複雑な心境
よいしょと背負うと、フィノは不安定な傾斜をどんどん進んで行く。
背中にのしかかる重みに、ヨエルがまだ赤ん坊だった頃を思い出す。あの時は腕の中で気持ちよさそうに眠っていたのに、今じゃ自分でどこにでも行ってしまうし、家出もする。
それもそのはず、もう十年も経ったのだ。いつまでも赤ん坊のままでいるわけがない。
「重くなったね。昔は片手で抱っこ出来たのに」
「フィノは昔のぼくのこと、知ってるの?」
「少しだけ」
ヨエルはフィノの返答に、「そうなんだ」と意外そうな反応を示す。
彼の疑問はもっともだ。フィノがヨエルと一緒に居たのは彼が生まれてからの少しの間。それ以来、一度だって会いに行っていない。
ユルグが居なくなってからフィノあの場所には近付かなかった。
どうしてそんな選択をしたのか。
もちろん、やるべき事があるからというのもある。けれどそれはヨエルを避ける根本的な理由にはならない。
ここまでフィノを頑なにさせていたのは、まだ幼いヨエルではない。彼の父親であるユルグが原因だった。
フィノはユルグを恨んでいるのだ。
あの時の彼の決断にフィノは未だに納得していない。だから、彼の最期の頼みであるヨエルのこともエルリレオやマモンに任せて放り出した。
それを正当化するために、休む暇もなく各地を駆け回っていたのだ。
フィノの抱える複雑な心境は、それだけに起因しているものではないが……それでも根底にあるのは、師匠の決断をどうあっても許容出来ないという反抗心があるからだ。
今更いない人間に怒っても憤っても何にもならないが、だからといって全てを無かった事には出来ない。
ヨエルのことは嫌いではないし、仲良くしたいという気持ちはある。そもそも彼は何も悪くないのだ。
今回の家出騒動も元を正せばフィノの自業自得だ。彼ときちんと向き合ってこなかった結果。
しばらくの沈黙の後、不意に背後から声が聞こえてきた。
「じゃあ……ぼくのお父さんのことも、知ってる?」
「うん、知ってる。私の師匠だったから」
フィノはヨエルの問いかけに淡々と答えた。
それを聞いて、ヨエルはフィノの首元に回していた腕にぎゅっと力を込める。すぐ傍にある肩口に顔を埋めると、微かに震える声でずっと胸につっかえていた言葉を口に出した。
「ぼくのお父さん、人殺しなんだって」
絞り出した声は、耳を澄ましていなければ聞き取れないほどに弱々しいものだった。けれど、至近距離で囁かれた言葉をフィノは聞き逃さなかった。
ヨエルの告白を聞いて、フィノは彼があそこまで落ち込んでいた理由がやっと分かった。
顔も知らない父親が人殺しであるという事実は、まだ幼い少年の心を傷つけるには十分すぎるものだ。
きっとヨエルはその事実に対しての答えを欲している。どうやって折り合いを付ければ良いのか分からないのだ。
それに、どう答えるべきか。エルリレオもマモンも、誰も触れてこなかった問題だ。返答次第では取り返しがつかないことになりかねない。
それでも、事実をねじ曲げて誤魔化すことなど、フィノには出来なかった。
「その人を殺したのは私。だから、私も人殺し」
前を見据えて答えると、背中越しに息を呑む気配が伝わる。
「……フィノはお父さんのこと恨んでるの? だ、だからぼくのこともきらいなの?」
ヨエルはフィノの思ってもみない事を聞いてきた。
どうして彼がそんな考えに至ったのか……そんなのは一々考えなくとも分かることだ。今のフィノに出来る事は原因解明することではない。
今まで伝えてこなかった想いを打ち明けることだ。
「ヨエルのこと、嫌いなんかじゃないよ。ただ……私がちゃんと向き合わなかっただけ」
ごめんね、と背中越しに謝るとヨエルは押し黙った。
「ヨエルを見てると、あの人のこと思い出しちゃうんだ」
「……おじいちゃんも言ってたよ。顔はお父さんに似てるって。あと、ちょっとわがままな所はお母さん似なんだって」
「そうだね」
ヨエルの話を聞いて、フィノはこっそりと笑みを浮かべた。エルリレオの観察眼も見事なものである。
わがまま、というか一度言い出したらきかない所は、ミアにそっくりだ。
「だから、私が嫌ってるのはヨエルじゃないよ」
「うん……」
フィノの言葉にヨエルは他に何か言いたそうに相づちを打った。まだ納得できない部分があるのだろう。疑問だって残っているはずだ。
過去を知らないヨエルにとっては、どうしてフィノが自分の父を殺したのかも。何をそんなに悪し様に思っているのかも。何も知らないのだ。
そして、それを話すにはフィノもそれ相応の覚悟がいる。
どちらにとっても楽しいものではないし、あの時の事はフィノにとっては傷口を抉られるのと同じことなのだ。おいそれと話せるものではない。
けれど、彼がどうしても知りたいと言うのなら……その時は話さなければならないことだとフィノも理解しているのだ。
それでも今は、湿っぽい話も気が重くなるような事もナシだ!
まだ十歳の子供に、いつまでも悲しい顔をさせるものではない!
「あーあ、今日はたくさん歩いたから、疲れちゃったなあ」
突然わざとらしく声を張り上げると、背中にいるヨエルがおずおずと告げた。
「ぼく、自分で歩くよ」
「でも、ここから家までずっと歩かなきゃいけない」
「そっ、それくらい出来るよ!」
むっとしてヨエルはフィノの背中から降りようとする。けれど、そうなる前にフィノは先手を打つ。
「だから、空飛んでいくよ」
「えっ?」
「ほら、ちゃんと掴まってて」
瞠目するヨエルを余所に、フィノは地面を蹴ってあっという間に樹上へと足を掛ける。
ここまでヨエルを追って来た時と同じように、一足飛びで身軽に木を伝って飛んでいくと瞬く間に眼下の景色には住み慣れた小屋が映った。
それを見据えて最大出力で、一番高い木の天辺から幹をしならせてジャンプする。着地点は小屋の裏手。
雪を撒き散らしてドンピシャで降り立ったフィノは、移動している最中ずっと無言だったヨエルを背中からそっと降ろした。
「ついたよ」
「はっ!?」
我に返ったヨエルはきょろきょろと三度、辺りを見渡してそれから隣に立っているフィノを見上げた。
「いっ、いまのどうやったの!?」
「ええ? 教えてあげない」
「ほんとうに空、飛んでたよ! マモンでも出来ないのに!」
きらきらと瞳を輝かせて、ヨエルは矢継ぎ早にフィノを質問攻めにする。
それを適当にはぐらかしながら彼の手を引いて、二人は暖かな家へと戻っていくのだった。
〈いつか書こうと思って書けなかった小話〉
自在に姿を変えられるマモンですが、彼は何にでも成れます。陸上生物の他に、鳥や魚にも変形可能ですが、飛び方も泳ぎ方も知らないし出来ないので仮に鳥に成っても飛べないし魚に成っても泳げません。初めて水に入った人が泳げないのと同じようなものです。
そして、それを山小屋で呑気に暮らしている時にユルグにからかわれた為、彼は金輪際ほかのものには成らないと心に決めているとか。
ちなみに彼が気に入っている黒犬の姿は、鎧姿だと怖いからもっと愛嬌のあるものに成ったらどうかとアリアンネに言われたから。




