たったひとりの家族
怯えきって逃げることも出来ない彼が震える声で助けを呼んだのは、たったひとりの大事な家族の名前だった。
「たすけて――マモン」
か細い声で呟いたその直後、ぐいっと少年の襟首が後ろから引かれて小さな身体はいとも簡単に宙に浮いた。それと同時にケイヴベアが振り上げた前足が、少年がいた場所へと振り下ろされる。
風圧でさらさらと雪が宙に舞う中、相手の豪腕を片腕で受けきった黒煙の騎士は敵の攻撃などものともせず、背後に匿った少年に声を掛けた。
『助けを呼ばれて出てきたはいいが……これはいったいどういう状況だ?』
酷く落ち着いた声音で問い質すマモンに、少年は助かったのも束の間、バツが悪そうにうろうろと視線を彷徨わせた。
「えと……その」
叱責されるのを恐れてしどろもどろになる返答。それを聞いて問い詰める前に、マモンは眼前の魔物へと向き直る。
『理由はこれを倒してからゆっくりと聞くことにしよう。少し手荒になる。ヨエルはもう少し離れていなさい』
「う、うん!」
安全を考慮して諭すような口調で話すマモン。彼の言う通りに、少年――ヨエルは、こんな状況だけれど嬉しそうに返事をして、後方にある大木の陰に駆け寄っていく。
ヨエルが離れたのを見計らって、マモンは攻勢に出た。
『ずいぶんと怖い思いをさせてくれたようだ……これは、しっかりとお返しをしなければならんな』
片腕で防いでいたケイヴベアの膂力を簡単に押し返して、空いていた片腕を敵の腔内へと無遠慮に突っ込む。
「グルアッ!?」
片腕と牙での噛み付きを封じて、それに加えて相手を不安定な土俵へと誘う。立ち上がったケイヴベアはマモンよりも上背があるが、それを逆手に取ったのだ。
懐に潜り込んだマモンは、続いて片足を浮かせて相手の足をすくい取った。すると……後は自重で簡単にバランスを崩してしまう、というわけだ。
「ギガアアァア!!」
叫びを上げてケイヴベアは雪の傾斜を転げ落ちていった。
本当ならばもっと痛めつけてやりたかったが、今のマモンではこれが限界である。必要最小限の力で窮地は脱したのだ。成果は上々。そのうえ、保護者としての対面も保たれたのならばこれ以上は言うことはない。
「マモン!!」
ケイヴベアが転げ落ちていったのを見計らってヨエルが駆け寄ってくる。それを見留めると、マモンは鎧姿から黒犬へと変化した。
まだまだやんちゃなヨエルが抱きしめてくるのを察知しての行動だったが、マモンの予想通り。ヨエルは脇目も振らずにマモンを抱きかかえてごわごわの毛並みに顔を埋めた。
「んんっ、チクチクする」
文句を言いながら、それでも嬉しそうにしているヨエルにマモンはひとまず安堵した。
恐ろしい目にあったのだ。怯えて泣きじゃくられては宥めるだけでも一苦労である。ここがどこかも、どうして彼があんな目に遭っていたのかもマモンは何も知らない。だから、一番にすべきは状況の確認だ。泣いていてはそれすらも満足に出来ない。
溌剌としていて元気そうないつものヨエルに、マモンは安心していた。
けれど、それは一瞬のことだったのだ。
「うっ……ううう」
いきなりヨエルはマモンの毛並みに顔を埋めながら泣き出した。
涙と鼻水を黒い体毛に染みこませながら、彼はマモンの身体をぎゅっと抱きしめる。
『だっ、大丈夫だ! 奴はちゃあんと痛めつけてやったのでな! 再び襲われるようなことはない、はずだ! まあ……仮にそうなってしまっても逃げれば良いだけのことだ!』
「ちっ、ちがうぅ」
泣き出したヨエルにマモンは驚きながらも、しどろもどろに弁明をする。けれど、当の本人は泣きべそをかきながらかぶりを振った。
『ち、ちがう!? なにがだ!?』
「うっ、うれしくてないてるの!」
ヨエルの予想外の答えにマモンは言葉を詰まらせた。聞くと、ずっと寂しくて堪らなかったのだという。
それを聞いてマモンはますます状況が掴めなくなった。彼がどうしてそんなことを言い出したのか、理由が分からなかったからだ。
『寂しかった? フィノはどこに居るのだ?』
「しらない!!」
マモンの一言にヨエルは泣いていたのを一転、怒り出した。
ふんっ、と顔を背けて腹を立てている態度は、子供らしい可愛げのあるものだが……やはりマモンの疑問を解決するには説明不足である。
子細を聞くために、マモンはヨエルの腕の中から這い出して雪の上にちょこんと座った。
『知らないとは……傍に居るのではないのか?』
「わかんないよ! 朝起きたらどこにもいなかったんだもん! だから、怒って家出してきたんだ!」
『い、家出ぇ!?』
返答にマモンは口を開けて一瞬固まってしまった。
ヨエルの証言をみるならば、今の状況にも説明が付く。小屋の周囲にはあのような魔物は出てこないし、家出を敢行したのならば見知らぬ土地に入ってあんな事態に陥ったのにも納得だ。
『はぁ……無事であったのは良かったが、危険な事はするなと言っているだろう』
「だ、だって……おめでとうって言ってくれないんだ」
マモンの小言にヨエルはふくれっ面をして雪の上に座り込んだ。
いじけたような態度は年相応に幼いもので、彼がまだ十歳になったばかりの子供であると痛感させられる。
「おじいちゃんはちゃんと言ってくれたのに……きっと僕のことなんてどうでもいいんだよ。一緒にいてもあまり喋らないし、いつも怖い顔してるし……嫌いなんだよぼくのこと」
『っ、そんなことは』
「でもいいんだ。ぼくの家族はマモンだけだから。……だから、他の人にどれだけ嫌われてもいいよ。ずっと傍に居てくれるなら友達もいらない。ひとりでも平気だもん」
ヨエルの独白を聞いて、マモンはどうにも居たたまれなくなった。
こんな言葉をかけてもらう資格など、自分にはないというのに。まだ幼いヨエルはマモンの事を心の底から慕っている。既に居ない、彼の親代わりをしていたエルリレオよりも。その後見を任されたフィノよりも。マモンの事をたったひとりの大事な家族だと言うのだ。
こうして慕われるのは悪い気分ではない。けれど、その想いに応えられるような存在ではないのだ。
彼に、ずっと秘密にしていること……かつてあった昔話を知ったのなら。きっとヨエルはマモンに幻滅するだろう。今は何も知らないからこんなことを言えるのだ。であれば尚更、マモンは自らを自制しなければならない。彼の家族ではなく、唯一無二の友であるべきだ。
けれど、心の片隅ではこの関係を壊したくはないと望んでいる。そう思える程に、ヨエルと共に居る時間は居心地が良く、満たされていると感じていた。
『だがなぁ……きっと、心配しているよ』
「なんでそんなことわかるんだよ!」
『皆、お前のことが大事だからだ』
「そっ、……そんなの嘘だ! 大事ならぼくのこと置いていかない! お父さんもお母さんも、みんなっ……誰もいないじゃないか!」
泣きながら癇癪を起こしたヨエルに、マモンは返す言葉を失った。
彼には何の罪もないのだ。ただ普通の、当たり前の事を望んでいるだけ。けれど、その当たり前をマモンは叶えてあげられない。
まだ幼いヨエルが寂しい思いをしなければならないのは、マモンのせいでもあるのだ。その償いをするためにマモンはヨエルの傍に居る。それは自らの意思でもあり、あの時、ユルグに頼まれたことの一つでもあった。
だから泣き言は許されない。それでも……考えるよりも先に自然とマモンは語りかけていた。
『……すまない』
「ふっ、ぐぅっ……ううぅ」
マモンの謝罪にヨエルは言葉もなく啜り泣く。それをマモンはあやしてやれない。
困り果てていた所に、遙か後方から誰かの声が聞こえてきた。
かませ熊、三度目の退場




