雛菊
間近に鐘の音が聞こえて、一刻ほど経った頃、再び扉が開く音がした。
まず目隠しが外されて、蔵にいることが分かった。目隠しを取ったのは女で、大きく愛らしい瞳が親しげだった。ひとさし指を立てて「静かにね」といって猿轡を解いてくれた。
「あいつが来る前に逃げましょう」
小春は外の眩しさをこらえながら周囲を見回した。
屋敷の裏手にある蔵で、涼しげな風にほっとした。女は小春の手を取って、すぐ裏の山の崖を降りはじめた。芸妓の姿をしているが、かなり汚れている。
「山道は使えない。――あいつが通るから」
「ありがとうございます。私、小春と申します。深川で芸妓をしておりますの」
「知ってるよ。あんたは有名な芸妓だからね――お竹も芸妓で吉原に出入りしてたんだよ」
「吉原なら私も時々。――あぁ、それで! どうりであなたと初めて合った感じがしないと思ったわ」
小春の言葉に芸妓姿の女が振り返り、悪戯っぽく笑った。
「初めてじゃないよ。座敷で何度か見た事ある――あんた、捕り手のアレだろ?」
「――はい?」
小春はあられもない口ぶりに呆気にとられた。
「やだアレだなんて。恥ずかしいわ」
「捕り手から雛菊が死んだことは聞いてるかい?」
「ええ。」
「その雛菊があちき」
「え?」
小春はきょとんと目を丸くした。どんな冗談だろうと思ったが、嘘をついているようにはみえなかった。山の薄暗い場所で、少し汚れた女を見たら誰だって怖いモノを想像する。
「その、もしかして……お化け?」
雛菊は大きな眼をキラキラさせて笑った。
「あんた 馬鹿? 芸妓ってのはホント馬鹿が多いわ」
「ちょっと。芸妓をばかにしないでよ」
雛菊は強い眼で小春を睨んだ。
「芸妓は芸だけしときゃいいのさ。なのに中途半端に体を売るから男に騙される。吉原で心底体を張ってみな。命がけで男とやり合えば見抜けない嘘なんてないんだよ」
小春は眼をしばたいた。
「そうね。その通りだわ」
「なのにでしゃばって探りをいれやがってさ。おまけに死んでしまうなんて、本当に馬鹿……」
雛菊の言葉は弱くなっていき最期は消え入ってしまった。小春は勝手が分からない。
「あなたは芸妓じゃないの? いったい誰の話をしているの?」
唇を固く結んだまま、しばらく黙っていた。
「あちきは三姉妹なんだ。お竹とお梅、三つ子だから顔もそっくりさ。でも化粧をすれば誰も気付かない。 吉原なら恰好も全部変えられて過去を捨てられる。
綺麗な衣装を着て、桜の咲く仲ノ町通りを歩く花魁道中に夢をみたのさ。だけど大半は体を売るのが本職で、花魁なんて一部の見世物でしかないだろ。
吉原に入った後はひどく後悔したし、お竹のように大門を越えられたならどんなにいいだろうって思った。一日でもいい。身代わりになってくれって、喉もとまで出かけた。だけどお竹に体を売らせるなんて、とても出来ないし言えない。それがあちきの選んだ道だから……なのにお竹は!」
小春は雛菊を抱き寄せた。言葉ではとても救いきれなかった。雛菊は顔を伏せ、ごめんねと繰返し泣いた。
「何度か、山吹桜にお竹が遊びにきてくれたことがあってね。こっそり交換して芸子の真似をして外に出たことがあるんだよ。でもそれを山吹桜の主に知られてしまって利用されたんだ。
とても嫌な男がいて、ずっと逃げてきたの。今度だって逃げきれるはずだった。なのにお竹を呼んで、身代わりされた! ぜんぶあちきのせいなんだよ。しかもあちきはお竹のふりをして、大門くぐって逃げた。とんだ臆病者さ」
小春は雛菊をそっと抱いた。
「臆病者なんかじゃないわ。こうして私を助けてくれたじゃない?」
雛菊はよろよろと立ち上がり、さらに先に進んだ。二人で助け合いながら、険しい道を降りた。すると林が途切れて草叢に出ることができた。明るい陽射しが二人に希望をもたらした。
「もうすぐ里に続く裏道だよ」
雛菊が小春の手を引いて振返る。そして互いに微笑みあった。
まるで女同士の小さな冒険のように、それぞれに苦しんでいたことから少しだけ解放されたのだった。
「油断すると崖に落ちるよ」
「崖?」
二人はしっかり手を繋ぎ合った。
胸元までくる草叢はやや登りぎみで、頂上の向こうにあると思った草叢は一瞬で途切れて崖となった。
「ここの坊主は最低だよ。とくにあいつは獣以下。見てて。絶対に殺してやる」
「雛菊さん、先ほどから“あいつ”とおっしゃっているのはあのお坊さん? 私を攫った方は虚無僧の恰好をしていました。でもなにも思い当たる節がございませんの」
雛菊は疲れた足を擦りながら草叢に座った。
「まぁ聞いておくれ。
あちきが生まれたのはほったて小屋さ。屋根はあるけど壁じゅう穴だらけ。まるで外と同じくらい寒くてね。親父は出てったきりで戻らないし、母親と女の三つ子とくりゃ食いつなぐのは無理だったさ。
まず病弱なお梅が近くの親戚に預けられた。二人目のお竹は器用だったから芸妓さんに見初められて、少し遠くに住んだ。最期にあちきが駿河屋に養女にだされた。けっこう裕福に暮らせたけど、母親を忘れたことなんてない。なにしろ貧乏小町って呼ばれるぐらい綺麗で、あちきはその娘だもん」
小春は微笑む。
「お母さまが大好きなのね」
「そりゃ自慢のお母だもの。あんたはどうなんだい?」
養女に出された時も、柳橋の家を出る時も、辛い過去に封をしてきた小春である。過去を語れる雛菊が羨ましく思える。
「親の顔なんて、もう思い出せないわ」
「ふうん。そんなもんかねぇ」
「いいのよ。――今大事な人がいるから!」
小春は言った後に恥ずかしくなって思わず顔を隠した。
「はぁ~、今日は熱いね、のろけるね。あちきもそんな素敵な恋がしてみたいなぁ!」
雛菊から笑顔が消え、決意の色に変わっていった。
「でも、その前にやることがあるんだ。お梅もお竹も。お母だってそう願ってる」
小春は心に復讐を決めた雛菊を留めさせたいが、戸惑うばかりだ。
「同じ母親でも、比べて駿河屋の後釜なんて根性が汚い女で最低だったし、大嫌いだった。あの女に意地悪されて、ずっと家に帰りたいと思ってた。そんなあちきにお梅はよく文をくれた」
「仲が良いのね」
「そうさ。最初は仲のいい親子の愚痴みたいな内容だったけど、それがどんどん変わっていった」
雛菊は日の傾く空を見上げた。
「変わったっていうと?」
「恨みごとさ。坊主に供養する余裕があるなら、娘を全部外に出さなくてもよかったのにとか。病の自分をやっかい払いのように捨てたとか。そういうこと。母親は家でひとり、何をしているんだろうって思ったよ。駿河屋で冷たくされて、結局家に戻ることになって、この寺まで来たの。
もうすぐお母に会えると思うと嬉しくて。待ちきれず山道を降りて迎えにいった。でもいなくて。寺の鐘が鳴って、あきらめかけた時この抜け道を思い出したんだ。そう、この場所」
雛菊は崖の端を指さした。
「なつかしい声だった。でも聞けたのは一瞬だったわ」
「?」
「お松には手をださないでって、お母は必死になって叫んでいたの。そして揉み合っているうちに崖から姿が消えた。
小さい頃だから理由なんて分からなかった。ただ坊主が敵だってことはよく分かった。お母は坊主から守ってくれてたんだって本能で感づいた。だから逃げた。ただ怖かった。それで吉原入りを決めたの」
「辛いわね」
「今だから分かる。托鉢は修業なんかじゃなかった。
母は娘が年頃になる前に、あの家から私たちを逃がしていたの。娘を遠くに出さなきゃ、坊主の恰好のカモにされる。あのまま寺にいたら、あちきは寺で吉原以上の地獄の日々を……」
雛菊は拳を打ちつけた。
「坊主の皮を着た畜生だよ。里に下りれば自然と禁も緩み、欲も湧くけど、そこを抑えるのが僧侶ってものでしょ。なのに我慢できずに襲うなんて」
「それをどこで?」
「お竹が調べていたことだよ。 貧乏で夫が留守の家を狙って托鉢で回り、恰好の家を見つけたら襲う。妻は不貞を誰にも言えず、坊主も誰にも知られることがない。そうやって今までの節制した生活の鬱憤を晴らしてた」
「!」
小春は口に手をあてた。そして眼を丸くした。
雛菊は後を振り返って同じように驚いた。
「その話はどこで調べた? それは誤解だよ」
それは男の声で、一人の坊主が立っていた。大柄な体格で夕日を背負い、二人は影に包まれた。
「さぁ二人とも、怖がることはない。こちらにおいで」




