窮鼠、猫を噛む
マモンが姿を変えた直後――
向かってくる不死人を見て、男は小さく息をのんだ。
それはさながら、黒い闇が押し寄せるかの如し。当然、マモンの傍に居る男も無事では済まない。
「――ッ、クソッ!」
男は悪態を吐くと、ヨエルを抱えたままマモンの傍から遠ざかった。
魔王とは即ち、瘴気を纏う化物である。不死人はそれに惹かれて集まってきたのだ。そして男はそれをいち早く察知した。
魔王であるマモンは不死の存在だ。彼ならば幾ら不死人に襲われようがどうということはない。しかし生身である男やヨエルはその限りではないのだ。
最悪、魔王の器であるヨエルは捨て置いても良い。しかしただの人間である男があんな大群に襲われたのならばどうなるかなど、自明の理である。
「ったく、厄介なことしてくれたもんだ!」
マモンの策略で男は出口である石扉から遠ざかってしまった。
もう一つの脱出口である天蓋の吹き抜けは、子供を抱えて行くには難儀する。この不死人の大群と、魔王からの猛追。それにプロト・マグナの妨害も考えられる。
しかし一番厄介なのは、ヨエルを救出しにきたフィノの存在だ。
彼女の強さを男は理解していた。だからこそ、魔王の傍を離れる時を待っていたのだ。わざわざ足止めまでしてその隙を作った。
フィノが傍に居れば腕の立つ男でもヨエルを攫うことなど不可能だからだ。
しかし、フィノはプロト・マグナに掛かりきりだ。対峙しているところを見るに易々と逃してはくれないらしい。
時間稼ぎも充分、今こそが絶好の脱出チャンス! だというのに、男の行く手を阻む障害が多すぎる。
魔王はもちろんのこと、男の足を止めているのは不死人の大群だ。あれさえ居なければ、石扉の前で出口を塞いでいる魔王など、どうとでも出来る。
「――うおっと」
飛び掛かってくる不死人を避けながら、男は大穴の上にある祭壇に避難する。
「ここまでくれば、大丈夫か?」
安堵に息を吐いたのも束の間、祭壇のアーチを不死人たちがじわじわと登ってくるのが見えた。
「ああ、そんなに楽観視は出来ないか」
いずれ二人の元に到達することを理解した男は、小さく息を吐く。
この場から退散する方法がまったく浮かばない。強いて言うならば石扉を塞いでいる魔王が消えてくれるのを待つくらいか。
それか遠くで対峙しているあの二人が共倒れしてくれるか。
どちらにしてもすぐに事が起きるはずもない。男にとっては依然不利な状況である。
「ううっ、はなしてよ!」
「おいおい、ここで俺が手を離したら、お前この穴に落ちて――」
暴れるヨエルを宥めようとした男は、あることを思いついた。
「……もしかして」
彼の脳裏に浮かんだのは、数刻前のプロト・マグナの発言だ。
奴はある案内を買って出た。それはヨエルの父親に会いたいという願いを叶えるために大穴の底に導く、というもの。
男もあの場で話を聞いていたが、彼はこれをまったく信じてはいなかった。死人に会えるなんて世迷い言もいいところだ。しかも大穴の底に行かなければならない。それ自体自殺行為の何物でもない。
騙されていると断じた男だったが、今になって考えを改める。
どうやらプロト・マグナにとって、魔王の存在は一際興味を惹くものらしい。故にそれを失うような事があっては、彼にとっても都合が悪い。
裏を返せば、ヨエルに大穴の底へ行けと告げたということは、そこは少なくとも安全であるのだろう。少なくとも危険な場所へは案内をしないはず。
幾つもの修羅場を潜り抜けてきた男であっても、不死人の大群に追いかけ回されながら子供一人抱えて逃げ切るのはきつい。
敵が多すぎるこの場所から逃れられるのなら、真下に穿つ大穴に飛び込むのも一つの手だ。
「我ながら自棄になったもんだ、なっ!」
「え、え!?」
男はヨエルをがっしりと掴むと、祭壇から飛び降りた。




