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吉原大門事件帳ー小春日和ー  作者: WAKICHI
ー雪見桜ー 終幕 雪見桜
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雪見桜

 前川の法要が終わるや否や、決め手となる小春が攫われた。誰の仕業か分からずにいると、源次郎の前に彦左衛門が現れた。その後を追うのは嫌な気分であったが、小春とは後味の悪い別れであっただけに、やむにやまれぬことだった。


 こうして顔を合わせてみれば、源次郎が口を挟む余地は露ほどもなかった。小春の危機に真っ先に対応したのは彦左衛門であり、その愛を真っ直ぐに求める小春の姿が全ての答えだ。


 騒動が終われば、源次郎が小春を待つ理由は無くなった。


 距離が遠くなれば、諦めて引き返す。

 昔はそうではなかった。自分の背中を追って、何度も小春が走ってきたものだ。しかし小久保と小春が知り合って以来、それが逆の立場になり虚しかった。


 だから小春が追ってきたことに気付いたのはかなり歩いたあとだった。正直、今さら何の用があるのか見当もつかなかったが、どうせいつもの調子だろう。


 源次郎は皮肉めいた笑みをみせた。

「まだ恨み言がいい足りぬとみえる」

 足を止めると、小春が睨んでいた。

「違うわよ」


 肩で息を切らした小春の息が整うまでの間、二人を森の静けさが包んだ。

 いつも小春の近くに立つ源次郎だが、今は他人のように遠く距離にいる。


「また前みたいに逃げられたら困るから、追いかけてきたの」

「逃げるなど男の恥。記憶にないな」


「とぼけても無駄よ。肝心なとこで弱気になるのはいつものことじゃない。女郎の時は逃がしてくれたし、芸子なって、お客をすっぽかしても文句もない。鍵屋の事件が終わったら陸奥に連れていくって豪語してたくせに、結局一人で行ったんでしょ。今度だって芸妓をやめるのに。いつも最期は何も言わずにいなくなるのよね」


「俺もいろいろ忙しいんでな。お前ばかり構ってやれねぇ」

 小春は微笑みをみせた。


「あんたには一度も言わなかった。言う気もなかったし、思ったこともなかった。長い間付き合ってきて、あんたほど憎い奴はいないと思ってた」

「ほらきた」


「待って、聞いて。だけど、あたしが柳橋を出るきっかけになったのは源次郎。

 自由を教えてくれたのも、生きる辛さも、そして最初に愛をくれたのも、全部源次郎だった。だから今、ちゃんと言わなくちゃいけないと思う。たぶんこれが最期になると思うから」


「最期か」

 名残り惜しいが、もう引き戻ることもないだろう。源次郎の心に小春の言葉が沁みた。

「ありがとう源次郎。今まで愛してくれて。ちゃんと幸せになるからもう大丈夫」


 源次郎はしばらく黙っていたが、鼻で笑うとそのまま姿を消した。

 小春もまた、二度と振り返ることなく来た道を戻っていった。



 二人の姿が見えなくなってから、一人の女が源次郎を追いかけた。

「そこのお武家さま。あちきはこれから寂しい女のひとり旅。今宵は万感尽きて眠れぬ者同士の仲にございます。どうか一夜の宿をお貸し下さいませ」


「あいにくだが……」

 そこまで言って断ったのに源次郎は女に釘付けになった。必死に生きようとする女の眼が、今、自分を必要として離さないのだ。


「――なに、ただとは申しませぬ。吉原で鍛え上げたこの手腕で極楽へご案内いたしましょう」

 源次郎には小娘の熱心さが微笑ましく、そして困った。


「吉原では毎夜のことであったろう。それでもまだ人肌恋しいか?」


「あれは仕事でございます故に。小春姐さんにふられた今じゃ、お互いに独り身同士じゃありませんか。でも今宵はいい殿方と出会えて、あちきは嬉しゅうございます」


 雛菊の微笑みは算段のうえだ。それも読み取れるが、ここに置いて去ることも情に欠ける。

「したたかな女だ。お主では小春の代わりすらなれぬ」

「どう言われようとも離しませぬ」


 雛菊は迷いもなく源次郎の手を取って歩き出した。

「さすがの小春姐さんでも、若さでは絶対に勝てませんのよ」


 ※    ※    ※


 月がすっかり高くなって、足元が明るくなってきた。

 春の寒さはいまだ厳しく、孤独と寒さは容赦ない。体の芯から冷えてきて、居ても立ってもいられない。


「早く熱燗で一杯やりてぇのによ。――ううっ我慢、我慢」

 ふたり酒が待ち遠しい。白い息が切なかった。

「小春よぉ……」

 呟きは闇に吸いこまれ、消え入るばかり。


 果たしてこの想いは小春にどれだけ通じているのだろうか。二人の行く末を決めるのは小春が頷くかどうかにかかっている。


 彦左衛門は小春が置屋をすると言ったことに悩まされていた。

 それが望みなら叶えてやりたい気持ちもあるが、彦左衛門も若くはない。待っていられないのだ。


 この歳になって独りで屋敷にいると、寂しさに身を切り刻まれる。それから解放されるだけでもありがたく、小春と一緒に暮らせればこの上ない幸せだ。小春も芸妓をやめて落ちつく場所があれば、それは嬉しいことだろう。


 長く願っていた想いが叶うのは嬉しいが、この後に及んで臆している。この時だからこそ、見える真実がある。


 歳を重ねたゆえに先が見えてしまう。順番からして先に逝く自分が小春に何を残してやれるか。大した碌もなく、自分が老いた世話を若い小春に背負わせるのか。後添えとなっても、芸を失った小春が今までのように活き活きとしていられるかと思えば疑問が湧く。


 元妻の志津は日々の生活に腐ってしまった。まして小春は吉原や芸妓の華やいだ世界の人間であり、男と女の駆け引きで生きてきたようなものだ。ただ純粋に、主人の帰りを待つだけの日々に何の面白味があろう。


 路傍に咲いた花の美しさに惚れて刈り取ると、いずれしおれてしまうのは必定。

 ならば刈り取らずとも良いではないか。そうすれば冬を越えて、その場所には再び花が咲く。


 小春にはいつまでも美しく咲いてもらいたい。それが彦左衛門の真の望みならば、小春が選ぶ道ならばどちらでも受け入れるべきであろう。


「このままが一番かもなぁ」


 月を見上げて、彦左衛門は静かに笑った。


 白い吐息がはるか高みへのぼっていく。夜の帳の中で風を受けて、ぼんやりと山桜が散っている。いつか見た雪見桜を思い出し、本当に春が来たことを実感した。


 確かに強く求めれば、その願いは叶う。問題はそれが小春の幸せに繋がるかどうかだ。かつて野口秀忠に「目の前にありし幸福を、なおも放る愚か者」と呼ばれた時があったのを思い出した。本当にそのとおりである。


 何も告げずに、もうしばらく男と女でいるのもいい。さすれば時が解決してくれよう。


 しばらくして小春が走って戻ってきた。

 その表情は暗がりでも分かるほど明るく、すがすがしい微笑みだった。

「待っていてくださったのですね」


 答える間もなく、小春が抱きついて、頬と頬が触れ合った。長く動いていた小春は熱く、冷えきった彦左衛門を温めていく。

「ほら。こんなに冷たくなって……でも嬉しゅうございます。源次郎とちゃんとお別れをしてまいりました」

 彦左衛門は黙って頷いただけなのが小春は不満だ。


 いつもならばもっと陽気に帰途につくはずの彦左衛門が心に何かを溜めている。

「帰ろう」

 小春の笑顔が消え、きっぱりと言い放った。

「帰れませぬ」


 彦左衛門の頭はすでに熱燗で一杯つけることであった。

「帰れない?」


「どこへ帰れというのです? 芸妓をやめ置屋の出入りは客扱い。長屋も引き払って、つての源次郎ともおさらばしたところ。この天涯孤独の女、嫁にほしいと風の噂には聞けども、言われた覚えはありゃんせん」


 彦左衛門はしばらく眉間に皺をよせていた。小春も勢いよく啖呵は切ったものの、内では心臓が早鐘を鳴らしている。今すぐ聞きたい言葉が、どうしてすぐに出ないものか。一生面倒みてやるぐらいの言葉が欲しい。ずっと二人で生きていく覚悟はできているのに。


「……彦さま。」


 彦左衛門は小春の細い指を撫でた。

「無論、うちに戻るに決まっておろうが。今宵も盃を酌み交わそう」


 はぐらかされた。欲しい言葉はそうではなかった。手を引く彦左衛門は優しいが背中で語る言葉が痛々しい。


「扇子や三味線を持ったこの手が、水仕事や針仕事で荒れるのは俺も切ないのだ。白塗りと酒の臭い。宴を抜きにお前が生きていけるとは思えぬ」


 小春は唇を震わせた。つま先から頭の天辺まで怒りが突き抜けた。

「最初に芸妓をしろとおっしゃったのは彦さまではないですか。確かに芸妓はやりがいのある仕事でしたよ。でも芸の腕が上がらなくて苦しんだ時も、嫌な客を相手して辛い時もあったんです。それでも続けたのは、彦さまが修業に精をだす姿を喜んでくれたから!


 彦さまは芸妓の小春だけが好きなんでしょう? だったらいい。あたしずうっと芸妓を続けます。そうなれば彦さまはずっと好いてくださるもの!」


 捨て鉢になる小春に彦左衛門も窮した。

「誤解だ。別に芸妓でなかろうとも」

「ではもし、小春のすべてを、受け入れて下さるなら・・・・・・わたくしを、ただの女に」

 勇気を搾り出して、切れ切れになった言葉もついに尽きて、小春は泣き崩れそうになった。


 すると全身が揺さぶられるほどにきつく抱きしめられた。

「あい分かった。泣くな。女子の涙は嬉し泣きに限る」

「ならばどうかそのように泣かさせてくださいませ」


 彦左衛門は小春の涙をそっと拭き、天を仰いだ。もう小春を月に喩え、寂しさを紛らわすこともないだろう。


「新月、三日月、満月、いづれの月も、月は月でかわりなし。ならば蜜月みつげつと参ろうか。いかに世間の闇が暗かろうとも、今宵手に入れたからには、決して離しはせぬぞ」



 ***おわり***


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