迫り来る脅威
十年前のあの日……ユルグがマモンの後継に選んだのは、フィノではなかった。
彼が選んだのは、まだ生まれて間もない赤子のヨエルだったのだ。
あの時、散歩に出るといって出て行ったユルグは、戻ってくることはなかった。
帰りを待っていたフィノの前に現われたのは、マモンと彼の腕の中で眠っているヨエルだけだった。
戻ってきたマモンは、師匠の決断を汲み取れないフィノに説明してくれた。
この決断をしたのは、ユルグの意思であること。
彼がそれを決めたのは、フィノが打開策を見つけられなかったからではないこと。
ユルグはフィノへと条件を突き付ける、遙か前に既に決めていたのだ。
それを聞いて、フィノは絶句した。ユルグが何を想ってこんな馬鹿げた決断をしたのか。理解出来なかったのだ。
まだ生まれたばかりのヨエルを後継に選ぶなど、正気の沙汰ではない。
きっと誰に聞いてもフィノと同じことを思うはずだ。そしてそれは、マモンに至っても同じ考えだった。
彼がユルグからこの話をされた時、誰よりも反対した。魔王であり数多の結末を看取ってきたマモンにとって、ユルグの考えは到底許容出来るものではなかったのだ。
馬鹿な事をするなと説得するマモンに、ユルグはあることを頼んだ。
魔王を継ぐということが何を意味するのか。ユルグも十分に理解している。しかし、それを推してまで我が子を選んだのは、自分が居なくなった後を見据えてのことだった。
ミアもいない。エルリレオだって長くは生きられない。いずれひとりになるであろうヨエルの傍にずっと居られるのはマモンだけ。
だから、ユルグはマモンへとあるお願いをしたのだ。
「魔王としてではなく、ただのマモンとしてあの子の傍に居て欲しい」
この二千年間、悠久を生きてきたマモンにとってはそんな生き方があるなど思ってもみなかった。
マモンは瘴気を浄化するために創られたものだ。それ以外の生き方など知らずに、ただその為だけに生きてきた。
けれど、ユルグはマモンに諭した。
これから先、今のマモン……魔王を必要としない時代は必ず来る。その先駆けとして、千年前に作られた悪習を絶つために、ユルグはこの道を選んだ。
もちろん、それ以外の意図もある。けれど、勇者と魔王の関係が壊されたのならば、それ以外の道を模索するしかなくなるのだ。
ユルグの話は可能性でしかない。しかし、彼は確信していた。きっとやってくれるはずだと。
ユルグがこの話をマモンへと打ち明けたのは、フィノがユルグとの決闘に敗れた後の事であった。
おそらく、彼の中で何らかの心境の変化があったのだ。その全てをマモンは知れなかったが、あの時のフィノの行動は無意味ではない。
そう言って、マモンはフィノを慰めてくれた。
それでも、フィノの中では師匠へのわだかまりは消えてくれなかった。全てを知った後でもフィノがユルグを許せないのは、恨んでいるのはこの為である。
決してヨエルのせいではない。十年経った今でも、どうやって向き合っていいのか分からないのだ。
しかし、今の情勢を鑑みればいつまでも放っておけるものでも無い。
デンベルクとアルディアの戦争勃発の原因は、勇者と魔王……世界を保っていた仕組みが壊された事に起因するものなのだ。
今まで犠牲を強いて瘴気による問題を解決していたのが無くなったからと言って、魔物による被害が綺麗さっぱり消滅することはない。
むしろアリアンネの代から放置していた所為もあって、年々魔物による被害は増加の一途だ。それはどの国でも同じこと。そんな状況の中、例の匣の製造方法を握っているアルディア帝国を目の敵にするのは当然のことであった。
デンベルクとしては、先の王殺しの事件で唯一被害を免れたアルディアに疑惑を抱いたのも戦争に踏み切った原因の一つでもあるのだろう。
魔王と結託してあの状況を作り出した、と思われてしまったのだ。
もちろん帝国もそれは否定したが、実際は彼らの疑念はその通り、事実だった。馬鹿正直に認めることはなかったが、その疑惑を覆すことが出来ず結果、今でも戦争は続いたままである。
フィノの懸念は、戦争自体にはなくその後の結末に憂慮を抱いているのだ。
仮に再び撤廃した仕組みを復活させるようなことになれば、その渦中に立たされるのはフィノではなくマモンを宿しているヨエルになる。
マモンはユルグとの約束があるために金輪際、瘴気の浄化はしないと決めているが必要に迫られた場合……例えば、ヨエルを人質に取られてしまえばその限りとは言えない。
昔のマモンであれば彼を守ってやれたが、今のマモンにはそれは不可能である。
マモンの力の源は瘴気であり、それによって今まで実体を保てていたのだ。この十年瘴気の浄化を行ってこなかった為に、彼の力は弱体化してしまい一日中眠っていなければ実体化することさえも出来なくなった。
ゆえにフィノは、最悪の結末を迎えてしまう前に瘴気を無効化出来る方法を実現させなければならないのだ。
とはいえ、多忙の身であるフィノにはそればかりに時間を割くわけにはいかなかった。
彼女が各地を飛び回っていたのは、匣の製造の為でもあるが……他の仕事も色々と抱えていた為である。
その一つが、ヨエルに告げた旅行の目的地にもなっているのだ。
彼は旅行に行けることだけで頭がいっぱいで、どこに行くかは二の次なようだ。もちろん聞かれたら答えるけれど、世間を知らないヨエルが聞いても一度で理解出来はしないだろう。
出発する時にでも説明してあげようとフィノは考えて、既に真っ暗になってしまった外の景色に目を向けると、作業を中断して夕食の準備に取りかかった。




