柔らかなひと時
翌日、ユルグの目覚めは朝早いものとなった。
怪我の痛みでよく寝付けなかったのもあるが……一人でしたかったことがあるのだ。
気持ち良さそうに寝ているフィノを起こさないように、ユルグはこっそりとベッドから這い出た。
昨夜、どうしても一緒に寝たいと粘ったフィノに根負けして眠ったが、やましいことは何もしていない。そんな気も起きないというのが正解である。そもそも怪我人でもある。痛みでそれどころではない。
静かに忍んで、ユルグは背嚢を掴むと部屋を出た。
そのまま静かな廊下を歩いて、中庭のテラスに向かう。
「ふぅ、静かな良い場所だ」
椅子を引いて座ると、背嚢から紙と筆を取り出す。
遠方にいるミアに近況報告の手紙を書こうとしているのだ。
出がけにエルリレオに手紙の一つでも出せと、それはもうしつこく言われた。だからではないが、そろそろしたためて送ろうと思い立った、ということだ。
もちろん手紙の内容はしっかりと考えて書かなくてはならない。
間違っても怪我をしただとか、そういった不安を煽るようなことはご法度だ。
「……こんなもんか?」
書いた内容を読み返すと、それはもうただの報告書かと見紛うくらいの簡潔な仕上がりになった。
今は帝都にいること。
予定よりも帰るのが遅れてしまうこと。
「これくらいしか書くことがない……」
流石にこれではマズイとユルグは焦った。
しかし、これ以上何を書けばいいのか。
頭を抱えて悩んでいると――
「あら、早起きですね」
聞こえた声に顔を上げると、ユルグを見つけたエルレインがこちらに近づいてきた。
こんな朝早くから何をやっているのかと、彼女はユルグの手元を覗き込む。
「手紙を書いているのですか?」
「ああ、残してきた妻に」
「えっ!? ご結婚されているの!?」
どういうわけか。エルレインは大層驚いていた。
ユルグがそれに訝しむと、彼女はいそいそと居住まいを正す。
「あっ、そうでした……人間とエルフでは慣習が違いますからね」
「慣習?」
「エルフは長寿ですから。年若いうちに婚姻を結ぶことはないんです。連れ添ったら何百年も一緒なんですから、思慮の浅い若いうちは経験を積むべきだ、というのが先人たちの教訓として今も生きているのですよ」
「へぇ……なら、一度関係を結んだらその人一筋ってわけか?」
「一般的には。でも死別したらその限りではないですね」
エルレインは丁寧に説明してくれた。
はじめて聞く話にユルグはかつてのエルリレオを思い出す。
師匠たちと旅をしていた時の話だ。
最初の頃はグランツの女遊びにエルリレオは大変ご立腹だった。旅を始めたころは、グランツはカルラよりもそっちと仲が悪かったほどである。
当時のユルグはどうしてエルリレオがこんなにもグランツを嫌うのかが理解できなかった。カルラに話を聞いても要領を得ない。そんな彼女は、エルリレオのことを紳士的だと褒めていたが……エルリレオのあれはきっと、グランツの女癖の悪さに良い思いをしなかった故にだろう。
カルラはハーフエルフだし、そういった慣習には疎い。そもそも気にもしていなかったかもしれない。
対してエルリレオは純血のエルフだ。差別こそはしなかったものの、エルフのしきたりなどには従って生きてきたのだろう。
そんな彼にしてみれば、グランツの生き方は許せるものではなかったはずだ。
けれど、どれだけ言ってもグランツは自分の生き方を変えることはしなかった。
次第にエルリレオも口煩く言うのをやめて――あとは、知っての通りである。
「奥さんに宛てた手紙……どんなことを書かれているんですか?」
「……見るか?」
エルレインに書きかけの手紙を見せる。彼女はそれに目を通して、それからユルグの顔を見た。
「これ、報告書?」
「手紙のつもりだ」
「うーん……私だったら旦那さんからこんなものをもらったら、とっても悲しいです」
「そ、そうか? ……そうか」
大きな溜息を吐いたユルグにエルレインはおもむろに問う。
「ユルグさんは、奥さんのこと大好きですか?」
「な、何を」
「どうなんです!?」
彼女の気迫に押されて、ユルグは仰け反る。
じっと見つめられてどうなんだと詰問されて、ユルグは恥ずかしくなりながらもなんとか言葉を絞り出した。
「だっ……好きだよ」
「なら、その気持ちを書いて差し上げたらどうでしょう? つまり……恋文です!」
「こっ、……こいぶみぃ!?」
驚いて瞠目するユルグに、エルレインは楽しそうに頷いた。
「気持ちを伝えるにはこれが一番です! きっと人間でもエルフでもそれは変わらないと思うのですが!」
「そ、そうだけど……」
「奥さんを残してきたこと、少しくらいは後悔しているのでしょう? ならしっかりと気持ちを見せないと! 帰ったら愛想尽かされている、なんて嫌でしょう」
なくもない話であるとエルレインは語った。
曰く――心の距離を空けてしまうのは、傍に居られないのが原因であることが多いのだとか。これにはユルグも身につまされる気持ちになる。
「だからちゃあんと、ご自分の気持ちは伝えた方が良いと思いますよ?」
「そ、それは自分の体験談とかか?」
「おじい様からの受け売りです!」
胸を張って言ったエルレインに、ユルグは嘆息する。
エルリレオの言葉なら、間違いはないのだろう。実践するかはこの際置いといて、ためにはなる。
「わかった。やってみるよ」
「頑張ってくださいね!」
応援するとエルレインは手を振って去っていった。
残されたユルグはまっしろな紙を睨みつけて沈黙する。
「恋文、っていっても……結局何を」
最終的にはそこに行き着いて、ユルグは何度目になるかわからない溜息を吐いた。
そこで先ほどのエルレインの話を反芻する。
彼女は自分の気持ちを書いてみてはどうかと言った。つまり……ユルグがミアのことをどれだけ想っているかを文字にして書けというのだ。
「自分の気持ちか……」
呟いて、ユルグは筆を執る。
会って伝えたいこと。話したいことは沢山ある。それを文字にして書きだすだけだ。そう考えると何も難しいことはない。
体調は大丈夫か。
元気でやっているか。
何か困ったことはないか。
――はやくミアに会いたい。
「うっ、流石にこれはないか?」
書いていて恥ずかしくなってくる。けれどこれがユルグの本心だった。
本当はミアを独りにしてあの場所から離れたくはなかった。カルロが付いてくれてはいるが、やはり心配なのだ。
だから一刻も早く用事を済ませて彼女の元に帰りたい。
しかし現実は無常である。なかなかうまくはいかない。
ユルグは止めていた手を動かす。
何をどうしてもこれがユルグの本心だ。エルレインは自分の気持ちを書けと言った。ならこれが正解だ。
きっとミアだって喜んでくれる、はず。
「そうだ。そういえば……」
出発する時にユルグはミアにあることを約束した。
戻ってきたら一緒にどこかに出かけよう、と。どこに行きたいか考えておいてくれと。
そういえば、以前にも似たような話をしていたと思い出したのだ。
「確か……温泉に行きたいって言ってたよな」
以前、旅の途中で温泉街に立ち寄った時のことだ。
その時、ミアに今度は二人きりで来ようと言われた。その事をユルグはすっかり忘れていた。
子供が産まれたら、二人でどこかに行く機会なんて滅多に訪れないだろう。
ミアの望みを叶えるなら、いまが一番いい。
体調が良いなら二人でゆっくりできるし、きっと喜んでくれる。
最愛の人の喜んだ顔を想像して、ユルグは微笑んだ。その微笑はとても穏やかで優しいものだ。




