最後の瞬間
ゆっくりと近付いてくるユルグを、フィノは身動きすら出来ずに見つめていた。
一歩進むごとに確実に死期が近付いているというのに、それでも彼の歩調は軽やかに見える。ふらふらと、覚束ない足取りではあるけれど、そこには迷いなど僅かもないのだ。
それを見て、ユルグの中で何かしらの変化があったのだとフィノは知る。
彼はアリアンネを殺さなかった。ユルグの心境を思えば他の王たちと同じように殺すものだとばかり思っていたのだ。それを、彼はそうしなかった。
だからといってアリアンネを許したわけではないのだろう。それでも、ユルグは納得してこの結末を選んだのだ。
「ゆ、ユルグ……」
「待たせたな」
気づくとフィノの眼前にはユルグが立ち尽くしていた。
今にも床に倒れ込んでしまいそうなほど、息も絶え絶えだけどそれでもまだ生きている。そして、そんな彼をフィノは殺さなければならない。
「お前はここには来ないと思っていたよ。最後まで、俺の邪魔をするものだと思っていたんだ」
「うん……」
「でもその様子だと違うみたいだな」
ユルグの一言に、フィノは上げていた顔を下げた。抜き身の剣の切っ先が床に敷かれている絨毯を突き刺したまま。それを上げることもしないで、じっと足元を見据える。
こうしてユルグと会話をするまで、フィノの想いは変わらなかった。終わらせるのだと、それだけを思ってここまで来たのだ。
それなのに……どうしてか、彼の問いかけにフィノは頷くことが出来なかった。
「私……フィノは、どうすればいいの?」
自然と口から出てきた言葉に、自分でも混乱してしまう。
ここに来るまで、散々自問自答してきたことだ。その答えは既に出していたはず。
けれど、目の前に居るお師匠の顔を見てしまったらそんな決意は呆気なく瓦解してしまった。ユルグが望んでいることだから、そうして自分を納得させて出来ると思い込んでいたのに。
泣き出しそうな声音で尋ねたフィノの問いに、ユルグはまっすぐに弟子の姿を見据えて、ゆっくりと語りかける。
「一年前、別れ際に俺が何を言ったのか。覚えているか?」
聞こえてきた声に、足元を見つめたままフィノは想起する。
忘れるはずもない。あの時、ユルグは初めてフィノへと心の内を曝け出してくれたのだ。掛けてくれた言葉、一字一句。すべて覚えている。
「自分の生きたいように、自由に……好きに生きろと俺は言っただろ」
「うん……」
「恩返しだってしなくていい。お前には何も望まないとも言った」
「うん……」
「だから、お前がしたくないならやめたらいい」
――強要はしない。
そう、ユルグは言った。
もちろんそれはフィノも理解しているのだ。彼が自らの願いを叶えるために弟子を利用することなど、そんなことはしないと分かっていた。
けれど、だからといって目の前にある問題は何も解決しない。
「そっ、それで……ユルグはどうするの?」
「……野暮な事は聞くなよ。分かってるだろ」
「それって」
「ここまでしたんだ。誰かが終わらせなきゃいけない。お前がその役目を拒否するならそれでもいい。無理強いはしない。他の誰かが代わるだけだ」
ユルグは冷静に断じた。
それはフィノが一番許せない結末だ。それを許容してしまえば、ユルグは最後の瞬間までも憎まれて恨まれて殺されてしまう。
フィノはそれを阻止するためにこの場にいるのだ。
「……っ、いやだ」
手中にある剣を力強く握りしめる。腹の底から吐き出された言葉は、フィノの想い全てを込めたものだ。
「フィノは、ユルグのために生きるって決めたから。だから、それは私の役目。誰にも……誰にも渡さない」
決意を言葉にして下ろしていた剣先を上げる。
両手で持った剣を横に水平にして掲げると、切っ先をユルグへと向ける。両者の間はたった数歩の距離しか空いていない。この距離ならば狙いを外すことはないし、心臓をひと突きするだけだ。何も難しいことはない。
それなのに手はみっともなく震えていて、ガタガタと剣先が揺れる。
なんとか震えを抑えようと必死になっていると、それを見てユルグが一歩前へ出た。彼は構えていた剣の刀身を掴むと、切っ先を自分の左胸へと誘う。
――これで、後には引けなくなった。
泣き出してしまいそうな表情をするフィノを見据えて、ユルグは微かに呟いた。
「すまない……いや、こういう時は違うな」
あの時、フィノはユルグに言ったのだ。まだ感謝するには早いと。だから、その言葉は取っておいて、と。
今ならば――
「フィノ、ありがとう」
直後に後方から沢山の足音が迫ってくるのが聞こえてきた。どうやらマモンが道を空けたらしい。そろそろ頃合いだと判断したのだろう。
喧騒が最後の言葉をかき消してしまったかと、ユルグはフィノの顔を盗み見た。そこには声も上げずに涙を流しながら、歯を食いしばって堪え忍ぶ姿があった。
それを見て、掴んだ刀身を引き寄せる。鋭利な剣先がずぶりと肉を突き破っていく感覚に息を呑んで――ユルグは最後の仕上げを託す。
そうして、背後から聞こえてくる足音と怒号に、背中を押されるようにフィノは刃を押し込めた。




