マンホール
投稿者:???
入りくねった住宅街の道を男は進んでいた。
ようやく仕事が終わった。早く家に帰って一杯やりたい所だ。
来るべき至福の瞬間を期待しながら黄昏を背に徒歩で妻と子供が待つ我が家へと男は急ぐ。
静かな住宅街、家の明かりが壁越しで挟み込むように灯る中、男の皮靴の足音だけがコツコツと響き渡る。
無機質のコンクリートや道路標識が彼の道しるべ。見慣れた道に順番を間違える筈もなし。
どこまでも続くまっすぐな世界が二次元の平行線を思わせる。
男の足音がカツンと固い金属音に一瞬変化した。
けど男の歩は止まる事は無かった。これもいつもの光景の一つだったからだ。
その正体はマンホール、生活の裏方にて活躍している下水道への入り口。
あるいは門とも言うべきか……。
黄昏時も終わり、本格的に夜の闇が覆いかぶさる時間がやって来てもなお、男はまだ我が家に辿り着いてはいない。
月の明かりは無く、道に沿って一定の間隔で立ち並ぶ電灯が次の道しるべ。
カツンと固い金属音が響き渡る。マンホールを踏んだ音だ。
歩く、歩く、歩く、踏む、歩く、歩く、歩く、踏む……。
変わらぬ歩がリズムのように音を鳴らして刻んでいく。
歩く、歩く、歩く、踏む、歩く、歩く、踏む……。
たいして変わらず……
歩く、踏む、歩く、踏む……。
さすがにおかしい。男は下げることがなかった首を下げ、視線を下に向けて見た。
マンホールの真上に男は立ち尽くす。何故だかわからなかったが、男は足を横に移動してマンホールから離れた。
次からは道を真ん中ではなく、端を通って帰路へと赴いていく。
歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く……。
リズムは安定した。あの金属音が鳴る事は無い。
でもマンホールは次の道も、その次の道にも存在する。
歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く……。
踏む……。
足元には何もない。誰かがマンホールを踏んだ。
歩く、『踏む』、歩く、『踏む』、歩く、『踏む』、歩く……。
第二者の足音が男の足音に混ざって住宅街に鳴り響く。
男は後ろを振り返る。そこには別世界が待っていた。
一つ、二つ、三つ、四つ……。
どれほどあるんだろうか? 今まで歩いてきた道に大小様々なマンホールの蓋が現れていた。
その様はまるで蜂の巣と大差ない。
気付いた瞬間、音が響いてくる。
『踏む』、いいや……。
叩く、叩く、叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩く叩くっ!
“何か”がマンホールを開けたがっている。
下から出たがっている。不協和音のように一心不乱にマンホールを叩く音が鳴り響いた。
急いで男は逃げるように離れていく。
後ろから聞こえる音も無視し、何も考えずにただ走り続ける。
大分耳に音が入らなくなった頃、ようやく男は我が家へと辿り着き、なるべく慌てずに鍵を開けた。
開けた瞬間に出迎える妻と子供。至福の一時が彼を出迎える。
ハプニングによって疲労を更に溜め込んだ心身を誤魔化しつつ、男は妻が用意する食事のあるリビングへと向かう。
“マンホール”が床にて待ち構えていた。
硬直する男を余所に、妻と子供は何も見えないのか、今なお男を労い続ける。
家族三人が集まる中、マンホールはコトコトと静かに揺れ始める。
怯えて叫び出す男、冗談を言ってふざけているんだろうと取りあわない妻、それを面白がる子供。
マンホールが徐々に開き始める。隙間から何かが静かに出てきていた。
男の悲鳴を最後に静寂に包まれる場所がまた一つ。
今日もどこかで電気の消える家が現れる。




