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バラとひなぎく  作者: 田仲絵筆
デイジー
32/37

学園へ《ローズ視点》

ローズ視点です。

 私はセドリック様に手を引かれるままに、植物園の小径を進んでいた。

 まっすぐに歩いて行くセドリック様はこちらを振り返りもしない。いつもより速い歩調も、私の手を掴む力が少し強いのも、さっき見た表情のない顔も、すべてがいつもの彼らしくなくて、受けた衝撃の度合いを感じさせた。


 周りの人達が驚いたようにこちらを振り向くのもまるで目に入っていないようだ。

 おそらくセドリック様の知り合いと思われる数人の男性が、こちらを見て冷やかすような声をかけてきた。

(どうしよう)

 何か誤解されているんじゃないだろうか。

 私は今更だし何を言われてもいいけど、セドリック様の評判に傷がつくのでは。


 困り果てて背中を見つめるけど、セドリック様は声の方を一瞥しただけで、歩調を緩めることはなかった。


 本当に、こんなセドリック様は初めて見る。婚約の話が相当衝撃的だったのだろう。

 まさかこんなに彼が動揺するとは思わなくて、私はその事にショックを受けていた。


「あの、今の人たちに何か誤解されてしまったのでは?」

 先ほどの声が耳に入っていないわけはないと思うが、一応確認する。小走りで隣に並んで、なるべくセドリック様だけに聞こえるように小声でささやくと、彼はようやく気づいたように少し歩調をゆるめて、薄く笑った。

「そうだね。後で訂正しておくよ。今だけは嫌がらせだと思って、大目に見て」


 嫌がらせ。その言葉にひやりとする。やはり彼は怒っている。その怒りは、婚約のことを知っていながら黙っていた私に向けられたものだろう。



 デイジーとジルが婚約するという話を本人たちから聞いたのは、つい先週のことだ。


「ジルと婚約することにしたの。なんか文句ある?」


 突然の宣言に、ルイスお兄様と私は驚いた。デイジーがジルとーーうちにいる庭師と結婚するなんて、まったく予想外だったから。

 どちらかというとデイジーは、お父様の弟子達を毛嫌いしていると思っていたのに。



 十代半ばでで社交デビューしたデイジーは、その美しさと人脈であっという間に社交界の中心人物のひとりになり、適齢期になる頃には求婚者が列をなすほどだった。


 学園での私の同僚にあたる人が、うちを訪れた際デイジーをひと目見て恋に落ち、そのまま少しの間交際をしていたこともある。

 結局、求婚を断って、そのまま終わってしまったようだけど。


 恋多き令嬢としても評判のデイジーを、お兄様は苦々しく思っているらしく、しょっちゅう衝突ばかりしていたけれど、私はのびのびと社交界を謳歌している彼女の姿を、眩しい気持ちで見ていたのだ。


 ひとつだけ、気がかりなことがあった。

 ーーセドリック様とのことは、どうなったんだろう。


 官僚になったセドリック様は多忙で、学生時代からみると、うちを訪ねることも少なくなっていた。

 ただ限られた時間の中でできるだけ顔を出してくれていたし、無沙汰というほどではなかった。


 それでも、デイジーにとっては、会いたい時に会えない人というのは、パートナーとしては不適だったのかもしれない。

 あの子はああ見えて、とても寂しがり屋だから。


 ふたりのことは私が口を出せることでもないので、黙って見ているしかできなかったけれど。

 ただ、いつかセドリック様が持ってきたという、あの美しいデイジーの花束のことを思い出すたびに、少し胸が痛くなった。

 彼の気持ちは、何処へ行ってしまったのか。


 デイジーとジルの婚約の話を聞いた時に、真っ先に私を支配したのが、親愛なるふたりが手を取り合うことを決めたという喜びだった。

 そして、次にやってきたのが、セドリック様はもうデイジーのことは吹っ切れたのだろうかという不安だった。


 その不安は的中し、不意打ちのようにデイジーとジルの婚約話を聞いてしまったセドリック様は、こんなにも動揺している。



 学園の温室で、友人としての握手を交わした、あれ以来。

 あれから私はセドリック様の隣にいられるように、せめて友人としては恥ずかしくないようになろうと、懸命だった。


 社交の場に出ること、人と関わること。

 はじめは恐ろしくて仕方がなかったそれらのことにもようやく少しずつ慣れ初めて、友人としてセドリック様の隣にいられることに、すっかり満足した気でいたのに。


 まさかセドリック様が今でもデイジーに気持ちがあることを目の当たりにして、まだ自分がこれほど傷つくなんて、思ってもいなかったのだ。



 地面には色とりどりの落ち葉が敷き詰められていて、まるで錦の小径だった。今もはらはらと黄金の葉が舞っていて、この小径がずっと続いていればいいのになんて、馬鹿みたいなことを考えていた。


 私は自分の惨めさを心の内で嗤いながら、それでも手を繋いで美しい道を、この人といつまでも歩いていたかったのだ。



「……ちょっと、出ようか」

「え?」

 ようやく歩調を緩めたセドリック様がそう言った時、意味をとりかねた私は変な顔をしていたと思う。

「流石に今日はこの園にはどこも人がいるから。少し抜け出さないか?」

 

 セドリック様の提案はやっぱりいつもの彼らしくなくて、私を戸惑わせるものだった。

 私としては社交を放り出すのはいつものことだし、少しぐらい抜けるのは構わないのだけど、こういった行事を重視するセドリック様がそんなことを言うなんて。


 先日侯爵令嬢とルーン国の王子の婚約が正式に発表されて、セドリック様の出立もおおやけになったばかりだ。今日は関係者も大勢来ているはずだけど。いいのだろうか。挨拶、とか。


 セドリック様は気にする素振りもなく、正門前の大通りにずらりと並んでいる馬車に眼をやると、その中の一台に近づいて御者に合図をした。

 二頭立てだが充分に立派な馬車は、セドリック様が乗って来たものだろう。


 慌てて降りて来ようとする御者を片手で止め、自らドアを開けて乗り込んだ。

 その間もセドリック様は私の手を握ったままだった。

 逃げないようにするためだろうが、私の方はもう覚悟を決めているというのに。


 セドリック様が行き先を告げる。ひどく意外な場所だった。

「……え?」

 御者が了承を告げて、慣れた道を馬車が走り始めた。


 そう、私にとっては慣れた場所だ。何せ毎月通っている。

 ただ、セドリック様にとっては随分と久しぶりだろう。

 行き先は王立学園だった。


「……どうして」

「喧騒から逃れたいと思ったら、あの温室を思い出したんだ。それに、これが最後になるかもしれないから。目に焼き付けておきたくて」


 最後という言葉が重みを持って胸に刺さった。学園だけではない。うちに来ることも、もしかしたらこの国に帰ることも、しばらくなくなってしまうのかもしれない。

 

 思わず見上げてしまった私の表情が苦痛そうに見えたのだろうか。セドリック様は「ごめんね」と言って私の手を離した。手が痛かったわけではない。

 こんな時までそんなことを考えてしまう自分にも嫌悪していると、「ごめん」とセドリック様がもう一度呟く。

「どうしても、あの場に留まっていることができなかった」



 休日とはいえ、学園の正門前には門番が立っていた。

 国中の貴族の子女が集まる学園で、敷地内には寄宿舎もある。警備が固いのは当然だ。


 ここで毎月数回講義をしている私は、彼らとも顔見知りだったので、すぐに気付いて退けてくれた。軽く会釈をして門を抜ける。

 礼服に身を包んでいるセドリック様もどう見ても不審者ではない。私が一緒ということもあるだろう。丁寧に一礼して通してくれた。


 セドリック様が真っ先に目指したのは、学舎でも寄宿舎でもなく、私が学生時代に入りびたり、セドリック様とも出会うことになった、あの古い温室だった。


「懐かしいな。あまり変わらないね、ここは」

 相変わらずの佇まいにセドリック様が目を細める。ほとんど外観は6年前のままだった。


「中の机などは、新しいものに替えたのですが……」

 そう言いながら温室の扉を開けて、中に誰もいないことを確かめた。最近はここに通う弟子や学生が何人かいるのだが、休日は流石に来ないようだ。


 私の本分は王立学園植物園付の研究職なので、この学園の温室に常駐しているわけではない。授業がある日はここにも来るし、この温室の管理責任者ということにもなっているけど、ひとりでここの植物たちの管理をするのは限界があった。

 植物の管理方法を訊いて、細やかに世話をしてくれる学生たちの存在はありがたかった。


 中も昔とそれほど変わっているわけではない。ただ図書スペースの執務机と椅子を新しいものにして、文献を少し充実させた。

 何人かが来ても大丈夫なように、机の他に小さなテーブルとベンチも置いている。授業のないときに食堂からお湯をもらって来て、お茶を飲むこともあった。


 古びた温室の建て替えの話が全くないわけではなかったのだが、大規模な改修をすると中の植物に影響が出るかもしれない、などと言い訳をして、先延ばしにしていた。

 それは、私がこの想い出深い温室を、変えたくなかったからだ。


 中に入ると、後ろから入って来たセドリック様が、引き戸を全部閉めずに、隙間を開けていた。

 私の不思議そうな視線に、「開けておいても?」と問われる。今日は暖かいし、このくらいなら開けておいても問題はないが、今更な気がした。


 もちろん、意図が理解できないわけではない。「独身の男性と女性がふたりきりになる時は、部屋のドアを開けておくこと」幼い頃から、飽きるほど聞かされてきた基本のマナーだ。


 ただこの温室は温度管理をしていることもあって、扉を開け放しておくことはなかった。学生時代、セドリック様は必ず毎回断ってくれたが、過去にしていなかったことを今するというのは、ふたりの関係性が変わってしまったようで、ひどく寂しかった。


 もしかすると、これは官僚としての嗜みなのだろうか。

 そうは思っても、長い時間をかけて友人として信頼し合える間柄になったと思っていたのに、それが一方通行だったことを思い知らされたようで、思わず「閉めても大丈夫ですよ」と言ってしまった。


 言ってしまってから後悔する。そもそもここに来ることになった経緯を思い出したのだ。

 デイジーとジルの婚約話を聞いたセドリック様が、ショックを受けて、私をあの場所から連れ出した。きっと私に問いただしたいことがあったのだろう。


 セドリック様はわずかに首を振ると、自嘲的な笑みを浮かべた。

「あいにく、大丈夫じゃないんだ。私が君に何をするか分からない」


 ーーああ、やっぱり。

 彼らしくもない暗い表情を見て、私は絶望的な気持ちになっていた。

 彼は私に、猛烈に腹を立てている。

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