要らないもの
夜も更けてきた頃。先にヨエルを寝付けて、フィノはソファに座って淹れたばかりのお茶を飲んでいた。
明日の出発準備は整った。ヨエルも説得できた。これ以上心配事は増えないと思っていたが……どうやってあの事を伝えるべきか。険しい表情をして黙っているのはそれが原因だ。
フィノの手元にあるのは、ユルグから譲り受けた手帳と石版の写し。それらを見下ろして、フィノは深い溜息を吐き出す。
「はあ……」
物憂げな表情をするフィノの心はずっと揺れたままだった。
手元にある石版の写しは、数年前に解読が終わっている。しかし、ログワイドが残した遺物の全容をフィノは誰にも明かしていない。
昼間にアリアンネが諭したのは、これを知ってのことだ。しかし、彼女が知っているのはほんの一部。フィノが明かしても良いと判断した情報のみだ。
そして、誰よりも関わりがあるマモンにさえも秘密にしていたのだ。
どうしてそんな決断をしたのか。
それは、記された内容がマモンにとって良いものとは言えなかったからである。
「……マモン、起きてる?」
しばらくして、フィノはヨエルと共に眠ってしまったマモンへと呼びかけた。すると、対になっているソファに対面して、黒犬のマモンが実体化する。
彼は大きな欠伸を零すと、ふるふると頭を振った。
『うむ、どうしたのだ?』
「あのね、ずっと秘密にしてたけど……話さなきゃと思って」
手元にある石版の写しを指で小突いて、フィノはマモンへと告げる。
この話は以前にもマモンへと話している。解読が終わった直後のことだ。けれど、その時フィノはマモンには話せないと断った。彼はその意図を汲み取って、今日まで詮索しないでくれた。
『それは……良いのか?』
「うん……いい加減、知らなくちゃいけないことだから」
ユルグはマモンへと頼み事をした。
残された我が子の傍に居てやってくれ――それを了承して、マモンはずっとヨエルと共に居てくれている。
けれど、この事実を知ったのならばマモンはどう思うか。フィノには容易に想像がついた。フィノが真実を打ち明けなかったのは、彼が傷ついてしまうからだ。マモンが生きてきた二千年の時を想えば残酷な仕打ちである。
しかし、避けては通れない道だというのはフィノも分かっていた。いずれ話さなければならないと感じていた。
だから……せめて、ヨエルが自分で物事を考えられる歳まで待とうと思ったのだ。彼にとってマモンは家族同然の存在である。その彼が悲しむことを、ヨエルは許さないだろう。
「でも、マモンが知りたくないっていうなら、話さない」
『そうさなあ……ヨエルはああ見えて寂しがり屋なのだ。まだまだ独り立ちさせるには早すぎる。己がついていてやらねば』
「うん」
『あの時の約束もある。何があったとしてもそれを破ることはしないと誓おう』
フィノの憂慮を察してマモンは改めて宣言をする。それを聞いて、彼の決意が固いことをフィノも理解する。
それでもこの事実を打ち明けることは躊躇われた。どこから話すべきか。言葉を選びながら、フィノは知り得た情報をマモンに話して聞かせた。
===
「あの石版に書かれてたこと。大事なことは何もわからなかった。ただ……ログワイドは、後悔してたみたい」
『……後悔?』
「うん」
大穴の底に辿り着いた後、彼は女神というものが何なのか。何のために在るのか。そして、彼の出会った上位者という存在が何であるのか。すべてを知り得た。
その果てに、意味があってログワイドはマモンを創り出したのだ。
けれど、晩年……彼はその事を深く悔やんでいた。
石版に書かれていた大半は、彼の懺悔である。
【若き日の私の判断は浅はかであった。寿命が尽きようという晩年、そう思わざるを得ない。他に方法は幾らでもあった。しかしそれらを棄ててまで、自らの憎悪に駆られエゴを貫いたのは私の過ちだった。目先の欲に心を奪われ、どうにかして奴の鼻を明かしてやろうと必死だったのだ。けれど、それは虚しいだけだと気づいてしまった。私の寿命を削ってまで創りだした呪詛は、一族を未来永劫縛り付けるものだ。幸福を奪い続け、不幸せにするもの。この世界には必要の無いものだった。故に、私に代わり彼に安寧を与えてくれることを願う】
【渾沌の獣に会うのならば、十分に注意すること。私と同じ轍は踏まぬ事を望む】
最後は、意味深な一文で締められていた。
フィノはこれらの文章を考察して、ある結論を導き出した。
「ログワイドは、他と容姿は違うけどちゃんと寿命の長いエルフだった。でも、マモンを創るためにそれを捨てちゃった」
しかし、そこまでして創りだしたマモンの存在を彼は【要らないもの】としたのだ。
まず、そこが第一の矛盾点である。
現在の世界は瘴気に冒され、それをどうにかしようと試行錯誤している。マモンならばそれらを浄化して解決出来るというのに、ログワイドはそれを間違いだと言っているのだ。
まるで……彼の成したこと以外にも解決策はあったとでも言いたげである。
しかし、ログワイドはそれを差し置いて自分のためにマモンを創り出した。彼は世界よりも自らのエゴを優先したのだ。
それでも、こうした彼の行いにも引っかかる所はある。
本当にログワイドが自分の為しか考えていないのならば、そもそも瘴気を浄化出来るマモンを創り出しはしないはずだ。それも自らの寿命と引き替えになどしない。
彼は後悔を綴っているけれど、それは寿命を削ってマモンを創り出したことにたいしてではないように思う。
少なくとも、ログワイドはマモンの事を案じているのだ。
それでも……マモンにとっては、生みの親に存在を否定されたと同義である。親が子供に、産まなければ良かったと言っているようなものだ。
『そうか……これのせいでフィノは今まで秘密にしていたのだな』
「うん。マモンが悲しむと思って、言えなかった」
マモンはフィノの気遣いを良しとしてくれた。けれど、その事と今の彼の心境とは別である。
『ああ……結局、己が生きてきた二千年は何の意味もない無意味なものだったのだな。己が存在しなければ、アリアンネもユルグもあんな事にはならなかった。あの子も、寂しい思いをせずに済んだ』
マモンは、アリアンネと同じことを言った。自分が居たからあんな惨劇が起こったのだと、自らを責めているのだ。
「っ、ちがう! それはマモンのせいじゃ――」
『いいや、間違いなどではない。元を正せば、すべて己のせいだ』
フィノの言葉を遮って、マモンは深く項垂れた。
もはや誰の言葉も届かない。フィノが何を言っても彼の心に深く沈み込んだ重石をとってやることは出来ないのだ。




