悪夢の最中
ギィギィと、手に持ったカンテラが吹雪に吹かれて揺れている。
軋む音と夜の闇の中で揺れる光を見て、ユルグは目を覚ました。
彼が立ち尽くしている場所は、麓の街からの帰路。前方に続く山小屋へと至る道を見て背後を振り返ると、視界を塞ぐ吹雪の隙間に街の明かりが光っている。
既視感のある光景に、この状況はいつもの夢なのだとユルグは理解する。
なんてことはない。記憶の焼き増しである。どうせ夢を見るのならもっと楽しいものが良いのに、代わり映えのしない景色がいつもあるだけだ。
そしてこれは初めてのことではない。何度も追体験をしていて……けれど、決まって足は前に進んでしまう。
足元に積もっている雪を蹴り飛ばして、気づけばユルグは駆けだしていた。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。淡い期待を抱くなんて、馬鹿な考えであることは分かっている。それでもこの場で蹲ることも、引き返して街に戻ることもユルグには出来なかった。
抱いている怖気を振り払ってしまえるほどに、ユルグにはどうしても叶えたい望みがあるのだ。
――生きている彼女に、もう一度会いたい。会って、話をしたい。
既に死んでいる者にそれを望むものではないが、せめて夢の中でなら。けれど、どんなにそれを望んでも、決まって見るのはこの悪夢だ。
一年間、共に過ごしたはずなのに。幸せだったはずなのに。まるでそれがなかったかのように、思い出にさえもなってくれない。
だから、結末が決まっている悪夢の中でもユルグは彼女の元へと向かうしかないのだ。
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辿り着いた小屋の入り口で、ユルグは立ち竦んでいた。
伸ばした指先がドアノブに掛かって……それ以上動かない。これを開けてしまえば、きっとまたあの惨状が広がっている。
何度も何度も繰り返してきたことだ。それでも、どれだけ目の当たりにしても慣れることはない。けれど、ここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
一つ息を吐いて、ユルグは扉を開けた。
瞬間、目の前に広がる光景に息を呑む。そこには、ユルグの予想した通りの惨状が広がっていた。
カンテラの光に照らされて、大量の血痕が床を汚している。吐き気を飲み込んでユルグは一点を目指す。
薄闇の中を行く最中、数歩の距離だというのにやたら長く感じる。
部屋の最奥、窓際に置かれたベッドの上。ぐったりと仰向けに横たわっている姿を目にして、手を伸ばしたその瞬間。
直後に、ユルグは何かに躓いて血まみれの床に倒れ込んだ。衝撃で手に持っていたカンテラが放られる。
離れてしまった淡い光を頼りに薄闇の中、足を捕らえた物体を確認する。
それは既に事切れた人の死体だった。それらの正体は、ここを襲ったあの二人組である。彼らはユルグが殺したが……ここは悪夢の中だ。
彼らが既に死んでいるのは、きっとユルグの成したい事が彼らを惨たらしく殺すことにはない事を示しているのだろう。
復讐ならば存分に出来た。ユルグが今、心の底から望んでいる事はそんなことではないのだ。
起き上がろうとしたところで、指先に何かが触れた。薄闇の中で微かに鈍い輝きを放つのは、小ぶりのナイフだった。
それを目にして、無意識にそれを掴んだユルグはのろのろと這いずってミアの元まで辿り着く。
膝立ちになってベッドの脇に立つと、既に事切れている彼女の手を握りしめる。それは握り返されることはない。
「……ミア」
覗き込んだ顔はまるで眠ってるかのように穏やかだ。血に濡れていなければ、今にも目を覚まして起き上がってくるんじゃないかと錯覚しそうなほど。
それを見つめて、閉じた唇にキスを零す。
「こんなことを言うと、きっと怒るだろうけど……早く楽になりたいんだ。疲れたんだよ。でも、みんな俺に生きて欲しいって言うんだ。出来ないことをやれって……おかしいよな」
独り言の合間に、乾いた笑い声が漏れる。
応えてくれる人は誰も居ない。
「ヨエルといるのは楽しいよ。でも、あの子を育てるのは俺じゃなくても出来る。薄情だとは思われるだろうけど、もう死んでしまう人間に懐かれても困るだろ。……本当はあんなことしてないで、終わらせるべきなんだ」
放っておくと弱音がぼろぼろと零れ出てくる。
けれど、誰もそれを聞いちゃいない。何を言っても咎める人はいないのだ。いわば、これはユルグの自己満足である。
本当はどうしたいかなんて、既に心に決めてあるのだ。やろうと思えばすぐにでも実行できる。マモンだってユルグの決断を咎めはしないだろう。後の事は彼に任せてあるし、何の問題もない。
そのはずなのに、ズルズルと生き続けているのは……僅かでも未練が残っているからだ。けれどそれを解消することは出来ない。どう足掻いたところでユルグの運命は決まっているのだから。
横たわっているミアに背を向けて、ベッドに身体を預けて床に座り込む。真正面に見える開け放たれた扉の外では、寒々しい風が吹き荒れていた。
「なんで俺は、生きているんだろうな」
口から出た言葉は、以前この場で感じたこと。
それは今でも思わずにはいられない。本音を吐露するのならば、ユルグには生きる意思など初めから……復讐など、どうでも良かったのだ。
けれど死にきるには魔王の器である限り出来る事ではない。どうせ死ねないのならば、と考えた結果、血塗られた道を歩んできた。
もしユルグが死にきれたのならば、迷わずそれを選んでいただろう。
「今からでも遅くはないかな」
手中にあるナイフを見つめて独りごちる。彼の凶行を止める者はこの場には居なく、ユルグでさえも止めようとさえ思わなかった。
――悪夢のなかでなら、あの時出来なかったことをしても良いんじゃないか?
頭の片隅に浮かんだ思考にナイフの切っ先が喉元に向いて、いとも簡単に押し込まれた。
瞬時に喉奥から溢れてくる血液と、ナイフの刃を動かす度に募っていく不快感。背筋に走る怖気に、それでも手を止めることなく首を切り落とそうと躍起になる。
けれど、こんな小ぶりのナイフではどだい無理な話である。溢れ出た血が手を滑らせて上手く動かせない。
「ぐっ、ふ、……ははっ」
躍起になって肉を抉る度に、滑稽さに笑みがこぼれた。こんなことをしても死にきれないのを知っている筈なのに。どうあっても、彼女と同じ場所にはいけないのに。
本当に馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
身体を揺らすと凭れていた身体が横に倒れた。ぼんやりと床に倒れたまま薄闇を見つめて、静かに目を閉じる。
このまま目覚めなければ、どんなにしあわせだろう。
意識を瞼の暗闇に明け渡す直前、微かに耳朶を打ったのは聞き慣れた泣き声だった。




