと顔を上げた男に腕を掴まれる。


「助けてくれ! なぁ、頼むよ、助けてくれ!」

「は、はぁ? あの――っ」


 ツバを飛ばさんばかりの勢いで懇願する、柄シャツ男。

 その顔には無数の文字が浮かんでいる。

 そして、そのどれもが、恐怖心を表していた。


 〝捕まりたくない〟

 〝逃げないと〟

 〝怖い怖い怖い怖い怖い〟


 尋常ではない事態に、祈は獏間に視線を向けた。

 だが、自分を無視するなとばかりに柄シャツ男に腕を強く握られる。

 

「金ならいくらでもある! 礼ならする! だから、助けてくれ! 頼むから――」

「いや、ちょ、痛いって……一体、誰に追われて……」


 祈が質問したが、柄シャツの男は答えなかった。

 ただ、顔を強ばらせ自らが開けっぱなしにした事務所のドアを見て「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。


「く、来る――」

「は? 誰が?」


 もしかして、なにか危ない薬物を摂取した人なのだろうかと祈が危惧したところで、男はぐっと顔を上げて祈を真っ正面から見上げた。

紙のように白くなった顔色と、コントラストを成すような真っ赤に充血した目。

 ガクガクと歯の根が合わない口を開け、男は言った。


「オカワリサンデス」

「……は?」


 奇妙な言葉。

 その意味を問う前に、祈の腕を痛いくらい強く握っていた手の力が抜ける。

 真っ白な顔色と真っ赤な目。

 つぅーっと眦から涙が一筋流れ落ちて、口からは同じように滴が一筋――赤い液体が流れて、落ちた。


「スズ君!」


 そう自分を呼ぶ所長の声が、珍しく険しいことに、祈は違和感を覚える。

 ああ、そうだ。

 違和感と言えば――。


 奇妙な言葉を吐いた柄シャツの男。

 あれだけ顔にくっきりと浮かんでいた恐怖は、一体どこへ消え去ったのか。

 真新しいノートの一ページ目のような真っ白な顔で、男はその場に崩れ落ちた。


「――っ」


 とっさに助け起こそうとした祈だが、後ろから肩を掴まれる。


「は? 獏間さん?」

「離れなさい」

「で、でも、救急車を――」

「無駄だよ」


 獏間の顔は、いつになく険しい。

 彼は、靴の先でごろんと男の体をひっくり返す。

 なんてことをと咎める暇も与えず、獏間は簡潔な答えを示した。


「もう、死んでる」

「――っ!」


 口からだらだらと血を流し、真っ赤な目を見開いたまま――突然事務所に飛び込んできた柄シャツ男は、絶命していた。

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