侵食
ユルグの指導は日中だけに留まらない。なんせ、フィノには覚えることが山ほどあるのだ。
剣や魔法の戦闘技術もだが、文字の読み書きや言葉の覚え、それと一般的な教養。
それを夜が更けてから寝るまでの時間の合間に教えてやる。
流石に文字の読み書きについては一朝一夕にはいかないことは、ユルグも承知していた。
彼も勇者として王都へ連れて行かれた後の一ヶ月はこういった事を叩き込まれたので、その大変さは骨身に染みているのだ。
「んぅ……むずかしい」
「簡単な計算と文字の読み書きは覚えておいて損はないんだ。冒険者には学のない人間でもなれるけど、自分で分かるのなら不自由もないだろ」
「うん、がんばるね」
素直に頷いたフィノは、ユルグが用意した教本へ目を落とした。
その様子を眺めながら、ユルグは今後の予定を立てる。
明日、昼前にもう一度フィノに手解きをして、その結果如何では午後からギルドで依頼を受けても良いかもしれない。
そうなった場合、ユルグも同伴するつもりだ。右腕はまだ治りきっていないが、それほど難易度の高い依頼を受けるつもりはない。負傷しているユルグでもフィノのお守りくらいは十分に務まるだろう。
フィノの魔法の習得は依頼中に平行して行うことにしよう。流石にギルドの宿舎内で魔法をぶっ放しては苦情が来るかもしれない。
しかしその場合、覚えてもらう魔法は一つに絞った方が、効率が良い。一般的に扱いやすいと言われているのは炎の魔法だ。
初心者であれば〈ファイアボール〉が、一番無難だろう。
以前、ユルグが雨林で使った〈バーンアウト〉は、〈ファイアボール〉の上位互換である。同じ火球を飛ばす魔法だが、威力が段違いなのだ。
初級の〈ファイアボール〉では、敵を焼き殺すまでには至らない。精々火傷を負わせるくらいの威力しか出せないものだ。
「――そういうことだから、明日は忙しくなる。今日はもうやめにして休んだ方が良い」
「ユルグは?」
「俺は少しやることがあるから、先に寝ていてくれ」
「うん……おやすみ」
大きなあくびをしてフィノは机から立つと、ベッドへと潜り込んだ。
少ししてすやすやと寝息を立て始めたのを見て、ユルグは右腕に巻いていた包帯に手を掛ける。
解いた包帯の内側から現れたのは、まだら模様に黒く変色した痣が浮き出た右腕。それを目にしたユルグは小さく息を吐いて顔を顰めた。
これに気づいたのは昨日の事だ。風呂から上がって、包帯を変えようとした時に気づいた。
この黒い痣は瘴気の毒だ。おそらく、獣魔に噛まれた傷から伝って侵食されたのだろう。これは進行を遅らせられても治す事は出来ない。
しかし、だからと言って悲観することはないのだ。瘴気に侵されたからといってすぐに死ぬようなことはない。ただほんの少し寿命が削れるだけ。それよりも厄介なものは別にある。
右腕の前腕――獣魔に噛まれた箇所から指先までの感覚が乏しい。力が思ったように入らないのだ。麻痺しているような感覚に近い。けれどまったく力が入らないというわけではなかった。
握り拳を作って力の限り握りしめる。そこまでやって、やっと右の手のひらを閉じられる。両の手のひらを閉じたり開いたりして、何度か確認したがどうやっても右手ではそれが限界だった。
この状態では剣を握ることなど、不可能では無いにしろ難しいと言わざるを得ない。
しかし、症状を緩和させる方法はある。神殿や教会に置いてある聖水に浸した包帯で患部を覆っておけば、多少なりともマシにはなるし身体の侵食も抑えられる。
瘴気に侵された者への対処は、これしか方法が無いのだ。根本治療は不可能なのである。
しかしそれは純度の高い聖水でないと効果は殆ど無い。メルテルの街の教会では高純度の聖水は置いてない。アルディア帝国の帝都であるゴルガ。そこにある神殿ならばユルグの欲しているものがあるはずだ。
メルテルから帝都までは馬車で向かって一日と半日を要する。向かうなら早いほうが良いが、馬車代は思ったよりも高い。片道で一人二百ガルド。そんな金を払ってまで向かうのなら、メルテルには戻らない方が良い。そうするとフィノも連れて行くことになるから、しめて移動で四百ガルドかかる。当然、そんな大金は今のユルグの手持ちにはない。
金が無いのなら歩いて行けば良いと思うだろうが、アルディアは国土が広い。とても歩いて行ける距離では無いのだ。
「……まあ、なんとかなるか」
上手くいけば明日からは資金稼ぎに繰り出せる。流石にフィノが慣れるまでユルグも目を掛けなければならないが、問題ないと判断したのなら一人で依頼をこなしてもらうつもりだ。勿論、その間にユルグも適当な依頼を受ける。二人の稼ぎがあれば馬車代なんて二日もあれば十分だ。
――翌日。宿舎、中庭にて。
言葉通りに、ユルグはフィノへと昨日の修練の続きをみていた。
「やるじゃないか」
微かに口元を緩めて、聞こえた賞賛にフィノは破顔する。
「ほんと!?」
「敵と対峙する時は状況を読んで常に頭を働かせなきゃいけないんだ。お前、昨日みたいになりふり構わず突っ込んでは来なかっただろ」
――なぜだ、とユルグはフィノに問う。
「んぅ……ころばしてくるから?」
「それが理解出来ているなら上出来だよ。それが分かってたから、昨日の轍は踏まなかっただろ」
「うん」
「戦い慣れてないうちは相手の出方を見て、それから動いても遅くは無い。動かれる前に先手を打ってやろうなんてのは、場数を踏んでからじゃ無いと痛い目を見るからな」
言って、ユルグは左手に持っていた剣を鞘に収める。
「これならギルドの依頼を受けても良さそうだな」
「ひとりで?」
「最初は俺も着いていく。問題無さそうだったら次回からは一人でやってもらう」
「んぅ、わかった」
ユルグの答えに、フィノはピンと背筋を伸ばした。
やはり多少なりとも緊張はするみたいだ。
「何事も経験だ。手に余るようだと判断したら無理強いはしない」
「う、うん」
「それじゃあ、準備してギルドに向かおうか」




