まともじゃないのは、誰か
通された応接室に、アリアンネと二人きり。
ソファに座って対面したフィノの面前に、皇帝自らが淹れたお茶が出される。
「どうぞ。毒など入っていませんので安心して飲んでください」
警戒するフィノを見透かした台詞に、カップを手にとって口を付ける。
直後――あまりの不味さに、フィノは目を瞬かせて顔を顰めた。
「こ、これ……っ、ものすごくマズい」
「え!? 本当ですか?」
べー、と舌を出して一口飲んだだけでカップを置いたフィノに、アリアンネは自分のお茶に手を付ける。
一口飲むと、先ほどのフィノと同じ顔をした。
「これは……とってもぬるいうえにすごく渋いですね」
「……うん」
苦笑して答えたアリアンネにフィノも同意を込めて頷く。
どうやら皇帝陛下は満足にお茶も淹れられないらしい。
「ずっとティナに任せっきりでしたから、少しは大目に見てください」
「……いいよ、私が淹れるから」
溜息を吐いてポットを手に取ると、お茶を淹れ直す。
熱いお湯を注いで、新しくお茶を淹れながら……フィノは自然とアリアンネに尋ねていた。
「どうして」
「……はい?」
「アリアは、どうして平気な顔していられるの」
口から出た言葉は飾り気のない本心からでた純粋な疑問だった。
フィノにはどうして彼女が平気で居られるのか、まったく分からないのだ。
「一緒に旅してきたから、知ってるよ。ティナのこと、大事に想ってたことも。知ってる」
「……そうですか」
「悲しくないの?」
アリアンネはミアを殺すように仕向けた。この顛末を作りだした元凶だ。許せはしない。けれど、彼女が冷酷な人物ではないとフィノは知っている。
昔のアリアンネの事は知らないけれど、ティナはそんな彼女を知っていた。奴隷であった彼女を救って傍に置いてくれたのは、他でもない今のアリアンネである。
そこまでしたのは、ひとえに彼女の優しさに他ならない。フィノの知るアリアンネと昔の彼女は……まったくの別人ではないのだ。
心根にある優しさはどちらも同じだと、生前のティナを想えば分かりきったことである。
だからこそ、ここまでの事をしでかした彼女のことが許せないのだ。
ミアを害したこともそうだが、自分を慕ってくれていたティナが死んでも平然としていられる。それがフィノには理解出来ない。
普通ならば怒るのが道理だ。ティナを殺したユルグを許せないと、同じように殺してやると言い出してもフィノは驚かない。それが当然の反応である。例えそれが彼女のしでかしたことへの報復であったとしても。自業自得であったとしても。彼女が大事な人を殺されて怒るのは、間違ったことではないのだ。
けれど、アリアンネはそれすらもしないまま。ただ見慣れた笑みを浮かべて微笑んでいるだけ。
ともすれば不気味なほどの彼女の態度に、フィノでなくとも異様であると感じてしまう。
だから、フィノはアリアンネに問い質したのだ。
――悲しくないのか、と。
「彼女のことは、残念に思っています」
「……っ、それだけ? そんなのって」
「薄情だと思いますか?」
アリアンネはフィノの目を真っ直ぐに見つめて尋ねる。それに頷こうとして……直後に見えた彼女の表情に、フィノは何も出来なかった。
「ティナには、わたくしが何をしようとしているか。予め知らせていました。ミアの事は伏せていましたけど……自分の命を捨てる覚悟だということは、彼女は知っていた。当然、そんなことはやめてくれと泣き付かれました。だから彼女に告げたのです。何を言われても考えを改めることはない、見限ってくれても構わないと。最悪、彼女に危害を加えられる可能性もありました。だから、命が惜しいならばわたくしの前から去りなさいと、そう言ったのです」
――けれど、ティナはそれに従わなかった。
アリアンネは苦笑を浮かべて、瞳を伏せた。それは泣いているようにも見える。
悲しくないわけではないのだ。ただ、そう見せないように取り繕っているだけだ。
それを見据えて、フィノは言葉に出来ない思いで胸がいっぱいになった。
ユルグも、アリアンネも。もっと他の生き方は出来なかったのだろうか。それだけが胸の奥底につかえて行き場をなくしている。
けれど、既に後悔するには遅すぎる。もう取り返しのつかない場所まで来てしまった。ここから先には見えるのは、何も生まれない不毛の大地だ。
「それに……わたくしだけが、なんてフェアじゃないでしょう?」
ティナを失ったことは、アリアンネにとっても辛いことではあった。けれど、彼女はそれを予想していたのだ。こうなるかもしれないと分かっていた。
それを聞いても傍に居ると決めたのはティナだ。アリアンネが何を言っても彼女の気持ちは揺るがなかっただろう。
だから、それさえもアリアンネは利用したのだ。
ともすれば、末恐ろしいとさえ感じる彼女の計略の内に、フィノも含まれているのだろう。
けれど、それに気づいたからといって、フィノの心は平然としていた。すでにまともじゃないアリアンネに何を言っても、何を感じたところで無意味なのだ。
だから――淹れたお茶をアリアンネへ手渡すと、フィノは素っ気なく尋ねた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「人を殺すときって、どうすれば苦しまないで殺せるかな」
呟くように口から漏れた言葉に、アリアンネは瞠目した。
それを視界の端に収めて、フィノは続ける。
「人殺しなんて、したことがないから分からない。でも、それだと困るから。だから……アリアなら知ってるでしょ」
「……そうですね。頭を潰すか、首を切り落とすか。それが一瞬で終わる殺し方でしょうか。心臓を突いても良いですが、あれはすぐには死ねませんから」
アリアンネが提示した殺し方は、実質二通りだった。
――頭か、心臓か。どちらであってもユルグは抵抗しないだろう。それでも、無惨な殺し方はしたくない。それがフィノの本音である。
フィノはユルグを恨んでいるわけでも憎んでいるわけでもない。心の底から想っているから殺すのだ。
矛盾を孕んでいるように聞こえるだろうが……だからこそ、彼の最期は出来るだけ穏やかで緩やかなものにしたい。
そこまで考えて、自分の思考回路がおかしくなっていることに気づく。少し前まではあんなに殺したくないと、こんなことはしたくないと思っていたのに。今ではそんな考えなど、少しも出てこないのだ。
「……いやだなあ」
心が冷え切って、冷たくなるのを感じる。
大切な人を殺すことに何の躊躇いもない。そのことにたった一言、溢れ出てきた気持ちを零して、フィノは熱いお茶を啜った。




