7年前からずっと《ローズ視点》
とりあえず椅子に座ったものの、ふたりともしばらく無言だった。
セドリック様が怒っていると思えば、長い時間をかけて、少しはましになったと思えた私の会話術も、さっぱりその成果を発揮してくれない。
「……婚約のこと。思いもよらなかったから、驚いたよ」
沈黙を割るようにぼそりと呟いたのは、セドリック様だった。
それはそうだろう。ずっと彼らのそばにいた私ですら、聞いて驚いたぐらいだ。まして、長い間国を離れていたセドリック様にしてみれば、寝耳に水のはずだった。
そうは言っても、先週話を聞いた時点ではセドリック様はもう国に戻っていたのだし、すぐに報告するべきだったのだろう。
そうすれば、あんな不意打ちのようにデイジーとジルの婚約を知ることにはならなかったはずだ。
「……ごめんなさい、黙っていて」
「君が謝ることじゃない」
さっき一瞬だけ見せた暗い表情は、今はもうなりを潜めていた。
「本来なら、お祝いを言うべきなんだろうな。ーーだけど今は無理なんだ。少しだけ待ってほしい。もう少ししたら、ちゃんと祝福できるようになってみせるから」
本当は、何も知らせなかった私を怒鳴りつけたい気持ちだっただろうに、凄まじい自制心が、彼を普段の穏やかないつもの雰囲気に戻そうとしている。
セドリック様はきっと私の謝罪を、ふたりの婚約を黙っていたことだけに対するものだと思っているのだろう。
そうじゃない。私は首を振る。黙っていられなくなって、重い口を開いた。
「本当は、知っていたんです。セドリック様の気持ち」
まさか私がデイジーへの想いに気づいているとは思わなかったのか、セドリック様は驚いたように私を見た。
「え、いつから?」
「たぶん、最初から」
心底意外だというように私を見るセドリック様の眼差しに、私は居た堪れなくなってこっそりと手を握りしめた。
7年前、まだ私たちが学園にいて知り合ったばかりの頃、屋敷に初めてセドリック様が訪ねて来た日。
デイジーをひと目見て顔を赤らめるセドリック様を見てしまった時から、私はふたりの中に芽生えた恋心を知っていたというのに。
デイジーのセドリック様への恋心が消えたのがいつ頃なのかは知らない。そもそも、最初から憧れで、恋ではなかったのかもしれない。
ジルとの婚約を聞いた時、私は何もせずに、心の底からふたりの仲を祝福してしまったのだ。
「貴方の気持ちを知っていたのに、ずっと気付かないふりをしていた。本当に狡いのは、私の方なんです。ごめんなさい……」
私はとうとう俯いてしまった。きちんと顔を上げていようと決めたのに。浅ましい私の本心を、美しい茶色の瞳は暴くだろう。それが耐え難かった。
「君が謝ることではない」
さっきと同じ台詞を、セドリック様がもう一度口にする。
優しい声が、余計に私の胸の痛みを強くした。
「ずっとそばにいたくて、本心を押し隠していたのは、私も同じだ。拒絶されるぐらいなら、一生友人でいる方が良いと思った。そのツケを今払う羽目になっているのは、お笑い種だけどね」
その気持ちは痛いほど分かる。
もしかしたら、私たちは似たもの同士なのかもしれない。そんな考えが頭をよぎって、あまりに身の程知らずだと思い、こんな時なのに少しおかしかった。
「それにしても、私の気持ちが知られているとは思わなかった」
顔を上げると、セドリック様は寂しげな顔をしていた。
「だったら、君の口から直接聞きたかったな、ジルとのこと。手紙でも何でも良いから」
「そうですね。すぐに伝えるべきでした」
何せ話を聞いたのがつい先週のことだ。セドリック様が今でもデイジーのことを好きなのかどうかもわからなかった。それでもすぐに伝えるべきだったのだ。この方にこんな顔をさせてしまうくらいなら。
「……正直に言うと、7年前の気持ちが今でも続いているとは思っていなかったことも事実です」
どうしても弁解がましくなってしまう私の言葉に、ふとセドリック様が諦めたように笑った。
そして私をまっすぐに見る。
「私の気持ちは変わっていないよ。7年前からずっとだ。ずっと変わらずに好きなんだ。変わらないどころか、年々想いが増していっているような気さえしている。自分でも流石に諦めが悪いと思っているけど」
そう言って笑う笑顔がとても綺麗で、胸が痛いほどだった。
7年前には知らなかった。彼がこんな顔で笑うなんて。私はいつも、顔を見ることはできずに俯いてばかりいたから。
この方が抱えてきた想いをずっと大事にしてきたことが察せられて、筋違いだとは思いつつ、私はデイジーがうらやましくてしかたがなかった。
「そんな顔をしないで。君を困らせたいわけじゃないんだ」
そう言って笑うセドリック様の方こそ困った顔をしている。私はどんな顔をしているのだろう。
誰よりも自分が辛いはずなのに、私のことまで気遣ってくれるセドリック様は、どこまでも優しい方だった。
それが、土地勘も無い、言葉も通じなければ知人も居ないような、まったく異なった文化を持つ土地に、任期も定かではないままに行ってしまうという。
一世一代の恋心が破られた直後の悲愴を抱えたまま。
「……ルーン国は、美しい場所なのでしょうね」
私は、この国には紀行文すらあまりないような、未知の異国について質問していた。その場所が、彼にとって優しいところだといいと願いながら。
「そうだな。砂漠も多いが、その分植物もたくましい気がする。特に雨季には緑が色濃くて、美しいよ」
話が飛んだことに一瞬目を丸くしたものの、呟くようにセドリック様が語る情景はどんなだろうと考えていた。
「今回ルーン国に滞在できたのはわずかな期間だったんだけど、ちょうど雨季の終わり頃でね。スコールが去ったあとに生き生きと芽吹く植物を見て、君はどんな顔をするんだろうと、ずっと考えていた」
その言葉で、私の気持ちは固まったのだと思う。
「あの、以前に提案して頂いた話なのですけど」
「うん?」
「……その、私も一緒にルーン国へ行かないか、という」
あの日のセドリック様の提案は、軽い気持ちで発せられたものなのかもしれない。反面、私には大きな意味があるものだったが、ほとんど断る気でいたのは事実だ。
私の薬師としての知識や技量を求められたのは素直に嬉しかった。
でも、この国を離れること。屋敷を離れること。
何よりも、デイジーを置いてゆく決心がどうしてもつかなかったのだ。
あの高慢ぶっているけど、そのくせ人一倍寂しがりのデイジーが、行かないでと叫ぶ声が耳の奥で反響していた。
でも、ジルとの婚約を聞いて、あの子はもうひとりではないことを知った。
私が遠くへ行くからといっていつまでも泣いていた小さなデイジーではないのだ。
私は一瞬目を伏せて、今の私の世界を思い浮かべた。
すっかり第二の居場所になったこの温室や、学園の生徒達。
生家の屋敷と、庭のようにして育った植物園。幼い頃から見知った弟子達の顔。
あまり会うことのないお父様。いまいち掴みどころのないお母様。ホランドさんをはじめとする、屋敷のみんな。
結婚して少し当たりが柔らかくなったお兄様。笑顔で隣にいるホリー。小さなイリス。
そして……デイジー。
デイジーの隣には、やっぱり小さな頃から知っているジルがいる。きっともう、あの子は私がいなくなっても泣くことはない。
安堵のような、寂寥のような気持ちが去ってみると、私の願いははっきりしていた。
「あれは……すまなかった。随分と身勝手だったと反省しているよ。君がどれだけ生家を大事にしているかを知らなかった訳じゃないんだけどな」
セドリック様が何でもないような顔で笑う。
「故国を離れることになって、少し心細くなっていたんだと思う。決して君を困らせようとしたわけではないんだ。ただこうなってしまった以上は、あんな提案は重荷にしかならないだろう。どうか気にしないでくれ」
そんなことを言っても、一度口から発せられた言葉を簡単に忘れられる訳がない。
「駄目でしょうか」
「え?」
「私は、先日の提案の通り、セドリック様と一緒に南の大陸に渡りたいと考えています。今更ですか?」
声が、少し震えたかもしれない。目を逸らさずに言うのが精一杯だった。
こんなひと言でも、私にとっては精一杯なのだ。
それでも、大事な話はセドリック様の顔を見て言おうと7年前に決めた。なるべく人と関わるようにしてきた。ほんの少しだけ会話もましになった、と思う。
吹けば飛ぶような私の努力なんて、どれほどのものかはわからないけれど。




