安息は脆く儚い
男はヨエルを抱えたまま、雨林をがむしゃらに駆けていた。
ぬかるみに足を何度も取られるが、抱えているヨエルを離すことはない。暴れる少年を抑え付けて、男は息を切らしながら身を隠すように巨木の樹洞へと滑り込む。
「はなせ――うわっ!」
なんとか男の手から逃れようと暴れていたヨエルは、突然放り投げられた。それに驚いて顔を上げると、傍に居る男は息を整えながら樹洞の壁に背を預ける。
今まで余裕そうに見えた彼でも、あれはヤバいと直感的に感じたのだろう。だからこそ優先すべきものを抱えて逃げ出したのだ。
しかし、それをわかっていてもマモンを囮にして逃げ出したことを、ヨエルは快く思わない。
「ひきょうもの! なんでマモンを置いてったんだよ!」
「アイツは不死身の怪物だ。置き去りにしたって死にはしない」
「そーいうことじゃない!」
今まで大人しかったヨエルが急に喚きだしたのを見て、男は顔を顰めた。
「腹を立てるのはいいが、俺は強制したわけじゃない。あれはあの怪物が勝手にやったことだ。文句を言われる筋合いはないよ。生きて逃げだせたんだ。それで充分だろ?」
男の言葉にヨエルは無視を貫く。
まだ十歳の子供にはそんなものはただの言い訳にしか聞こえないのだ。
怒ったヨエルは、いつの間にか降り出した豪雨に構うことなく外に出ようとする。しかし二人はロープで繋がれているから、ヨエル一人でどこかへ行くことなど叶わない。
「……どこに行くつもりだ?」
「さっきの場所にもどる」
「やめておけよ。戻ったところで何も出来ないだろ」
「べつにおじさんについてこいって言ってない!」
怒り心頭な様子に男はこれ見よがしに溜息を吐いた。
彼にはヨエルを宥められないし、ヨエルだって彼を赦せるわけがない。何を言い合っても平行線で、無意味であることは二人ともわかっていた。
そんな険悪な雰囲気の中、突如聞こえてきた声――
『その必要は無い』
いきなりヨエルの足元から、黒犬のマモンが湧き出してきたのだ。
「マモン!?」
突如現われたマモンにヨエルは驚きながら、彼を抱き上げた。
「どこも怪我してない? だいじょうぶ?」
『はははっ、そんなに柔ではないよ。大丈夫だ』
「よかったあ」
『だが少し張り切りすぎたみたいだ。……ふああ、眠くてかなわんよ』
マモンはヨエルの腕の中で大きな欠伸を零す。
ヨエルがこんな状況だから消えてしまう事はないが、彼の力が弱まっているのは確かなことだ。
おそらくもう一度、先ほどの人影に襲われては今のマモンでは囮にすらならないだろう。
『奴に酷いことはされなかったか?』
「うん。おじさん悪い人だけど……力尽くで痛いことはしないんだ」
『そうか……それなら、一先ずは安全だな』
眠そうに語るマモンは次第にゆっくりとした口調になっていく。どうやら彼の眠気も限界に近付いているみたいだ。
それを察したヨエルは、腕の中にいるマモンを優しく撫でる。
「少しだけ寝てもいいよ。雨降っててどこにも行けないから」
『……そうさせてもらう。何かあったら遠慮無く起こしてくれ』
ヨエルを攫った男に対しては警戒もしているが、ここで一番にヨエルを守ってやれるのは彼しかいない。
なんとも不本意ではあるが……男の目的は祖国へと魔王を連れて行くことだ。ヨエルが大人しくしている限り、傷つけることはしないだろう。
そう判断して、マモンは少し休息を取ることにした。
けれど、男はそれを見て困り果てた。
「そいつを起こせ」
「マモン、一回寝たら起きないよ」
「だったら引っぱたいてでも起こせ。コイツにはまだまだ聞きたいことが沢山あるんだ」
彼の心配事は、先ほどの正体不明の何かである。
魔王を囮にしてあの状況からは脱したが、その後どうなったのかまったく知れない。話を聞こうにも魔王は眠ってしまったようだし、敵の動向が掴めなければ迂闊に移動するべきでは無い。
今は豪雨のせいで足止めされているが……雨が止んでもずっとここに留まっているわけにはいかないのだ。
しかし、ヨエルにとってはそんな大人の都合など知ったことでは無い。
「やあだよ。ぼくおじさんのこと、きらいだから」
「こいつ、さっきから下手に出てりゃあいい気になりやがって! いいか!? もう一度アイツに襲われたら俺もお前も、無事じゃ居られな――」
男が声を荒げた刹那。
それは、樹洞の入り口に立っていた。
「――失礼、雨宿りさせてほしい」
丁寧な口調で語りかけてきたのは、先ほど遭遇した鈍銀の鎧人だった。




