ささやかな祈り
深く息を吸い込んで吐き出すと、白い吐息が寒空に舞った。
ぽっかりと空いた天蓋から静かに降ってくる雪を払って、ユルグは冷たい床に座り込んだ。目の前にある祭壇に奉られたまっくろな匣。それを見つめて静かに息を吐く。
ユルグがいま居る場所はシュネー山脈の中腹にある虚ろの穴の祠。
他には誰も居なく、たったひとり。この場所で自問自答を繰り返していた。
マモンと共に祠を訪れたが、彼はユルグを置いて去って行った。その理由について心当たりはある。焦って馬鹿な事を言ったからだ。少し考えれば無謀なことだというのは誰にだって見当がつく。
今この段階で寿命を削るような真似をする意味はない。それを分かっているからこそ、マモンはユルグを諫めて、その望みは叶えられないと置き去りにして消えたのだ。
「そんなこと、言われなくても……」
去り際にマモンが語った言葉を何度も反芻する。
彼は逃げずに向き合えと言った。こんな事をするよりも前に、それがすべきことであると。ユルグはそれに反論出来なかった。図星だったからだ。ぐうの音も出ない、正論。
だからこそ、たったひとりでこの場所にいる。
けれど、マモンの言った事はユルグにとっては簡単に解決出来るものではない。それが出来たのならこんなにも悩んではいないし、このような強攻策をとることもなかった。
打ち明けてしまえば楽になれるのだろう。しかし、ミアに洗いざらい吐き出すようなこと、それだけは避けたいというのが本音だ。自分勝手だというのは重々承知。それでも大切な人には悲しんで欲しくない。
結局はそこに帰結してしまう。
悲しんで欲しくないし心配もかけたくない。
マモンはこれを逃げだと言うが、それでもこれがユルグの本心でどうしても譲れない意地なのだ。
「……ここで黙っていても仕方ないか」
呟いて、ユルグは立ち上がった。雪を払って祠の外に出る。
マモンが匣に溜まっている瘴気の浄化を拒絶したのなら、現状出来ることは何もない。大人しくミアの待つ小屋に戻ろう。
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重い足取りで帰路を辿る。
小屋の前まで行くと、そこにはユルグの帰りを待つミアの姿があった。彼女が着ている外套にはうっすらと雪が被っている。それなりの時間、外で待っていたのだろう。
「やっと帰ってきた!」
ユルグの姿を見留めたミアは笑顔を見せて近付いてくる。
どうにも彼女はユルグの帰りを待っていたようだ。街での買い出しも任されていたことだし、それで待たせてしまっていたのかもしれない。
「遅くなってごめん」
外套に被っていた雪を払って彼女の頬に触れる。
いつから外にいたのか。身体の芯まで冷えたような冷たさに、ユルグは困ったような顔をする。
「ずっと待ってたのか?」
「あなたが帰って来ないから! すごい寒かったんだからね!」
ぷりぷりと怒りながら、ミアは頬に触れていた手を握ると腕を引いて歩き出す。それに謝るタイミングを逃して、ユルグはされるがまま小屋の中へと入っていく。
暖かい部屋の中、外套を脱いで荷物をテーブルに置く。背嚢を黙々と整理していると、ふと視線を感じて顔をあげる。
ユルグの視線の先にはミアがいて、彼女はじっとこちらを見つめていた。さっきまで怒っていたと思っていたのに、どうしてか悲しそうな目をして……それから、そっと目を伏せるとか細い声が聞こえてくる。
「さっき……あなたが戻ってくる前に、マモンがここに来てたんだ」
ミアの一言にユルグはどきりとした。マモンと口論してからの話だ。あの状態で彼がミアの所に訪れる理由なんて、老婆心からお節介以外の何者でもない。
「それは……」
二人が何を話したのか。ユルグは薄々感づいていた。けれど、それ以上は踏み込んで聞けない。
すべてを知られることをあんなにも拒んでいたのだ。心の準備も出来ていない。何を話せば良いのか、なんてすぐに分かるはずがなかった。
それでもそんなユルグの心境を知らずに、ミアは話を続けていく。
「本当はあなたの口から聞くべきだったけど……あんなの言えるはずないよね」
うっすらと瞳に涙を溜めて、彼女は俯く。
ミアの様子を見て、ユルグはやっと決心がついた。惰性に流されて見ないふりをしていたけれど、もうそれではいけない。何よりも大事な人にしあわせになってもらうには何をすべきか。その答えは既に出ているのだ。
彼女がすべてを知ってしまったのなら、ユルグが言える言葉は一つしかない。
「だったらもう分かってるんだろ? 俺は長くは生きられない。だから――」
続く言葉を言い終える前に、ユルグはぎょっとして目を見開いた。
というのも、先ほどまで酷く冷静だったミアがまるで年端もいかない子供のようにわんわん泣いていたからだ。
「なんでそんなこと言うのよ!」
「な、え……だって、知ってるんじゃないのか?」
「し、しってるけど! もしかしたら違うんじゃないかって思ってたんだもん!」
八つ当たりのようなことを言って泣きながら抱きついてくるミアに、ユルグは困惑しながらもあやすように背中を撫でる。
けれど、よくよく考えてみればわからなくもない。
実際に本人の口から真実を語られるほど酷なこともないだろう。ましてやミアにとってユルグは幼馴染みであり一緒に過ごした時間も長い。家族以上に大事な人なのだ。
それにこんなことを言われてしまえば、泣くなという方が無理な話である。
未だ泣き止まないミアを連れて、ユルグは寝台に腰掛けた。
何か声を掛けた方が良いのだろうが、何も浮かばない。さっき話そうとしていたことだって、頭の中から抜け落ちてしまった。面食らってそれどころではなかったし……もう一度あの話をして追い打ちをかけるような真似はしたくない。
こまったな、と胸中で呟いていると突然ミアが顔を上げた。じっとユルグを見つめる目は泣き腫らして赤いままだ。
「いまの話……フィノはしってるの?」
「ああ、うん……前に話した」
自分の口から明かしたことではないが、フィノは知っていた。それを聞いたミアは悶々とする。
「じゃあ私だけ知らなかったんだ。ずるいなあ」
恨みがましいことを言ってむくれるミアに、ユルグは言葉もなく俯く。蚊帳の外にしていたのは本当だし何を言われたって言い訳は出来ない。
それでも彼女はそれ以上責める言葉を吐かなかった。
「ちゃんと話をしようって決めてたのに、我慢できなくて泣いちゃうし……本当に格好悪い」
一人で猛省しながら、ミアは深い溜息をつく。
隣に座って、ユルグはその独白を黙って聞いていた。弁明してもいまさらだ。それにミアにだってまだまだ言いたいことは沢山あるはずだ。
「あのね……マモンから話を聞いて、どうしてもユルグに聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
オウム返しで尋ねると、ミアは静かに頷いた。
「これから先、あなたがどうしたいのか。それを聞きたい」
ミアの聞きたいことは、たったそれだけだった。
それを聞いてユルグは拍子抜けする。もっと質問攻めにされると思っていたからだ。マモンから話を聞いたからといっても、本人の口からまだまだ聞きたいこともあるだろうに、ミアはそれだけでいいと言う。
そして、それはユルグが今まで先延ばしにしてきたものでもある。ミアはいい加減向き合って答えを出せと言外に言っているのだ。
それを察して、ユルグは言い淀む。しばらくの沈黙の後、
「俺は……このままじゃいけないと思ってる。だから本当はミアの傍にだって居ない方が」
「それは本当にあなたがしたいことなの?」
そこまで言って顔を上げたユルグに、ミアは怒るでもなく静かに告げた。真剣な表情をして、諭すように。
「私はユルグの本心が知りたい。出来ないとか無理だなんてあなたは言うだろうけど、一番大事なのはそこじゃない」
まっすぐな言葉にユルグは口を噤んで沈黙する。
どうやら彼女には自分の考えなど筒抜けらしい。すぐに嘘だと見抜かれた。ミアにはどんな言い訳をしても通じないだろう。
それを察したユルグは苦笑を零す。そして少しの沈黙の後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「今まで誰にも言った事がない話があるんだ。子供の頃の夢の話だよ」
唐突な話に、ミアはなんだろうと内心動揺しながら続く言葉を待つ。
「ずっと家族が欲しかったんだ。たったそれだけ」
秘めた想いはちっぽけなものだった。けれどそれを聞いて、ミアは自分の至らなさを恥じた。
普通に生きていたなら彼の望みは慎ましやかなものだ。けれどユルグはそれを誰にも明かさず今まで生きてきた。幼馴染みのミアにさえも秘密にしていたのだ。
その心情を想えば胸が苦しくなる。早くに両親を亡くした彼にとっては、きっととても大事なことで……幼少の頃より共に暮らしてきたけれど、それは彼の孤独を癒やすには足りなかった。
癒えない傷を抱えたまま、勇者となり旅に出た。そこでユルグは悟ったのだろう。この夢はもう叶えられない。諦めるしかないのだと。
『ミアと一緒に居られなくなるのが寂しいんだ』
いつか、そう言っていたユルグの言葉を思い出す。
はにかんでいたあの表情は、心の底からの笑顔だったろうか。脳裏に浮かんだ記憶を掘り起こしてもミアにはそれがどうであったのか。うまく思い出せない。
「恥ずかしいだろ。こんなの、面と向かって言えるもんじゃないな」
苦笑して、ユルグは遠くに目線を移した。自嘲気味に零した笑い声に、ミアは開きかけた口を閉じる。
今のユルグには下手な慰めはいらない。一緒になって感傷に浸るのは間違っている。ミアが今すべきことは温い傷の舐め合いなどではなく、共に未来を歩いて行けるように背中を押してあげることだ。
「まさか、諦めたとか言うつもり?」
いつもより強い口調で語りかけると、ユルグは少し面食らった顔をした。
「まだ時間はあるんでしょ? だったらやれること、全部やってから諦めてよ! 一人でなんでも背負いすぎなのよ!」
思った事を遠慮もなくぶつけると、驚き顔が一転して困ったように眉が下がる。
ミアが何を思ってこんな事を言ったのか。ユルグには嫌というほどに察しがついていた。
彼女の言葉通り、今の自分はとても恵まれている。傍に居てくれる人、心配してくれる人……自暴自棄になっていたあの頃と比べると、今の環境は雲泥の差だ。
「……むかし同じことを言われたよ。抱え込みすぎるなって」
かつてユルグの師である彼らに言われた言葉を思い出す。
冷静になって向き合ってみればなんてことはない。変わってしまったのは自分自身だ。追い詰められて大事なものを見落としていた。今も昔も、投げ出した手を掴んで引いてくれる人たちはすぐ傍にいたのだ。ミアやフィノ、エルリレオ……誰だって見限って見捨てたりはしていない。
魔王討伐の旅、四人で世界を巡っていた時……エルリレオはユルグに尋ねた。「いま一番にしたいことはなんだ?」と。
弟子が何やら思い詰めている様子を察しての言葉だ。それにユルグは……確か、こう答えた。
『ミアの傍にいてやりたい』
母親が亡くなって、寂しい思いをしているであろう幼馴染みを心配してのことだった。
勇者として旅に出たくせにそんなことを願っては師匠に怒られるだろうと、ユルグは戦々恐々としていた。でも三人とも怒るどころか快諾してくれたのだ。
今になって思い出す。
あの時の願いをユルグは一つも叶えていない。勝手にもう無理だと決めつけて、無かった事にしようとしているだけだ。
ミアの傍にいたいと願ったのは他の誰でもない自分自身だった。それが今では真逆のことをしている。
「そうだったな……」
本当にしたいことはなにか。
ミアはユルグにそう尋ねた。そしてその答えは、考えるまでもなくもう既に持っていたのだ。
ここまで遠回りになってしまったのは、無意識にそれに気づかないようにしていただけ。でも、もうその必要は無いのかもしれない。
「ミア、ありがとう」
「え?」
突然のユルグの態度にミアは目を円くした。何か心境の変化でもあったのか。彼の表情はやけに晴れ晴れとしている。まるで憑き物が落ちたかのようだ。
「そうだよな。まだ諦めるには早いよな。俺、大事なことが見えてなかったみたいだ」
柔らかな笑顔はかつて見たものと同じだった。
それを見据えて、ミアは続く言葉を待つ。
「だから……これから先どうなるかわからないけれど、俺が死ぬまで傍に居てほしい」
まるで縋るように握られた手を、ミアは返事の代わりに強く握り返した。
「もちろん! 当たり前じゃない!」
笑顔で答えると、ユルグはほっとしたような表情をする。
「あっ、もしかして……断られるかも、なんて思ってたの?」
「えっ、いや……そういうことじゃなくて」
ミアの邪推にユルグは違うとかぶりを振った。
けれど告白の返事をもらった割にはどこかぎこちないというか。何か隠し事でもしているかのように落ち着きがない。
それにミアが訝しんだ頃、意を決してユルグは懐からあるものを取り出した。
「前にミアにあげようと思って買ってたんだ。でも渡すタイミングが掴めなくて」
彼が取り出したのは小さな包みだった。手のひらの上で開かれたそれの中には指輪がひとつ。
「こ、これって……婚約指輪ってやつ!?」
「うん……やっぱりそうなるよなあ」
「えっ? ちがうの!?」
期待していたミアに、ユルグは歯切れの悪い返答をする。何事かと思っていると、彼は弁明を述べた。
「単純にミアへのプレゼントとして買ったものなんだ。その……こっ、婚約ってなるともっと上等なものが良いだろ? だから」
「ううん、これで充分! すっごいうれしい!」
こういうものは気持ちが大事なのだ。物の価値はどうでもいい。そう言うとユルグは一応は納得してくれた。
彼なりに不満に思う所はあるのだろうけれど、ミアにとっては些細な問題である。
「ねえ、これあなたの指輪はないの?」
もらった指輪を指に嵌めてもらい、それを眺めながらミアはユルグへと問う。すると彼は一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。
「……ない。そこまで考えてなかった」
なにぶん急なことでもある。そもそもがミアへの贈り物として用意したものだ。自分の分なんて用意していない。
それを聞いたミアはそれじゃあとこんな提案をしてきた。
「せっかくだからユルグの分は私がプレゼントしてあげる!」
それがいい! と勝手に意気込んでいるミアはやる気に満ちている。しかし指輪だってそれなりの値段はするはずだ。金銭的な問題を心配したユルグだったが、大丈夫だと彼女は言う。
「ユルグは何もしないで! お金は私がなんとかするから! それくらいは自分でやらないと意味ないでしょ?」
「まあ、そこまで言うなら。楽しみにしてるよ」
優しく笑って言う、懐かしい笑顔にミアは微笑み返す。
最期の瞬間までこのしあわせが続くようにと、ささやかな祈りを込めて。




