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事務所にて、祈は落ち着かない時間を過ごしていた。
(午後の講義、いくつ取ったか聞いてなかった……!)
午後一で終わるのか、その後もまた講義に出るのか――そこら辺も抑えていなかったのだ。
「いやー、仕事を請け負ってるはずなのに、清々しいほど暇だねスズ君!」
「……本当に、すみません……」
「責めてないよ? 言ったじゃないか、無視できなくすればいいって。待てば海路の日和あり。彼女から連絡が来るまで待とうじゃないか」
しかし、祈は蛍に避けられた身だ。それなのに、蛍から「今、講義終わったよ」などと律儀に連絡をよこすだろうかと祈は渋い顔でスマホを見る。
「なんか、けーちゃんは一人で帰りそうなんすけど?」
「ああ、帰るだろうね」
「は? いや、そんなあっさり肯定されても――それ、ダメじゃないっすか?」
「ダメだね。危ない状況だもん」
それなのに、どうして獏間はこんなに呑気なのだろう。
祈は混乱しつつも続けた。
「じゃあなんで、大学に来た時、すぐ帰るなんて――」
「人間ってさ普段は体面だなんだって気にして、自分の気持ちに蓋をする。それが理性的ですばらしいと思っている。だけど、それって自分の安全が保証されている時だけだよね。だったら、その面倒な理性とやらを取っ払ってあげたらいい。――危険に直面すれば、理性なんて吹き飛ぶ。すぐさま助けてくれと連絡してくるだろう」
名案と子どものように笑う男に対し、祈は同様に笑えなかった。
恐る恐る、自分の予想が外れてくれと思いつつ確認をとる。
「それって、わざとけーちゃんを危ない目にあわせるってことっすか?」
「うん。そう」
あっさりと、獏間は頷いた。
無視できないようにするとは――つまり、こういうことだったのだ。
「なに考えてるんっすか! けーちゃんは、怖い目にあったから獏間さんを頼ってきたのに……!」
「言うことを聞かない悪い子には、いい薬だよ」
しれっとそんなことを言う男を睨み、祈は蛍に連絡を取ろうとした。
その時、スマホが音を鳴らす。
「けーちゃん?」
耳に当てれば、向こう側から荒い呼吸音とノイズまじりの声が聞こえてきた。
『ノ――キ、たす――て……!』
「けーちゃん、今どこ?」
『――アタシ……怖……っ――』
声が、どんどん遠くなっていく。
祈も焦り獏間を見ると彼はすでに席を立ち、そばに来ていた。
そして、ひょいと祈の手からスマホを抜き取ると自分の耳に当てる。
「大路さん、追われているようですね。……足音がする? 引っかかれて転んだ? でしょうね。音にノイズが混じるのは、貴方のいうストーカーがすぐそばにいて邪魔をしているからです。通話状態のまま、事務所に来て下さい。歩いてでも走ってでもかまいません。こちらと繋がっている限り、我々は貴方の状態を把握できます。……そうですよ、電話が繋がっている限り、貴方は安全です。事務所に入ってしまえば、追っては来ません。ああ、もうすぐそこですか。それならば、あと一息です。階段を駆け上って、ドアには鍵をかけてないので、簡単に開きますよ。さあ、どうぞ」
どうぞ、という獏間の声と同時に、事務所の扉が勢いよく開いた。
転がるような勢いで中に入ってきたのは蛍で、座り込む彼女の前に立った獏間は、笑顔を浮かべ見下ろす。
「はい、お疲れ様です」
そう言って、祈のスマホを耳から離し、画面に出ている通話終了をタップした。
「あ、アタシ……アタシ――あんな……」
蛍の顔色は真っ青だった。
途中どこかで転んだのか、膝をすりむいて血が出ている。他にも、ふくらはぎに、爪で引っかかれたような傷がついている。
蛍の顔には――〝こんなことになるなんて〟という震え文字が浮かんでいた。
よほどの恐慌状態なのだろう。
「けーちゃん……」
「ち、違うの、ノリマキ――アタシ、アタシ、違うの」
怖がっている。最初はそう思ったのだが、様子が変だ。祈は目線を合わせるように床に膝をつき、蛍に声をかける。
「どうした? 落ち着いて、もう大丈夫だから」
「そんなんじゃなかったの、そんなつもりじゃなかったの――アタシは、ただ、アタシは……!」
すがりつくように伸びてきた手。
転んだ時のものだろう、細かい傷が出来ていて土や石がついている。
「けーちゃん、大丈夫。まず、消毒しよう? な?」
「アタシは、ただ、思ったことを正直に言っただけで……まさか――まさかそのせいで死ぬなんて、思ってなかったの!」
「――!」
祈は目を見張る。
そんな祈の服を掴む蛍の手は、小刻みに震えていて。
空気が張り詰める中、獏間だけはいつものように微笑んでいた。




