知らない世界
ルフレオンの案内に従ってヨエルは雪山を下りていく。
現在地はどこか分からないが、ヨエルが暮らしていた小屋とは反対方向に進んでいることは分かった。たぶん、少しずつ離れて行っている。
小屋に戻ろうとは思っていないから、不安を感じることはなかった。元々家出をするために出てきたのだ。
それに、初めて目にするものにヨエルは微かに興奮していた。
「おじさんは山で暮らしてるの?」
「うん、そんな感じだよ。といっても私もまだ山暮らしに慣れていないから、ここら周辺に詳しいってわけじゃないんだ」
「そうなんだ」
「山で暮らし始めたのはここ数年の話さ。妻が狩人なんだ」
「かりうどってなに?」
初めて聞く言葉にヨエルは首を傾げてみせた。
余所の人間と交流がなかったから、彼の知識は偏っている。知っていることの全てが育ての親であるエルリレオから聞いたことだ。
だから、狩人というものが何なのか。ヨエルは知らなかった。
「狩人って言うのは、動物を狩って暮らしている人の事を言うんだ。さっき襲ってきた熊がいただろう。あれも倒してしまうくらい凄いんだ」
「ほんとう!?」
瞳を輝かせて食いついてくるヨエルに、ルフレオンは上機嫌に笑った。
先ほど、あの熊に襲われたときは死ぬかと思ったのに、それを倒してしまうなんて! 初めて耳にする事象にヨエルはすっかり虜になっていた。
きっとこの雪山の外にはもっと凄いことが沢山あるのだ!
エルリレオもマモンも、外は危ないから行ってはダメだというけれど、それはヨエルが子供だからだ。大人になったらいろんな場所を見て回って、世界を冒険したい。
エルリレオも昔は色々な場所に行ったと言っていた。ヨエルがその話をせがんでもあまり語ってはくれなかったのは、興味を持って外に行こうとするからだ。
けれど、彼が頑なに秘密にしていた理由も分かる気がする。危険も沢山あるけれど、それよりも楽しいことが外の世界にはいっぱいあるのだ!
頭の中で妄想の外の世界を創り上げていると、ルフレオンはそれで、と続ける。
「私もそれを手伝っているんだが……これが結構重労働なんだ。獲物を解体して皮をなめして……男の私でも大変なのに、妻には本当に頭が上がらないよ」
ふと見上げた彼の表情はとても幸せそうに見えた。なによりも、想ってくれる人と暮らせるのはそれだけで恵まれているのだ。
少しだけ羨ましいと思いながらヨエルは彼についていく。足元にはグログロも一緒だ。
「さて、着いたぞ」
辿り着いた山小屋は、ヨエルの暮らしている小屋と似たようなものだった。こぢんまりとしたログハウスは、ルフレオンが語る彼の妻と共に暮らすにはなに不自由しないだろう。
「ライエ、今帰ったよ」
肩に薄らと積もった雪を払ってから中に入ると、ルフレオンはただいまを言った。
それに暖炉の傍にいた人影は、こちらを振り向いて応える。
「おかえり。随分早かったね。……あら、その子は?」
振り向いた彼女の顔は、右目が焼け爛れていた。それに驚いて、ヨエルは咄嗟にルフレオンの背後に隠れる。
さっきまでの快活さが消えてしまったことに、ルフレオンは不思議に思いながらもとりあえず状況を説明することにした。
「狩りの最中に熊に襲われていて、助けて……はいないけど、保護したんだ」
「こんな場所にひとりでいたの?」
「うん。家出してきたらしい」
話ながら彼はヨエルの背中を押して暖かい室内に招いてくれた。
あれよあれよという間に、暖炉の傍の椅子に座らされて温かなお茶が出される。
「家出って……どこから? 山頂から越えてきたのならメイユの街から来たってことになるね」
「うん。それしか考えられないなあ」
話の中心にいるヨエルは、無言でお茶を啜った。
今更ながらに気づいたのだ。家族以外とほとんど接してこなかった為、彼は人見知りをしてしまう。
一対一の会話ならば出来るけれど、知らない人が周りに何人もいると途端に口数が減ってしまい……最終的に無になってしまうのだ。慣れてしまえばどうってことはないのだが、この状況では縮み上がってしまう。
ふと目線をあげると、ライエがじっとこちらを見つめていた。
突き刺さる視線に口籠もっていると、彼女は何かに気づいたように目を見開く。
「思い出した。あなた、あの人の子供ね」
「あのひと?」
「前に見たときはあんなに小さかったのに……何歳になったの?」
「う……んと、十歳になったばっかり。きょう、誕生日なんだ」
「誕生日に家出してきたの?」
「うん……」
頷くと、ライエとルフレオンは揃って顔を見合わせた。
「だったら早く帰らないと。お父さんも心配してるでしょう?」
「お父さん、いないよ」
「……いない?」
「うん。もう死んでるからいない」
答えると、ライエは微かに驚愕を滲ませた。
彼女の反応では、いましがたヨエルから聞いた情報は初耳だったらしい。
「……そうなんだ。私よりも若かっただろうに……小さな子を残して逝くなんてね」
落ち着いた声音で語るライエの感情は、ヨエルにはよく分からなかった。
彼女は悲しんでもいないし、哀れんでもいない。少なくとも、知り合いが死んでいると知って見せる表情ではないのだ。
そのことを不思議に思いながらも、ヨエルは彼女に尋ねる。
「お父さんのこと、知ってるの?」
「知っているけれど、詳しくはないよ。たった数回会っただけだから。どういう人かは知らない」
「そうなんだ……」
「あなたの周りの人は教えてくれなかったの?」
ライエの問いかけにヨエルは無言で頷く。
彼の父親のことは、誰も教えてくれないのだ。エルリレオもマモンも、聞いても適当にはぐらかされて答えてはくれなかった。
だから既に諦めていたヨエルだったが、どういう人で何をしていたのか。気にならないわけではない。
ヨエルの縋るような眼差しを受けて、ライエは静かに話し出した。
「私はね。あなたのお父さんを殺すつもりだった。彼に私の父を殺されたから。でも……出来なかった。私が話せるのはそれだけ」
彼女の話を聞いて、ヨエルは何も言えなかった。
顔も知らない父親は人殺しで、他人から恨まれるような人間だった。ライエの話は言外にそう告げているのだ。
彼女の話に、すかさずそれを聞いていたルフレオンが声を荒げる。
「ライエ! こんな子供に聞かせるような話じゃないだろ!」
「……うん、そうだね。ごめんなさい」
「……うん」
謝罪に頷いて、ヨエルはずっと膝上に乗せたマモンを見つめていた。
ゴワゴワした黒い毛並みを撫でて寝息を立てているその身体を抱きしめる。まだ頭の中が整理出来ていない。けれど、これだけは分かる。今まで誰に聞いても教えてくれなかったのは、この事を知られたくなかったからだ。
ヨエルの傍で二人が何やら話をしているが、ぼんやりとした頭では何を話しているのか分からない。
けれど、突如――呆然としていたヨエルの耳に飛び込んできたのは、誰かが小屋の扉を叩く音だった。




