ローズとデイジー
半年後、春のガーデンパーティーは、あたしの心とは裏腹に、腹が立つぐらいに晴れ渡った空の下で行われた。
今回のパーティーは、我が国とルーン王国との国交樹立の祝賀も兼ねたもので、国賓として招かれるルーン国国王、王子、大使節団の方々も参加することになり、決まった直後から思わぬ要人の出席対応に兄様は大忙しだった。
侯爵令嬢と結婚する異国の王子様をひと目見ようと人々が殺到するのは目に見えていたし、祝賀会の出席者に万が一のことがあっては困るので、警護には王立騎士団の衛兵が最大級の厳戒態勢を敷く予定だった。
その事前打ち合わせやら何やらで、パーティー直前はほとんど不眠不休で働いていたみたいだ。
パーティーが終われば、数日後に帰国するルーン国の王族と共に、ルーン国に嫁がれるミーシャ・メイソン侯爵令嬢、そして姉様やセドリック様を含む使節団も、出立する予定だった。
ルーン国へ向かう馬車は30台を超えるということだ。
その準備で、当然のようにセドリック様もずっと多忙だった。
姉様は、結局、王立植物園の植物学者として正式に使節団のメンバーに登録されることになった。
そのため、定期的に調査報告書と成果を国に送らなくてはいけなくなるらしい。
研究助手として弟子達の何人かも一緒に連れて行くことになったが、希望者が多く、数年ずつ交代制で行くことになっている。
好き好んで未知の大陸に行きたがるなんて、この屋敷の者は本当に変わり者が多い。
学園や植物園の業務の引き継ぎをしたり、ルーン国の言語を覚えたりと、やっぱりそれなりに忙しい日々を送っていた。
関係者が全員多忙なせいもあり、姉様とセドリック様とは、まだ婚約すらしていないままだ。
ふたりの婚約が発表されれば、あちこちから詳しく話を聞こうと断り難い招待状が山のように届くことは予想できる。
国にいる間は家族やごく親しい身内を除いて、ふたりの交際も公にするつもりはないみたいだった。
パーティーは美しかった。いつものことだけど。
きれいな水色の空を背景に、春の満開の花をつけた樹木から白や薄紅の花びらが際限なく降り注ぎ、来場者たちは「若いふたりへの祝福のようね」なんて噂し合っている。
政略結婚だというのに、ルーン国王子と侯爵令嬢のミーシャ様はお似合いに見えた。
王子様はこの国の平均よりも少しだけ浅黒い肌と彫りの深い容貌を持っている青年で、独特な紋様の精緻な刺繍が施された民族衣装に身を包んでいた。
それが何とも言えず神秘的で、年若い女性たちは頬を染めてひそひそと噂し合ったぐらいだ。
対比するように色の薄い金髪と白い肌のミーシャ様は、この国の伝統的なドレスにルーン国産の織物を合わせていて、よく似合っていた。
元々、交易港の街を治める領主の娘だけあって、王室主催の社交行事にも、異国の装品をまとって出席されていることも多かった方だ。あちらの文化にも造詣は深いのかもしれない。
そしておふたりの近くには大勢のお付きの人たちの他に大体セドリック様がいて、ちょっとした通訳をこなしたり、説明をしたりしていた。
ずっと多忙だった上に出立も近いとあって、ようやくもぎ取った休暇らしいのに。今日は外交官としてではなく、ルイス兄様の友人として参加するなんて言ってたけど、ほぼ公務じゃん。職業病みたいなものだろうか。
セドリック様を見つけた時の王子様、嬉しそうだったもんな。お付きの人たちや、ミーシャ様とも関係は良さそうだ。凄く頼りにされてるのが見てとれる。
姉様やあたしたちにも紹介された。あたしはミーシャ様とは少しだけ面識があったけど、姉様は全員と完全に初対面のはずだ。
使節団に女性は凄く少ないらしくて、侍女以外で歳の近い女性が一緒に行ってくれるのは心強いと、ミーシャ様は嬉しそうにしていた。
やがて昼の部が終わると、王室や海外からの来賓の方達は王宮へ帰って行った。この後はお城で優雅な晩餐会が開かれるんだろう。
要人があらかたいなくなると、パーティーは少しくだけたものになる。上品に取り澄ましていた貴族達が、ある者はテーブルを陣取り、ある者は木陰に敷物を敷いて、食事を楽しみながら思い思いに歓談をはじめる。
低い枝やテーブルに点在するランタンに火が灯される頃には、園内は楽しげなざわめきで満ちていた。
あたしもガードナーと縁の深い人や招待した友人達に挨拶したり、話し込んだりしていたけど、ふと遠くにセドリック様を見つけた。
相変わらず、貴族だらけの集まりの中でも、目を惹く存在だ。
ルーン国の関係者はみんな帰ってしまったはずだから、一緒にいるのは、友人達かこの国の仕事仲間だろう。
昼間に話した時よりも、大分雰囲気がくつろいだものになっている。プライベートモードだろうか。
歩きながら楽しそうに談笑していた。皆高級そうな服を着ているけど、中でも比較的シンプルな着こなしのセドリック様が一番目立つように思えるのは、その容姿のせいか、背筋の伸びた綺麗な歩き方のせいか。
彼らが通り過ぎる傍らに、姉様がいた。でも姉様は通りに背を向けて弟子達と話しているので、セドリック様に気づいている様子はない。
セドリック様も人といるのでそのまま通り過ぎるのだろう。さっきも貴人の前だったからふたり共どちらかと言うと儀礼的な対応だったし、今も近づいているのに言葉も交わせないなんて、難儀なふたりだ。
そう思いながら見るともなしに見ていたら、姉様たちの後ろを通り過ぎる際、セドリック様が姉様の髪をひとすじ掬って、自分の唇に当てた。
引っ張られる気配を感じたのだろう。姉様が振り向くと、セドリック様は少し笑って、髪を持っていた手で姉様の後頭部を引き寄せて、そのままキスをした。
ーーちょっと。
仮にも品行方正で知られる官僚貴族が、公衆の面前で堂々とすることじゃなくない?
いや、キスぐらいする人はするけどさ。でも、あのセドリック様がよ?
周りからも驚きの声や歓声が響く。
姉様とセドリック様の交際はほとんど公になっていないので、皆本当に驚いているみたいだ。
なんせ難攻不落と言われて、社交界の噂の中心になりながらも一切浮いた噂のなかったセドリック様が、来賓客の面前で堂々と女性にくちづけたのだ。
寝室でするほど深いやつでもないけど、親愛を表すだけでもない。ちゃんとした恋人同士のキスだとひと目でわかるやつだった。
周りからの冷やかすような声もまったく耳に入らない風で、セドリック様は姉様の目を見たままゆっくりと顔を離して、いたずらっぽく笑った。
姉様は少し困ったような顔をして、たしなめるようにセドリック様の頬に触れる。
それすら嬉しくてたまらないというようにその手を捕まえて、指先にも軽いキスを落とした。「あとで、一緒に回ろう」と言い残すと友人達の追及や冷やかしにまみれながらも、照れたような満面の笑みを崩すことなく去ってゆくのは、到底あたしが知っているいつもの気取ったセドリック様には見えなかった。
「なに、あれ」
誰、今の。初恋が実ったばかりの思春期男子でもいた?
残された姉様は、興奮冷めやらぬ周りのざわめきに包まれながらも、セドリック様の後ろ姿を見送って、少しだけ苦笑いをしていた。よく知っている、しょうがないなあって顔。
あの顔を向けられるのは、あたしだけの特権のはずだったのに。
あたしは最高に腹がたったので、友人に断ってその場を離れると、無駄に忙しそうにしているルイス兄様を無理やり捕まえて、告げ口してやった。
「兄様。今日のセドリック様、少しおかしいわよ。お酒でも飲ませすぎたんじゃないの?」
「いや。あいつは俺に付き合ってこのパーティではいつも酒はほとんど飲まない。……あれは単に、浮かれているだけだ」
ちなみにお兄様は、一滴もアルコールを飲まない人だ。
「浮かれてるだけって」
「ここ半年は業務で会うことも多かったが、普通に毎回おかしかった。空を見ては美しさに目を細め、雨が降っても祝福のようだと感極まっていた。彼の世界は今輝きに満ちているらしい。たぶん一過性のものだ。放っといてやれ」
そうなのか。あのセドリック様が、そんな思春期の少年みたいになってしまうとは思わなかった。多忙すぎるのもあってちょっとおかしくなってるのかしら。
ただ一過性のものなのかどうかは、大いに疑問が残るところだ。何せ7年間も片思いを貫いた方なのだ。
予想通り、姉様は好奇心でいっぱいの貴族たちに捕まって、質問攻めに遭っていた。
ーーいいのかしら。王子様と侯爵令嬢の国を上げての結婚が吹っ飛んだんじゃないの、これ。
しばらくは社交界はふたりの話で持ちきりだろう。
あたしは今更になって、姉様がセドリック様と行ってしまうのを阻止したい気持ちでいっぱいになる。もう出発を数日後に控えているけれど。
人に囲まれることにあまり慣れていない姉様は、戸惑っているみたいだった。
それでも無難に受け応えができるようになっているのは、昔に較べたら大きな進歩と言っていい。
滅多に表に出ないガードナーの娘に話しかけられる貴重な機会とあって、セドリック様のことだけではなく、新進気鋭の研究者として、国の内外で注目されてはじめている姉様と誼を結びたい人が、大勢挨拶する機会を窺っている。
近づいて話の中身に耳をそば立てれば、家柄の自慢話、息子や知人をとり立ててやって欲しいという斡旋の依頼、姉様への通りいっぺんの称賛、どこかの貴族が没落しただとか、成り上がっただとかいう話……。夜の社交界と大して変わらない。
人の噂話と中身のない会話が大の苦手な姉様には、苦行でしかないだろう。
「姉様、こんなところにいたのね!」
あたしは咎めるような周囲の視線をものともせずに、人混みに割り込んだ。
「デイジー」
あたしを見てほんの少しほっとしたように頬を緩ませる姉様につかつかと近づいて、腕を取る。
「ねえ、お茶を淹れてよ。喉が渇いたわ。淹れたてじゃないと嫌よ」
飲み物ならいくらでもあるのに、と言いたげな周りの空気は無視する。何てわがままな子だと思われてるだろうけど、そんなの今更だ。気にしない。
「あの」
適当なところで会話を切り上げるのが苦手な姉様が、少し戸惑ったような顔をしているけど、どうせ大した話をしているわけじゃないんだから、無視すれば良いのよ無視。
「じゃあ皆様、失礼しますわ。ごきげんよう」
にっこり笑ってお辞儀をすれば、面と向かって文句を言ってくる人なんていない。いても無視するし。
まだまだ話し足りなそうな群衆を置き去りにして、あたしはまんまと姉様を連れ出した。
「ありがとう、デイジー」
周りに人がいなくなると、姉様はようやく解放されたような顔をした。
「あんな話を真面目に聞いていては駄目よ。かわし方ぐらい覚えないと。そんなんでちゃんと異国でやっていけるの?」
あたしがいない場所で、という意味を言外に込める。セドリック様は決して姉様に無理なことはさせないだろうけど、外交官夫人として、これからは社交にまったく関わらないというわけにはいかないだろう。
「うん、頑張ってみる」
「まあ、つらくなったら、外交官の妻なんて放り出して帰ってくれば良いのよ。ここでは姉様がどんなに浮世離れしてても、文句をいう人なんていないんだから」
あたしは自分で言いながら、どこかで聞いたような言葉だと考える。
よく考えるとそれは、社交界が怖くてこっそり泣いていた幼いあたしに、姉様がかけてくれた言葉だった。
あたしの言葉に、姉様は少し笑っただけだった。
外の喧騒とは裏腹に、屋敷の中は静かだった。夕方からは従業員もみんな外のパーティに参加しているので、建物内にはほとんど人もいない。
台所の火は熾火になっていた。それを見て姉様は眼を細めると、いつもの手順でお茶を淹れはじめた。
律儀な人だ。お茶なんて姉様をあの場から連れ出すための口実でしかなかったのに。
容器を温めて、お湯をティーポットに淹れて、茶葉を入れて、少し蒸らして。いい香りがする。茶器がたてる音が耳に心地良い。
あたしは台所にすえつけられてある小さなテーブルセットに腰かけ、頬杖をついて、姉様の後ろ姿を見ている。
小さい頃から何度、こうやって見てきただろう。はっきりいってあたしだって淹れ方は完璧に覚えている。
ただ同じように淹れても、全然同じ味にならないんだけど。まったく、これからのお茶の時間をどうしろって言うのよ。
やがて、目の前にティーカップがことりと置かれた。
あたしの一番好きな、シンプルなミルクティーだ。丁寧に丁寧に淹れられたそれは、あの人の髪によく似た色で、あたしはそれが少し面白くない。
「……ひとつ約束して」
だから向かいに座った姉様に対して、そんな言葉が口から飛び出した。これからいかに馬鹿なことをいうか自分で分かっていながら、黙っていることができなかった。
「遠いところへ行っても、あたしが本当に姉様のお茶を飲みたくなって我慢ができなくなったら、手紙を書くから。そしたら、何を置いてでも帰って来て」
あたしは何を言っているんだろう。どんなに聞き分けのない子供だってこんな無茶な要求はしない。でも、その時のあたしは、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
「セドリック様の任期が終わってなくても、姉様が研究の途中でも、全部放り出して、あたしにお茶を淹れるためだけにここに帰って来て」
この屋敷のある王都から南の大陸までは、陸路と航路合わせて何か月もかかる旅程だ。普通に考えて、そんなことで戻って来いなんて、よくて鼻で笑われるか、激怒されても仕方がないところだろう。
でもこの約束は、あたしにとっては何よりも大事なものだった。
姉様は真面目な顔をしてあたしの世迷言を聞いて、少しの間きちんと考えていた。そして、重々しく頷いた。
「わかったわ」
それで、あたしはようやく少し安心した。
姉様がそう言うのなら、必ず実行してくれるだろう。その場限りの口約束や誤魔化しを決して言わない人だ。
あたしが心から願ったら、姉様は必ず帰って来てくれる。あたしはその約束だけで、ひとりで生きていくことができる。
かすかに外から声が聞こえて来た。姉様を呼ぶ声も混じっている気がする。
「……もう行けば。庭師たちにまぎれてれば捕まらないわよ、たぶん。待ってる人もいるんじゃない」
誰が、とは言わない。悔しいから。でもそろそろ探しに来るんじゃないかしら。姉様が絡むと、あの人は少し狭量になる。姉様は気づいているだろうか。
「そうね」
姉様が立ち上がった。
「じゃあ、またあとで」
あたしは顔を上げることができずに、手だけをひらひらと振った。姉様が去っていく足音。裏口のドアが開いて閉まる。
誰もいなくなった台所は、静かで、外の声がよく聞こえてくる。歓声、笑い声。かすかに楽器の音まで聞こえてきた。これからダンスパーティでもはじめる気だろうか。
きっとさっきのキスを見た人たちから、ふたりで踊るようにせっつかれるんだろうな。
困っている姉様の顔を想像すると、気の毒だけど少し笑ってしまう。
「……ふふ」
あたしはようやくカップを持ち上げることができた。
姉様が淹れてくれた紅茶は、いつもの通りいい香りがする。ひとくち飲むと、甘くて、そして思っていたとおり、少しだけしょっぱかった。
この後あたしがひとりで大泣きすることを、知っていたんだろう。
***
それからどうなったかは、言うだけ野暮ってものでしょう。
ひとつだけ言えることは、ローズ姉様は、その後も幸せだったということ。それは悔しいけれど、常に姉様の側にいるあの人のお陰でもある。
姉様の本はいつも、『愛する家族と、懐かしい故郷の我が家へ。』という一文から始まる。
その献辞が載る『ローズ・ガードナー・フォスターの植物読本』シリーズは、繊細な専門性と著者の溢れる植物愛が話題になって、研究者から一般の人にまで長いこと世界的に愛される本になるのだけど、それはまだ少し未来の話だ。
読んでいただいて、ありがとうございました。




