愛すればこそ
雛菊は拳を震えあがらせて立ちあがった。
「そう怒るな。ここに留まらせ自由を奪ったことは謝ろう。しかし危害を加えるつもりない。そうしなければ復讐に走るだろうと思ってのことだ。私の言葉など聞き入れてくれそうにないしな。君は本当にお両によく似ている」
目が細くたれて慈愛に満ちた顔に見えても、邪悪な瞳だ。派手な袈裟で堂々と歩いてくると、二人は後退した。
「気安く母の名を呼ぶな! あちきは見たんだ。この場所であんたに追われてお母は崖から……この人殺し!!」
「裏切るつもりはなかった。お両は私にとって唯一の……だからこそお両が亡くなったあとも、君たちのことを見守っていた」
「見守っていた? ぞっとするわ。吉原にいると知ったら、何年も客になろうとしていたくせにふざけないで!」
雛菊は簪を抜いて飛びかかった。しかし簡単に避けられ、反対に簪を奪われ、胸元まで引き寄せられた。鼻先まで近づくと火花が散るくらいに雛菊が睨んだが、抵抗も空しい。
「君は狙われている。吉原から出た後、私が助けなかったなら、今頃はーー」
「うるさい! あんたが殺したんだ! お梅も! お竹も! みんな……みんな死んでしまった。いったい何なのよ! 何の権利があって」
「血の繋がった娘だからだ」
お松は言葉を失い、広範の真意を探る。
「お両は“私は誰のものにもならない”と言った。そして“お松には手を出すな”と言ったのだ。そうして崖から身を投じた。私は正気ではいられなかった。彼女が死を望むほど、私が傷つけたのかと悔いる毎日だった。だから娘と分かっていながら、お両の遺言どおり、君が吉原へ行くのを止めなかった。
しかしお両の最後の時、私の隣にもう一人いたのだ。その男が原因だと分かったのは最近だ」
「もう一人?」
「その男はうちの寺と同様の恰好をして、托鉢と称して家に乱入し、暴行を繰り返していた。お両はそのことで私に相談をしてきたが、僧侶の中にそのような不届き者はいなかった。お両は信じてくれず、私は疑われていた。
そして娘だけは守ろうと、君らを家から出したのだ。けれどそれも男の狙いのうちだった。私もそのことに気付けず、一番熱心であった駿河屋へ預けた。そのことを今でも後悔している。気丈な君が家を出たかった原因は継母に虐められただけではなかったはずだ」
雛菊は大きな目をさらに丸くした。
駿河屋に住んですぐのことだ。人の気配のない小部屋に連れていかれた。燭台の光に照らされ、暗闇から照らされたのは、美しい着物と髪かざりの数々だった。内緒だからと念を押され、派手に化粧をして着飾らせてもらった。まるでどこかの姫になったようだと褒められた。
可愛いと思ってくれるからこそ、着飾らせてくれる。けれど着付けを手伝ってもらうのは気分の良いものではなかった。太腿や胸に触れられ、髪を結い直すのに撫でられる指に耐えなければいけなかったからだ。着飾ると、養父はとても興奮し、褒め称えてくれたものだ。
何度も繰り返されるたびに、雛人形でいることは苦痛になった。逃げ出したいと思った時、さらに義母から虐められ、食が細くなり具合が悪くなった。
母が死んで、詠唱寺の誰かに狙われていると思うとすぐに去る必要があった。それで吉原に入った。それからは駿河屋のことは悪い記憶として思いださないようにしていた。じっとりと濡れた視線を思い出すのもおぞましい。あの恰好が清楚な姫ではなく、色香漂う花魁の姿だと知ったのは、ずっと後のこと。
母親がお松に手を出すなと言ったのは、広範ではなかった。養父の八十吉のことである。
「お両は君を迎えに行った。あの日、私が君の養父と居合わせていることに衝撃を受けたのだ。私を信じてくれていただけに裏切られたと、深く絶望したのだ」
「もし今の話が本当だったとしても……どうして今まで黙っていたの」
広範は小春を眺めた。
「悪事に付き合うことで詠唱寺が保たれている。末端の寺は常に貧しい。いったん金の旨味を覚えてしまえば、毒と分かっていてもやめられぬ。身請けには大きな金が動くが、親元に帰るとなれば一銭の利益も出ない。
山吹桜の店主はその芸子を狙っていた。吉原で有名な芸子なら、数多の旦那が我先にと名乗りをあげることだろう。金を受け取ってしまえば、小春さんはもう逃げられぬ。そして雛菊もお竹として売られてしまうだろう。私は多くの過ちを犯した。
今は寺の方針に従うしかなかった自分を恥じている。お梅とお竹が死んでしまい、今更ながら目が覚めた。お松、君だけは幸せになってほしい。もうすぐ八十吉が小春さんを奪いに来る。だから二人とも逃げなさい」
広範は財布を出し、お松に預けて背中を押す。
「すまない。この程度のことしかできぬ。もう悪い男に捕まるな」
すると山道を男が上がってきた。
「都合の悪いことは隠して、立ち去らせようと都合が良すぎはしないかね」
駿河屋の八十吉は商人で人当たりが良いようだが、この時ばかりは息を荒げて笑っていた。
「仏道にある者が欲にまみれ、人を殺しておいて、親のつもりか? お松、こいつはとんでもないクソ坊主なのだぞ」
「――人殺し?」
雛菊はどちらからも逃げられず、崖の端へ追いつめられていく。
「雛菊という女郎がお両に似ていると教えてやったのだ。するとどうだ、頭巾をかぶって正体を隠してまで探して回り、挙句の果てに遣り手の女を絞め殺した!」
「言うな!」
広範は頭を抱えて低く唸りだした。何かに耐えるように、身体が震えている。雛菊は小春にしがみ付いた。八十吉はずっと笑っていた。
「お両はとんでもなく気の強い女だったが、縛ると観念して喜んで尻を振ったぜ」
「貴様! 愚弄するな!」
広範の拳を八十吉は握って受け止めた。
「詠唱寺で修行させてもらっていたんだ。あんたの手腕は、全部知っている。昼でも夜でもあんたじゃ役不足なんだよ」
握られた拳を引かれ、広範は倒れた。その耳元で八十吉は囁いた。
「死んだお両を追い求めても無駄。アレのどこが良いやら。しかしお松を産んだことは褒めてやろう。まことに美しく育ったものだ。幼い頃から目をかけてきたが予想以上だ」
八十吉の視線に雛菊は硬直した。ねっとりとした視線は頭巾を被っていた時に感じたのと同じ感覚だ。長い間、逃げ続けてきた男が八十吉であったことに身体が震える。養父であった時の面影はどこにもなかった。
「久しぶりだね。お松。さぁ帰ろうか。お竹が身代わりになってくれたから、君はもう自由だ。思う存分、私のもとで」
「嫌よ!」
小春は機を見て、とっさに体当たりした。
「逃げて!」
雛菊は逃げなかった。簪一本で殺せる相手ではないが、それでも逃げることよりも怒りが増した。
「よくもお母を!」
八十吉の視線は野獣に似ていた。狙われた雛菊は思わず一歩下がった。
「お松はずっと私の傍に置こうと決めていた。まさか吉原へ行くとはなぁ。ずっと会いたかったよ。金ならいくらでもくれてやるのに他の男とばかり寝やがって。私がどれだけお松のこと想っていたか、これからゆっくり教えてあげよう」
「駄目よ!」
小春は八十吉の前へ立ちはだかったが、あっさりと突き飛ばされた。それでも諦めずに八十吉の袖を掴む。
「ええい! うるさいわ! この、夜鷹風情が!」
小春はフフンと笑った。
「芸妓と夜鷹の区別もつかないのかい? こちとら一端の芸妓、たとえ殿様のご命令でも芸は売っても体は売らないよ」
「噂通りだな、深川の芸子、小春よ。しかしこれ以上逆らうならば、お前もお竹と同じように縛りながら極楽浄土に旅立たせるぞ。それともお梅のように自害し地獄で果てる道でも選ぶか? 嫌だったら大人しくしていろ」
小春は唇を噛んだ。
「芸子も花魁も女はみな媚びを売り、身体を売る。そうやって生きていくものなのだよ。金も力も権威も無い。それが女だ。他に何ができるというのだ」
八十吉は小春の襟を掴みあげ、地に投げた。
「その細い腕で私を倒す力があるのか? それとも減らず口で説得するつもりか? ――どちらも私を倒すことはできん。女など無知で無力な生き物よ!」
小春はそれでも八十吉を留め置くために、しつこく絡んだ。その間に広範は雛菊を逃がし、小春の助けに入った。
「そこまでにしろ」
雛菊はわななく口もとを抑え、山の林を走った。雛菊にはこうするしかなかった。長い間逃げてきた。そして今も逃げ続けるその先に、希望があると信じて進むしかない。
小春もまた広範の助けを得て、雛菊を追った。山道を下るが、道も分からず雛菊の姿もない。遠くから耳を塞ぐような悲鳴がして、小春は泣きそうになった。広範が庇ってくれたが、八十吉には敵わなかったようだ。
小春の背に迫る危機に歩みがどんどん速くなり、今にも転びそうなほどの勢いで、落石や木の葉と同様にすべり落ちながら逃げた。草履などとっくに吹っ飛んで、足袋は泥でまみれ髪も着物も崩れた。
身に降りかかった火の粉は大きすぎる厄災だった。
八十吉の姿が見えた。右も左も分からぬ山中を必死で逃げる小春を獲物とし、慣れた山道で狩りを楽しんでいる。小春が撒いたかと思えば突然近くに現われることが幾度となく続いた。
小春は身も心も追い詰められた。これで終いになるかと思うと、彦左衛門の柔らかな笑顔が懐かしい。
やがて寺からの表側の参道に出た。涼やかな風が吹く、少し広まった場所に出た。遅咲きの山桜が咲いて、花弁を散らしている。整然と並ぶ高い杉と空が、列をなして下の里へといざなっていた。その向こうには江戸の賑わいがある。夕闇で光っているのは吉原の灯りだろうか。
けれど進むべき麓側に八十吉が現れ、立ちふさがった。
ぎりぎりの緊張感を楽しむように笑っている。
「あきらめろ。そろそろ山吹の旦那がくる時間だ。お松の行先は見当がついている。どうせ佐助のところだろう。馬鹿な女だよ、佐助は今番所にいるから連絡はつかぬというのに。店の前をフラフラしているところをとっ捕まえてやるさ」
小春は空を見上げた。
夕闇迫る桜花舞い散る場所。ここがさだめの場所なのか。




