(23)魔性の女
気がつけば、三日が経っていた。
痛みと出血で朦朧としていた間に多くの夢をみた。熱にうなされ、うわ言を繰り返していたらしい。志津がそのようなことを言っていた。
廊下側の障子を開け放つと整えられた松の庭。雑草一本生えていないのは手入れが行き届いているせいだ。家の様子など今まで振り返りもしなかったが、志津もよくやってくれていたのだ。
「志津、こちらへ参れ」
彦左衛門は包帯を巻いた右手を伸ばし、志津の耳もとの髪を擦った。
「些か乱れておる」
年末の急がしさに加え、主が重傷を追って怪我の看病とくれば、気苦労も多いことだろう。
「旦那さま……」
涙ぐむ志津に彦左衛門の目は優しかった。
歳の瀬の大掃除、煤払いの笹竹が小久保邸の塀の上を横切っていく。
「今年もあとわずかだな」
小久保彦左衛門が布団から起き出すと、志津が背中にそっと手をやった。
いつもなら強気な妻が、華奢に見える。
「志津には苦労をかけて申し訳ない……年の瀬では忙しかろう」
「苦労など。旦那さまのお命が助かって、志津は幸せにございます」
その時小久保家の塀の向こうから、微かに三味線の音が聞こえたような気がした。
――小春。そこに居るのか。
また独りで耐えておるのか?
「志津。俺が寝ている間に来客があっただろう?」
「ええ。銀次さんがお見えになりました」
志津は表情を固くして頷いた。
「それだけか?」
「ええ。――確かに」
志津は即答する。
「隠してはおるまいな?」
彦左衛門の瞳がいつもの輝きを取り戻していた。
志津は優しく微笑んだ。
主人が三日間うなされている間に、何度『小春』と口にしたことか。その度に志津の心は狂わんばかりに憎悪した。
全てはあの女のせい。魔性の女に主人をとられてなるものですか!
冬の冷たい風が路上に小さなつむじ風を作った。
白く続く壁に若い女が独り。もたれかかってその様子を見ている。精彩がなく虚ろな目では、せっかくの美人も台無しだった。通りがかりの者に「具合でも悪いのか?」と聞かれても返事もない。
長い間そうしていて、壁と背中の密着した部分がすっかり暖かくなっていた。乱れた島田崩しが切迫した空気を醸し出している。虚しさと悲しさに呑み込まれそうになっても、かろうじて正気を保つ手。しっかりと三味線を握りしめていた。
小春には、この三味線の音だけが頼りだった。
小春が何度小久保家の門を叩いても、志津は小春を追い払った。
塩をまかれても、小春は引き下がらなかった。土下座もした。ただ彦左衛門の容態が心配で、「一目でも逢いたい」という気持ちが先に立っていた。
結局、願いは叶わなかった。それでも諦められなかった。
小久保邸の壁は小春の背丈より高い。覗くこともできず、中の様子を伺い知ることができない。塀の上に整えられた松だけが見える。松の庭の奥に彦左衛門の寝所があるはずだ。
壁一枚隔てた、その先に彦左衛門がいる。
距離にしてみればそう遠くない。けれど壁は大きく厚く感じた。
彦左衛門の状態がどうなのか、志津は小春に一切話してくれない。銀次の話では瀕死の重傷を負っているという。願わくば冗談で、大した怪我ではないと笑い声がきけたなら。そう信じさせてほしい。例えそれが志津と仲睦まじい姿であろうとも構わない。
彦左衛門の声を聞くまではこの場を離れることもできず、仕事以外の時間はそうして日に何度もこの場所を訪れている。もちろん見張りあってのことだが、これはおテツとの長年の付き合いから、特別の配慮があってのことだ。
朝と夕、食事の仕度で志津が部屋から離れているであろう時刻に三味線で長唄をうたう。その声に気付いてくれたなら、きっと……。
つん、てん。しゃん……。
つつ、てん。しゃん……。
そうして、今日も帰るしかないと三味線を置いた時、上からカツンと何かが降ってきた。
紙を包んだ石。
小春は藁を掴む思いでその紙を広げた。
くしゃくしゃになった懐紙には彦左衛門の筆跡がある。内容よりも、まず彦左衛門が無事であったことに涙が出て、とても読むどころではない。懐紙をしっかりと胸に抱きしめる。
本当は彦左衛門の名を大声で叫んでしまいたい。塀向こうにいる彦左衛門と逢い、ありのままの気持ちをぶつけてしまいたい。
小春は声を漏らさぬように口元を押さえた。ただその場にうずくまり、震えたのだ。
志津に見つかれば、屋敷に近づくことさえできなくなる。小春の中で志津の顔が脳裏に浮かぶと苦虫を噛みつぶしたような思いになる。
それでも全ては彦左衛門のため。志津が妻である限り小春は日陰の身だ。許されぬ身なのだ。もし彦左衛門の前で志津と争うようなことになれば、彼がどれほど傷つくか。
彦左衛門の苦しむ姿は何に代えても見たくない。覚悟を決めたではないか。影から彦左衛門を支える。一度自分で決めた事を曲げるわけにはいかない。
それでもひそかに思いの一分を吐き出した。
「ひこさま……」
じっと目を閉じ、心を落ち着かせてから、ゆっくりと目を通す。
達筆なのにわざとひらがなだけを使って、小春に分かるように書いてある。彦左衛門の優しさが胸に染みる。たどたどしく一文字づつ辿ってみる。
『あ…い、に・ゆ…く。な・か・や・て・まて』
そしてもう一度紙に包まれた石が壁を越えて飛んできた。同時に、小久保邸の中から女の驚く声がした。
――志津だ。
「旦那さま、何をなさられていらっしゃいますの?」
何かを投げている様子に志津は訝しがっている。彦左衛門は平然としてもう一度石を拾い、そして庭へ投げた。
「寝飽きた。塀に石を投げて腕がどこまで動くか試していたところだ」
それは嘘か真か。彦左衛門は揺るぎなく泰然としている。
「まぁ……石など投げて危ないではありませんか。拾って参ります」
「ただの石だ。放っておけ」
彦左衛門の制止が志津の心を動かした。それは女の直感だ。まさかとは思うが腑に落ちない。
志津は小走りに外へ出た。
冬の小道では、乾いた落ち葉が風に転がるだけで人の気配など無かった。
小春日和の芸妓の小春。
帰りの足は軽く、珍しく頬は紅潮していた。
明るい笑顔で浅草雷門の前を通りすぎる。
――逢いに行く。長屋で待て。
期待に胸が膨らむ。
そしてもう一枚の紙の、あの言葉。
なんてすてきな言葉だろう。この紙があれば一生だって耐えられるかもしれない。
小春は大事そうに胸に手を充て、紙があることを確かめ、そして安堵した。
そして彦左衛門に会えるのを心待ちにして、江戸の雑踏の中へ消えていった。




