歓喜に笑む
瞬きをする合間に、吹き飛ばされた。
それをユルグが認識したのは、飛ばされて家屋に突っ込んだ後の話だ。
『大丈夫か?』
瓦礫に埋もれた身体を起こそうとしていると、頭の片隅から声が聞こえてきた。
以前とは変わって、マモンは滅多に表に出てこなくなった。殆どユルグの中に引き籠もって、声を掛けてくることもない。
この間、どうしてだとそれとなく聞いたところ、魔王としての姿は本来こんなものだと素っ気なく答えてくれた。
それでも、そんなものは建前だとユルグも理解している。本当は宿主であるユルグに気を遣って出てこないだけだ。
以前、彼に「お前のせいだ」と、責めるような言葉を吐き捨てたことがあった。あの時マモンは自嘲気味に笑い飛ばしたが……きっと、今回はそうやって傷ついていない振りは出来なかったのだ。
彼にとってアリアンネからの拒絶は、それほど心抉られるものだったのだろう。
「……驚いたな」
聞こえたマモンの声に応えるように、ユルグは所感を口にする。
先ほどの衝撃波は、こうして吹き飛ばされた直後でも何をされたのか分からなかった。一つ一つ、何をされたのか。状況判断をして今やっとフィノの手管を理解出来た所だ。
「お前はあれを見たことはあるのか?」
『いいや、己も初めて見るものだ。また腕を上げたようだな』
メイユの街で冒険者ギルドに入り浸っていた時分でも、フィノの魔法の上達速度は目覚ましいものだとマモンから聞いていた。それを間近で見ていたマモンがこうして舌を巻くのだ。何よりも今の一撃はユルグの目から見ても文句の付けようのない戦術だった。
武器を投げ捨ててわざと空手を取る事も然り。意表を突いたあそこから、初見で避けられはしない。
今のは完全にユルグの油断もあったが、それよりもフィノが彼よりも一枚上手だったのだ。弟子に一本取られた事に、ユルグは怒りよりも清々しい気持ちで口元に笑みを湛えた。
「はははっ! 遊んでいる余裕はないってことか」
腹の底から声を上げて笑うと、途端に喉奥から何かが溢れてくる。
口元に手を当てて吐き出すと、それは赤い血と黒のヘドロが混ざったものだった。
先の衝撃波を受けて、流石に無傷とはいかなかったらしい。痛みも感じないから怪我を負っていても気づかない。瘴気の毒であるヘドロを除いても、血を吐いたということはどこかしら身体の内側が損傷しているということだ。もしかしたら骨が折れているかもしれないし……ともあれ、再度あの一撃を食らうわけにはいかない。
今のユルグの身体は一月前と比べて、悪化の一途を辿っていた。
痛覚、味覚の消失に加えて今では嗅覚も無くしてしまった。匂いを感じ取るというのは、無くしてしまえば案外不自由するもので、ユルグの場合は、意識して目を向けなければ自分の怪我にさえも気づかない事態にもなり得るのだ。
ましてやここまで来るのに自らを労りもしない、無茶な戦いを繰り返してきたせいで彼の身体はボロボロだった。
王殺しの際に相手取った警護兵から受けた斬傷も、ろくに手当もせずに放っているし、右腕に負っていた裂傷は化膿して腐ってしまっている。そんな状態では満足に動かすことなど出来ない。
フィノがそのことに気づいているかは不明だが……左腕しか使わないのならばいずれ感づかれるのも時間の問題だ。
けれど、それを知られたからといって何の支障も無い。意識を飛ばさない限り、ユルグがフィノ相手に負けることなどあり得ないのだ。
『だが……その身体ではフィノの相手は些か手に余るのではないのか?』
「俺があいつに遅れを取ると思っているのか?」
『厳しいことには変わりないだろう。己が助けてやっても』
「馬鹿な事を言わないでくれ」
ユルグは聞こえてきたマモンの言葉をかぶりを振って遮った。
「やっと身体が温まってきたんだ。これからって時に水を差されるなんて、やめてくれよ」
笑みを浮かべるユルグに、マモンは口を噤んだ。
どうしてか、マモンの目には今のユルグはとても楽しそうに見えるのだ。今まで死人のように突き進んできた彼を見てきたが故に、今のユルグの様子にマモンは驚きに言葉を無くす。
『……楽しそうだな』
「楽しいよりも嬉しいんだ」
「嬉しい?」
フィノは今のユルグより強い。先ほどの攻防で彼女の師匠であるユルグはそれを確信していた。まだ詰めの甘い所もあるけれど、実力は申し分ないものだ。あれならば一人でだってやっていける。
けれど、彼の歓喜は弟子の成長を喜んでのものだけではない。
「あいつなら、きっと俺を殺してくれる」
それが嬉しいのだと言うと、マモンは何を言うでもなく沈黙した。
アリアンネの計略の大詰めには、世界中を恐怖で席巻した魔王を倒す英雄が必要不可欠なのだ。
それをフィノが良しとするかは別として、本物の英雄……勇者として祭り上げるのならば、彼女以外の適任はいないだろう。
そうして……ユルグが導いてあげられるのは、それが最後になる。その後はフィノの自由だ。興すも倒すも彼女次第。
だから――ここで、歩みを止められるわけにはいかないのだ。
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瓦礫の中から立ち上がったユルグは、廃屋の中から真正面にいるフィノを見据える。
弟子の次の一手は、おそらく遠距離からの魔法攻撃。その為にユルグを引き離したわけだが、それを許すほどユルグも甘くはない。
どちらも相手の無力化が目的である。そうなった場合、ユルグは何としてもフィノに近付かなければならないわけだ。致命傷を受けても死なないユルグと違って、フィノはそうなってしまえば死んでしまう。殺したいわけではないし、かといって手を抜けばこちらが取られる。
だから、強制的に意識を飛ばす。その方法を持ち合わせているユルグは、どうにかして彼女に接近しなければならないのだ。
しかし当然ながらフィノはそれを簡単にはさせてくれないはず。だから……ここから先は武力ではなく、魔法の打ち合いで勝負が決する。
今までの経験、そして既存の魔法の応用。それが相手よりも勝っていた方が最後に立っていることになる。
『その身体で勝算はあるのか?』
「この身体だから出来る事があるだろ」
『……言っても聞かないだろうが、無茶も程々にしておけ』
「わかってるよ」
マモンの苦言に答えて、ユルグは雑嚢から投げナイフを取り出した。
その瞬間――何かがユルグへと向かってくるのを感じ取って、咄嗟に眼前へ防護の障壁〈プロテクション〉を張り出す。
「――ッ!!」
しかし視認してすぐに行動に移ったはずが、障壁が出現する前に飛んできた何かはユルグの頬を掠めて、背後の瓦礫に着弾した。
ここまでならばユルグの判断が遅かったで済むだろうが、問題はそこではない。
問題は……フィノが放ったであろう魔法が目で追えないほどの速度で迫ってきたことだ。
けれど、そのことに驚いている暇はない。
――バキン!!
と、すぐ後ろで何かが割れる音がした。
それに振り向いて確認する前に、ユルグはそれの正体に気づく。
「――っ、クソ!」
フィノが放ったのは氷魔法だった。それが着弾箇所から小規模な爆発を起こして、周囲を凍らせているのだ。
威力はそれほど無いが、二撃目三撃目を考えればここで足止めをされるのは不味い。
瞬時に状況を理解したユルグは、それから逃れるように前へと踏み出す。廃屋から出るには大穴が空いた正面から。当然それを心得ているフィノは、そこを狙ってくるだろう。
相手の出方を予測して――ユルグは、左手に握った投げナイフを投擲した。




