迫り来る悪意
部屋の扉を叩くノック音を聞いて、マモンはベッドの枕元から起き上がった。
彼の傍ではヨエルがまだ寝ており、その眠りは微かな物音では妨げられない。
しかし、この音は空耳などではない。じっと部屋の扉を見つめていると、少し間を置いて再度ノックされた。明らかに誰かがこの部屋に用があって、部屋の前にいるのだ。
それを確信したマモンは、念のためヨエルを起こすことにした。
『ヨエル、起きてくれ』
「う……マモン、どうしたの?」
『誰かが部屋の外にいるようだ』
大きな欠伸を零して起き上がったヨエルは、まだ眠いようで目を擦りながらマモンの話を聞く。
しかしそれを聞いてもヨエルはどこ吹く風で、一度部屋の扉を見つめてから無言で毛布を被ってベッドに寝転んだ。
「たぶんフィノだよ。忘れ物して、戻ってきたんだ」
『いや、だが……』
「そとまっくらだから……もうちょっと寝かせて」
寝る子は育つと言うように、ヨエルは三度寝を決め込むつもりらしい。
楽観的な少年とは対照的に、マモンはこの来訪者の存在を警戒していた。
もしフィノが戻ってきたのならば、部屋の扉をノックせずとも良いはずだ。部屋の鍵は掛けているが、彼女も合い鍵を持っているしそれを使って中に入ってくればいい。こんな他人行儀な行いをしなくともいいのだ。
考え出したら不審な点しかない状況に、マモンは無理矢理ヨエルを起こす。
毛布を剥ぎ取って叩き起こすと、同時――外からガチャガチャとノブが回された。
『やはり、これは少し様子がおかしい』
突然の事にヨエルは叩き起こされたことへの文句を飲み込んで、毛布を頭から被るとベッドの上で丸くなった。
「……だれだろう」
『わからない。だが宿の主人ならば一言あっても良いはずだ。それが無いとなると……』
「ど、どうなるの?」
『何者かはわからないが、そんなに心配しなくともいい。扉には鍵が掛かっているし、部外者ならば開けられんよ』
安心させるように言い含めると、ヨエルはほっと息を吐いた。
けれどマモンの予想を裏切るように、外からガチャンと鍵が外れる音が響く。
「あっ――」
ヨエルが小さく呟いた瞬間、開け放たれた扉の向こう側にいたのは、見知らぬ男だった。
男はベッドの上にいるヨエルとマモンを見据えて、無言のまま部屋に足を踏み入れる。
まだ陽も出ていない時間帯。薄暗い室内からは男の顔は見えなかった。顔を隠すように外套を着ているのもあるが……マモンは瞬時に、この男が只者ではない事を察する。
細身ではあるが、服を着込んでいてもわかるほどにがっしりとした体型をしている。加えて、身体捌きも素人のそれではない。確実に戦闘訓練を受けている手練れである。
そんな人物が不躾に不法侵入する理由など、一つしか思い浮かばない。
「お前が魔王だな?」
――男は開口一番、そう言った。
===
男の質問を聞いてから、一秒にも満たない僅かな間ではあったが明らかにマモンの雰囲気が変わった。
それを察したヨエルは、被った毛布の隙間から男をじっと見つめる。
ヨエルには男が何を言っているのか、わからなかった。
魔王というのも初めて聞くし、男が誰を指してそう言ったのかも……よくわかっていない。
そんな少年を置き去りにして、話は進んでいく。
『人違いだ。他を当たれ』
「ああ、いいんだ。余計な誤魔化しをしなくてもいい。ちゃんと身辺調査は済ませてある」
そう言って、男は得意げに語り始めた。
男の口から漏れてくるのは、どれもヨエルのことだらけだ。どこに住んでいるのか。家族の有無。今まで誰に育てられて、今はどうやって暮らしているのか。
「ここまで調べ上げるのに三年はかかったんだ。戦争の最中によく頑張った方だと思わないか?」
『無駄話が過ぎる。単刀直入に用件だけを言え』
余計な問答を遮って、マモンは男に問い質す。
それに男はつまらなそうに肩を竦めると、答えを提示する。
「今まで各国で管理していた魔王を独占しようって話だ。つまり、俺はお前を攫いに来たんだよ」
男はマモン……ではなく、ヨエルを指差してそう言った。
それを聞いても、いまいちヨエルは彼が何を言っているのかわからなかった。別に自分には特別な能力も無いし、普通の子供なのだ。それをわざわざ攫いに来るなんて、意味がわからない。
ぼけっとしているヨエルを置いて、男は更に続ける。
「魔王さえ手に入れば、こんな戦争を続ける理由も無くなる。だからこうして機を伺っていたんだ」
話し終えると男はゆっくりと近付いてきた。それに慌ててヨエルはベッドから飛び降りると、男と距離を取るように壁際まで後退する。
なんだかよくわからないけれど、男は悪い事をしようとしているみたいだ。
警戒を強めたヨエルを庇うように、マモンは黒犬から鎧姿へと形を変えて背後に匿う。
『それをむざむざ許すと思っているのか?』
「いいや、思わないね。でもよく考えてみてくれ。どうして俺がこんな大事なことをベラベラ話したと思う?」
マモンと対峙しても男は余裕に笑みを貼り付けて会話をやめない。
「確実にアンタを無力化出来る算段がついているからだ。だから邪魔者がいない隙を狙ったんだよ」
男は大胆にもマモンに勝てるのだと宣言した。
それを聞いて、マモンは世迷い言だと一笑に付す。
『では、出来るかどうか試してみるといい』
狭い室内で、両者は睨み合う。
そんな中、先に動いたのは男だった。




