夢と現実の狭間を往く
目を覚ますと、誰かがこちらをじっと覗き込んでいる気配がした。
それに眉をしかめて見返す。目の焦点が合っていないせいで誰の顔がそこにあるのか、すぐには分からなかった。おまけに意識もぼんやりとして覚束ない。
数秒かけて言葉もなく見つめていると、次第に目が慣れてきてそこにいるのが誰なのか。ユルグは知ることになった。
ベッドに横になっているユルグを心配そうに見つめていたのは、見知った顔。彼の師匠で、旅の仲間であったエルリレオだった。
それに何とも言われぬ懐かしさが胸に去来する。
今までこのような、既に傍にいない人物が夢の中に現れることがたまにあった。その度に過去を悔いて、あの頃に戻れたらと願わずにはいられなかった。
黒死の龍を斃して、少しでもその悔恨を晴らせたのなら。
ミアにも言われたように、過去に縋らずに前を向いて歩いて行けると思っていたのに。
それが、こんな夢を見るんだ。深層心理では、どうあっても決別出来ないらしい。けれど、だからといって悲観することはないのだ。
例え夢であっても、今ならちゃんと向き合える気がする。
「そんなにしかめっ面をせんでも。気分はどうかね?」
ユルグが目を覚ましたのに気づいたエルリレオは、上機嫌に笑みを浮かべた。
それに声を出すことも忘れて頷くと、
「そうか、一先ずは安心だ」
そう言って、ベッドの傍にある椅子に腰を下ろす。
エルリレオの一挙一動をまじまじと見つめながら、ユルグは違和感を覚えた。はっきりとは分からないのだが、何かが、どこかが違う。
サイドテーブルに置いてあったポットで茶を淹れている彼の横顔を見つめ続けて、やがてその違和感の正体に気づいた。
「……すこし、老けたんじゃないか?」
ユルグの記憶の中にいるエルリレオといま目の前にいるエルリレオには微かな違いがある。
それを見つけて指摘してやると、彼は変わらずの笑みを刻んでユルグに目を向けた。
「うん? そうかね?」
「……いや、俺の気のせいかもしれない」
自分で言った事だが、それを否定するようにユルグは首を横に振る。
記憶の中の登場人物は、総じて自分の記憶の中から作り上げられるものだ。それは老いを重ねることはない。であれば、いまユルグが感じた違和感も気のせいだ。
こうして、死んだはずの師匠が目の前に居るわけなど無いのだから。
「そら、まずはお茶でも飲んで落ち着くと良い。儂の淹れる茶は絶品だからのう」
「……しってる。知ってるよ」
嬉しそうに破顔するエルリレオから、差し出されたマグを受け取ろうと右手をあげる。
けれど、自分の意思に反して指先はおろか、腕をあげる事すら叶わない。
自身の身体の状態に困惑していると、それを見たエルリレオは正常に動く左手にマグを握らせてくれた。
「あまり無理をするものでない。今はまだ安静にしなければならんのでな。あんな無茶をしてそれだけの怪我で済んだのは奇跡だ」
彼の言葉はやけに現実味を帯びたものだった。
夢の中というのは、記憶の焼き増しである事が多い。こうして現実と地続きになっていることは滅多にないはずなのに。
不思議に思いながらも受け取ったマグに口を付ける。
口の中に広がる優しい味に、ユルグの目の前にいるこの人は確かに彼の知るエルリレオだと確信した。
この味は何度も味わったお気に入りのものだ。どれだけ時が経とうとも忘れるはずがない。
自然と口元が緩んで、心の底から安心する。
ほっと息を吐きながら落ち着いた心持ちで、ユルグは改めて室内を見回した。
室内はそれほど広くはない。木造作りの一室だ。
窓際に置かれたベッドに、中央にはテーブルと椅子が四人分。壁際には暖炉がある。
乾燥させるために吊された薬草がそれなりに部屋の中を占めていて、それを見るだけでこの部屋の主がどういった人物なのか想像出来てしまう。
しかし、おかしな点が一つ。
ユルグは、こんな場所は知らない。初めて目にする場所だ。
明らかにいつもの夢と毛色が違う。ユルグの傍に居るのもエルリレオ一人だけだし、窓の外に見える景色はまっしろだ。
まるで、雪の中に建てられた小屋のようにも思える。
不審がっていると、直後――部屋の入り口であるドアが開け放たれた。
「はあ……やっぱり外は寒いねえ」
身が縮むような寒さと共に中に入ってきたのはミアだった。
それを目にした瞬間、ますますこの状況に理解が及ばなくなった。
……どうして彼女がここに出てくるんだろう。
ぼんやりとそんなことを思っていると、起き上がっているユルグに気づいてミアは一直線に駆け寄ってきた。
「ミア……なんで――っ、ぐぇっ」
「よ、よかったあ……心配したんだから!」
今にも泣き出しそうな幼馴染みは、抱きついて離れようとしない。
混乱しながらも、元気そうな様子にユルグも安堵する。
「体調はもう大丈夫なのか?」
「うん、この通り!」
顔色も正常で熱があるようには見えない。なによりこうして立って歩けるのなら心配はいらないだろう。
「私よりも自分の心配してよ。本当に酷い怪我なんだからね!」
「わ、わるかったよ……ごめん」
素直に謝るとミアは抱きつくのをやめて離れていく。
その様子を傍で微笑ましげに眺めていたエルリレオと眼差しが合う。
言葉もなく見つめられて恥ずかしさが勝るところ、何がなんだか分からないままである。
そんなユルグを差し置いて、ミアが嬉しそうに話し出した。
「この山に住んでる薬師さん、エルだったのよ。びっくりでしょ!」
彼女の発言を聞いて、そういえばと思い出す。
フィノがシュネー山に薬師が居たんだと言っていた。それと統合すると、ミアの今の情報は途端に信憑性を増す。
「それ……本当なのか?」
「本当もなにも、目の前に居るじゃない」
「いや、でも……」
手元のマグを見つめて、向けられる視線から逃れる。
「俺の……都合の良い夢だと思っていたんだ」
ぽつりと零した言葉にミアは瞠目した。
大方、どうしてユルグがこんな事を言い出すのか、理解出来ていないのだろう。
けれど、それを聞いたエルリレオはおかしげに笑い出した。
「ふはは、目が覚めたら二人きりだったら、そうも思うだろうなあ」
「あっ、そっか」
彼の言葉でミアもやっと合点がいった。
ユルグにとって死んだはずの師匠が生きているなんて、真実であってもすぐに飲み込める事ではないのだ。
「でも幻扱いは辞めて欲しいものだのう。そら……こうやってお主の目の前に、生きているのだから」
嗄れた手が、ベッドの上に投げ出された右手に触れた。
伝わってくる温かな温度に、全てが現実なのだとやっと実感が湧いてくる。
途端に溢れてきた涙が、握っていたマグの中に落ちていく。
声もなく涙を流す幼馴染みに、ミアは驚いて固まった。
彼が泣いた所なんて久しく目にしていなかったからだ。
ユルグと子供の頃から共に過ごしてきたが、彼の両親が亡くなってミアの家へと引き取られて以来、一度も泣いたことはなかった。
きっとわざとそんな姿は見せまいとしていたのだ。悲しくて辛くて……でもそれで泣いてしまったら心配を掛けると思って、まだ幼いながらも気丈に振る舞っていたのだろう。
そんなユルグが泣いているのを見て、ミアは何も言葉を掛けられなかった。慰めようと思っても何を言って良いのかわからない。
それ以前に、ミアが何を言ったところで彼の哀惜を癒やせるとは思えなかった。
この場では幼馴染みであっても、ユルグにとってミアは役に立たないのだ。
「わたし……フィノの所に行ってくるね」
きっとユルグも、昔馴染みにあんな姿は見られたくないはずだ。
わざとらしく言い訳をして、返答を待つまでもなくミアは小屋の外へと出て行った。




