幸福な夢 3
「一人で大丈夫かな」
「なあに、あんな獣如きに遅れを取る奴ではないわい。ところで、カルラはどうしている? 確か、一緒に食事をしていたと思ったが」
「酔っ払ってたから宿の部屋に寝かせてきたよ」
「ふむ、それでは戻ったら早々に酔いに効く薬でもこさえてやるかのう」
そんなことを話しながら帰路を辿る。
グランツが宿に戻ってきたのは、それから二時間後の事だった。
ジャイアントボアは難なく倒せたのだが、獲物の頭を刈り取って運んだり、皮と肉を卸していたりと事後処理に時間が掛かっていたらしい。
彼の手には使い込んでしまった金の二倍の稼ぎが握られていた。
「これで文句はねえだろ」
「へえ~、すごいじゃない」
きっちりと返ってきた金を前にして、カルラはご満悦だ。
グランツが言った通り、謝罪の言葉より効果覿面である。
「それじゃあ問題も無事解決したことだし、作戦会議といきましょうか」
受け取った金を懐にしまって、机上に大陸の地図を広げるとカルラは声高に宣言した。
それを合図にテーブルの四隅に集まって肩を寄せ合う。
「なにはともあれ、これで旅は滞りなく続けられるということだのう」
「でもさあ、私たちルトナークから順繰りに東に向かってきたでしょ。魔王が居そうな場所は片っ端から巡ってきたけど全部外れだったし、これ以上どこに行くって言うわけ?」
カルラが溜息交じりに苦言を呈する。
この旅の目的は実力をつけることも勿論なのだが、どこかにいる魔王の討伐が一番の責務であった。
カルラが言っているのは本当のことで、今まで一度も魔王とやらの手がかりは掴めていない。こうも情報がないと本当に居るのかさえも怪しくなってくる。
「全部って、あと一箇所行ってない所があるだろ」
テーブルに広げられた大陸の地図を睨んで、グランツが言った。
彼の言う通り、あと一箇所――極東にあるラガレット公国には足を踏み入れてはいない。
その名前を聞いた瞬間、カルラはとても嫌そうに顔を顰めたのだった。
「あそこだけは行きたくない!」
「……なんで?」
「ラガレットは別名妖精の国と呼ばれておってな。エルフしかおらんのだよ」
ユルグの疑問にエルリレオが答えて、それにカルラが無言で頷く。
しかし、それとカルラがこんなにも拒絶する理由が結びつかない。
「カルラが行きたくないとごねているのは、邪血だからだろうなあ」
「じゃけつ?」
「ハーフエルフのことを、儂らはそう呼ぶのだよ」
邪血という呼び名は蔑称であるとエルリレオは説明した。
エルフは頭の固い者が多いのだという。長寿であればあるほどそういう傾向が強いのだ。
確かにエルリレオにも偏屈な所はある。しかし、それでも他人を敬って対等に接してくれる。ハーフエルフであるカルラのことも邪険に扱うことなどしない。
ユルグには到底、今の話が本当の事だとは思えなかった。
「でも行かない訳にはいかねえだろ。もしかしたらラガレットに魔王サマとやらが居るかも知れねえんだしよ」
グランツが叱咤するが、それでもカルラの気分は晴れない。
「やっぱり私は――」
「カルラ、大丈夫だよ。迷惑だなんて思わないし、何があっても俺が守ってあげるから」
言いかけた言葉を遮って、ユルグは語りかける。
ずっと一緒に旅をしてきた仲間なのだ。何があったとしてもユルグの気持ちは揺らがない。それはグランツとエルリレオも同じはずだ。
一瞬、カルラは目を見開いて固まった。
それから我に返って慌てふためき始める。
「ななっ、なに言ってんのよ。仮にも私はアンタの師匠なのよ!? 守られるのはそっちなの!」
「でも――」
「でもじゃない! そんな生意気な事を言うのは、私より長生きしてから言いなさいよ」
「それって一生無理じゃ……うわっ」
突然、隣にいたカルラがユルグの頭を乱暴に撫でてきた。
ぶっきらぼうなそれは、彼女の性格を表しているようにも思える。
ひとしきり撫でた後、手を離したカルラの表情はすっきりとしたものだった。
先ほどまで抱いていた悩みなどどこかへ吹き飛んで行ってしまったみたいだ。
「そこまで言うならもう我儘は言わない。どこへでも行ってやるわよ」
「ははっ、そうこなくっちゃあな」
「こやつにしおらしいのは似合わんて」
二人の笑い声に釣られてユルグも笑みを浮かべた。
なぜだか久しぶりに心の底から笑えたような気がする。
決して楽ではないけれど、ずっとこんな幸福な日々が続いてくれたらそれで良い。これ以上は何も望まない。
そう思えるほど、ユルグにとって彼らとの日々はかけがえのないものだったのだ。
頭の隅でそんな考えが過ぎったその刹那――目の前には真っ白な景色が広がっていた。
それを目にした途端、ユルグは目を見開いて息を呑んだ。凍てつく空気が一気に呼吸を奪っていく。
瞬間、何かに足を取られてユルグは足下の雪原に膝をついた。
いつの間にか足は前へと歩き出そうとしていたらしい。
転んだのは重い雪に足を取られたせいか、それとも疲労のせいなのか。
判然としない中、身体中に刻まれた無数の傷口から血が滴って、白一色の雪が赤く染まっていった。
掌に伝わる温度は冷たいはずなのに、灼熱に焼かれたかのように熱いままだ。
べっとりとこびり付いた血痕は自分のもので、それが鮮烈に目に焼き付いて離れない。
身体は疲れ切っていてもう一歩も歩けないはずなのに、半ば亡者のようにユルグの意思とは関係なく前へと進んでいく。
どうしてか、後ろは見られない。
ただ前だけを見据えて、歩き続けることしかユルグには出来ないのだ。
その理由は、彼が選んだ道がそれだったから。
今際の際の言いつけをきちんと守った結果がこれだからだ。
――馬鹿馬鹿しい。
今にも途切れそうな意識の中、どこからか声が聞こえてくる。
それにユルグの足が止まった。
猛烈に吹きすさぶ吹雪の中、立ち尽くしたまま奥歯を噛みしめる。
「なにやってんだよ」
呟いた声はユルグにしか聞こえない。とても弱々しいものだった。
それでも構わない。ここには自分しかいないのだから。
「俺がすべきことは、こんなことじゃないだろ」
――無様に逃げ出すことじゃない。
頭では分かっているのに、どうしても身体は動かない。
ここで戻っても後ろには何もないことを知っているからだ。
所詮は夢の中で、望めばユルグの思い描いた通りになる。けれど、どれだけそれを望んだとしても刻まれた悔恨は決して消えはしない。
冷え切った空気を深く吸い込んで、ユルグは俯いていた顔を上げた。
あの時から目を背け続けていた現実を突きつけられて、これ以上は知らぬ存ぜぬでは生きていけない。
大事な仲間も、大切な幼馴染みも棄ててきた。心残りはもう何もない。
だったら、ユルグのすべきことは一つしかない。その果てに命尽きて死んでしまっても構わないと、そう思えた。




