旧知の仲
ユルグが彼らに気づいた瞬間――彼らもまたユルグの存在に気づいて、足を止めた。
背後の凍り付いた気配にフィノが振り返った、その直後。
フィノの真横を通り過ぎて、全速力で駆けていったのはアロガだった。
「ははっ、会いたかったぜぇ! ユルグさんよぉ!」
「お前は……」
背負っていた背嚢を捨てて身軽になったアロガは、重い鎧を着込んだまま傾斜のある雪道を駆け上がっていく。
そのスピードは今すぐにフィノが走り出したとしても追いつけるものではない。
いきなりのことに身動きすら取れず呆然としているフィノとマモン。彼の仲間であろう二人を視界の端に入れて、ユルグはすぐさま迫ってきている鎧男に意識を向けた。
凄まじい脚力で、雪などものともせず……まるで怒り狂った獣のように向かってくる男の顔を見て、ユルグは眉間に皺を寄せる。
薄らと記憶にはあるし、彼らのことはユルグも微かに覚えていた。
けれど如何せん――
「……誰だ?」
どうしても名前だけは出てこないのだ。
「――っ、お前なあ! そんなことだろうと思ったよ!」
ユルグの一言がアロガの神経を逆撫でする。
声の限りの怒声と共に引き抜かれた剣。今まさに振りかぶった刀身を目にして、ユルグは傍に立て掛けてあった杖を手に取った。
「……っ、丸腰の相手に斬りかかるとか、相変わらず野蛮で安心したよ」
「お前の方こそ。その減らず口、変わってねえな!」
なんとかアロガの剣撃を受け止めたユルグだったが、こんなもの、ただの木杖で受けきれるものではない。
叩き付けるような力任せの一撃だったから真っ二つに切られることはなかったが、代わりに肩が外れるほどの衝撃に左腕がじんじんと痺れる。
「ちょ、ちょっと! アロガさん、何やってるんですか!?」
ユルグの視界の先――アロガの後方では、リエルが絶叫に近い叫び声を上げた。
その声を間近で聞きながら、突然の出来事にフィノは混乱の最中にいた。
さっきまで楽しそうに談笑しながら仲間と笑い合っていたアロガが、突然人が変わったかのように豹変したのだ。
彼の中には確かにユルグに対しての並々ならぬ憎悪が渦巻いている。丸腰の人間相手に、ああやって問答無用で斬りかかるのだ。
もしユルグが剣撃を防げなかったら。回避出来なかったら。
アロガが狙った箇所は、首から胸に掛けての袈裟斬り。確実に命を取りに来ていた。
「うるせえ! 俺はコイツを一発殴らにゃ気が済まねえんだよ!」
「殴るって……剣で斬りかかってるじゃないですか!」
「男のくせに小せえこと気にしてんじゃねえ!」
ロゲンの指摘を軽くいなすと、アロガは肉薄しているユルグを睨み付ける。
その眼差しを一身に受けて、ユルグは確信した。
この至近距離でもう一度斬り付けられたのなら、防ぐことは適わない。確実に一太刀もらうことになる。
魔王の器である為に致命傷を受けたところで死にはしないが、寿命は削れる。ただでさえ命の期限が短いというのに、こんな下らないことで消費していられない。
あの場で身動きが取れずに固まっているフィノでは、仮に助けに来ようと走り出しても間に合わないだろう。
それだけならばまだマシだ。二人の間に割って入ろうものなら、この男は逆上してどんなことをしでかすか、分かったものではない。
だから――ここでユルグに出来る最善は、とにかく逃げることだ。
次の一手を見出した瞬間には、手に持っていた杖を放り投げていた。
未だ自力では歩けないユルグが向かった先は、雪で覆われた斜面。これならば歩けずとも転げ落ちていけば、あの野蛮人との距離は稼げる。
「ちっ――っ、あんの野郎、逃げるつもりか!?」
なりふり構わず転げ落ちていったユルグを、間髪入れずにアロガは追いかけていった。
===
一瞬の出来事に、フィノはどうすることも出来なかった。
斜面を転げ落ちていくユルグをただ見ている事しか出来なかったのだ。
未だ呆然としているフィノの意識を引っ張り上げたのは、彼女の足元にいたマモンだった。
――ワウン!
一声鳴くと彼はユルグが落ちていった斜面を駆けていった。
けれどマモンが追いつくまでに、さっきのような事態になっていたら。
今のユルグではアロガに勝てないことは、フィノにも一目瞭然だ。身体は満足に動かせない。武器もない。あの様子では話も通じないだろうし、説得には応じることもないはずだ。
「……フィノのせいだ」
考え無しに彼らを連れてこなければ、こんな事態にはならなかった。マモンの懸念を推して、浅はかな考えで、厄介事を持ち込んだ。
目尻に涙を湛えて俯いたままでいるフィノを見遣って、彼女の背後にいる二人は顔を見合わせた。
「貴女のせいではありませんよ」
「そうです。悪いのは全てアロガさんなんですから」
二人揃って慰めてくれる。
けれどなによりもまず、フィノには何が起こっていたのか。それが理解出来ていないのだ。
「おししょう……ユルグのこと、しってるの?」
手の甲でぐしぐしと目元を拭って二人に問い質すと、
「私たち三人は彼と一緒に旅をしていたのですよ」
リエルは思いも寄らぬことを話し始めた。
「んぅ、どういうこと?」
「彼が勇者であることは、フィノも分かっているんですよね?」
「うん」
「僕らは一年間だけ、そんな彼と魔王討伐の為に旅をしていたんです。でも彼とは色々と対立してしまって」
「そ、それでころしにきたの?」
恐る恐る尋ねると、二人は全力でかぶりを振った。
「まさか!」
「そんな恐ろしいこと、するわけないじゃないですか!」
揃って吐いたのは否定の言葉だった。
けれど、それを聞いたって疑惑が晴れることはない。
「そんなのうそ!」
「た、確かに。あれを見てしまったらそう思うのも仕方ありませんが……それでも僕らは彼の命を奪いたいわけじゃない。説得するつもりだったのです」
「……それも、アロガさんのせいで台無しになってしまったわけですけど」
しょんぼりと肩を落としたリエルは深い溜息を吐き出す。
どうやらこの二人とアロガとでは考え方が違うらしい。仲間ではあるが一枚岩ではないということだ。
「じゃあ、たすけるのてつだって!」
「……そうしたいのはやまやまなのですが、既に日が暮れてきているので無理に追いかけるとこちらが遭難しかねません」
ロゲンの言う通り。既に日は沈みかけている。今からユルグを追いかけても、最悪見つからずに遭難という事態も有り得るのだ。
「で、でも……それだとユルグが」
「大丈夫ですよ。アロガさん、短気ですぐ手が出る人ですけど、誰かを殺めることは絶対にしません。……半殺し、くらいはしちゃうかもしれませんけど」
「ぜんぜん、しんようできない!」
「あれくらいはじゃれ合ってる程度なので、心配いりませんよ」
二人の言動には切迫感が感じられない。それほど、アロガのああいった言動は日常茶飯事なのだろう。
なによりも、彼の生態に詳しい二人がこうして気にも留めていないのだ。
フィノがここで気を揉んでいても無意味というもの。
「……ユルグ」
フィノが出来る事と言えば、ここで師匠の帰りを待つことだけだ。




