行かせない
「駄目よ!!」
何を考えるよりも先に、あたしは思わず立ち上がって大声を出していた。
いきなり何てことを言うんだろう、この人は。姉様を遠い国に連れて行く? 冗談じゃない。あんなに遠いーー最悪、もしかしたら二度と生きて会えないかも知れないような場所になんて、絶対に連れて行かせるわけにはいかない。
しかし取り乱しているのはあたしだけで、とんでもないことを口走っているセドリック様も、相対する姉様も、少なくとも表面上はいたって平静な顔をしていた。
姉様はあたしの顔をじっと見つめてから、セドリック様に向き直った。
「それは、薬師としての私を、外交官として、セドリック様が必要としているということですか?」
何でそうなるのよ、とあたしは自分の動揺も一瞬忘れて脱力しそうになったけど、よく考えるとセドリック様の気持ちを知らない姉様の質問はそこまで的外れという訳でもない。
長旅のメンバーに薬師はつきものだ。特に今回のように、その土地の医療事情がほとんどわからない状況なら、優れた薬師の帯同は不可欠だろう。
姉様は植物の分類学はもちろんのこと、その薬効にかけてもこの国の第一人者だから、考えてみたら、適任者ではあるわけだ。
姉様の質問はセドリック様にとっても意外だったのか、一瞬目を丸くして、それから彼らしくもない自嘲的な笑みを浮かべた。
「薬師としてか。……そうだと言ったら、君は来てくれる?」
「だから行かないって言ってるじゃない!」
あたしは再び大声を出した。黙っていたら、姉様が連れ去られてしまうという恐怖があたしを支配する。
そんな、気候も文化も、言葉だって違うところに姉様が行くわけないじゃないの。薬師として? 冗談じゃない。自分の気持ちひとつちゃんと伝えられない人に付いて行って、姉様が幸せになれる訳がない。
「デイジー、セドリックは、ローズに訊いているんだ」
「だって!」
兄様は姉様の、セドリック様への気持ちを知らないから、そんなに平気な顔でいられるんだ。
「セドリック様、私は……」
姉様が、絞り出すようにセドリック様の名前を呼ぶ。
言いかけて姉様は、一瞬ひどく辛そうな顔をした。泣き出す一歩手前みたいな。
あたしもセドリック様も、姉様のそんな顔は見たことがなかったので、思わず固まってしまう。
「ローズ」
「……ごめんなさい。今は応えられません」
そう言って俯き、一礼すると、応接間の扉を開けて、姉様は出て行ってしまった。
「ローズ!」
「行っては駄目ー!!」
立ち上がって姉様の後を追おうとしたセドリック様の腕を無理矢理つかんで止めたのはあたしだ。行かせてたまるか。
「ローズ! 待ってくれ!」
常に無く必死な顔のセドリック様は、無理矢理あたしを振り払ってでも追いかけそうな勢いだ。あたしは絶対に姉様のところへ行かせまいとして、ほとんどぶら下がるように必死でしがみつく。
「離せ! デイジー!」
「絶っっっ対にいや!!」
離すわけない。離したらこの人は姉様を遠くへ連れて行ってしまう気だ。
「何をやってるんだ、お前たちは」
呆れた顔でことの成り行きを見守っていた兄様が、堪えきれなくなったように立ち上がった。
「説明しろ。話が見えない」
不機嫌な顔は、事態を飲み込めてないのが自分だけだと気付いたせいかもしれなかった。
「デイジー、取りあえず、セドリックから手を離せ」
あたしは、セドリック様が姉様を追うのを諦めたのを確認してから手を離した。
「君も。勝手に人の妹を連れて行こうとするな。……こんなこと、前もあったな。どうも君は、ローズのことになると冷静さを失うんじゃないか?」
これはセドリック様に向けた言葉だけど、責めるというよりは少し怪訝に思っているようだった。
「そうだな。すまない」
「謝って済むとお思いですの? 姉様が一番ここの暮らしを大事にしているって知っているでしょう。何が悲しくて安全も確認できないような、遠いところへ行かなくちゃいけないんですか。しかも、薬師として? そんな取ってつけたような理由で姉様をここから連れ出せると思ってるなんて、人を馬鹿にするのも大概にしてほしいわ!」
どこか意気消沈したようなセドリック様を、あたしはこれでもかと責め立てる。流石に兄様が「デイジー」と止めに入った。
「何よ! 兄様だって、セドリック様は勝手だと思ってるでしょ! 姉様を連れて行こうだなんて!」
「それはそうだが。セドリックの言い分も聞かないと。お前もだいぶ冷静じゃないだろう」
普段は横柄なくせに、こんな時だけ公平ぶる兄様にも腹が立つ。
「……もちろん、ローズを異国にずっと引き留めておこうなんて思っていない」
言い争いをしてるあたし達を尻目に、セドリック様が呟くように口を開いた。
「少しの間だけでいい、ローズとあの大陸で一緒に過ごしてみたかった。あの国の自然を彼女に見せたいと思った」
視線は遠くを見ているように見える。遠い大陸のことを考えているんだろうか。
「見たこともないほど大きな葉や花をつける植物を、スコールの後で生き生きと芽吹く緑を。恐ろしいほど赤い夕陽を。あの緑の中で佇む彼女をひと目見ることができれば、私はあの国に骨を埋める覚悟ができる気がしたんだ」
「ええ、重い……」
最後の方は独白みたいなものだったが、思わず嫌な声が出た。やっぱり姉様のことになると気持ち悪いな、この人。
そうは言っても、ほとんどネガティブな感情を人に見せないセドリック様がここまで落ち込むんだから、去り際の姉様の悲痛な顔が相当ショックだったのだろう。
「あんなに嫌がられるとは思ってなかった……」
椅子に座って頭を抱えてしまったセドリック様に、お兄様がおそるおそる話しかける。
「なあ、セドリック。もしも俺の考えが勘違いだったらすまない。違うならこの質問はひょっとしたら君には侮辱ととられる可能性があるので、そういう意図はないことを明言すると共に先に謝罪しておく。……ひょっとして、君、ローズのことが……」
「いまさら何言ってるんですか。最初からですよ。本当に気づいてなかったの?」
兄様がまるで特殊性癖を伺うようにおそるおそる質問をするので、あたしはセドリック様が何か答える前に、呆れたような声を出してしまった。
「やっぱりそうなのか? じゃあ、君がいっこうに身を固めようとしない理由というのは、もしかして」
「もちろん姉様に未練たっぷりだからよ」
兄様が顔をしかめる。
「お前もセドリックのことが好きなんじゃなかったのか。一時期やたらと追いかけまわしていた時があっただろう」
あたしは鼻で笑った。
「あんなの、必要以上に姉様とこの方が近づかないための演技に決まってるじゃないですか」
「なんて恐ろしい奴」
「流石にお兄様もセドリック様の異常性に気づいてしまったのね」
「お前の陰険さとシスコンぶりに引いてるんだ!」
あたし達の会話が耳に入っているのかいないのか、顔を伏せたままのセドリック様がぽつりとこぼした。
「……領地を継ごうが継ぐまいが、結局、私の隣にローズの幸せはないということか」
「待て。君はまさか、ローズのためにランバート領を継ぐことを放棄して、アシリング侯爵の後継に鞍替えしたとでも言うんじゃないだろうな」
聞き捨てならないというように兄様が眉をひそめる。家名を継ぐということに並々ならぬ思い入れがあるこの人のことだ、まるで女性のために本来の責任を放棄したとでも言わんばかりのセドリック様のもの言いは看過できなかったのだろう。
「まさか」
兄様の失礼な質問に、セドリック様はようやく顔を上げて、薄く笑った。
「伯父のアシリング侯爵は自分の血を引く後継者を探していたし、私は彼のものを受け継ぐ人間として適材だった。弟もランバートの次期領主として申し分無い。もちろん、幼少期から領地を継ぐ者として育てられてきた身だ、まったく葛藤がなかったとは言わない。ただ、元々は兄が受け取るものを私が簒奪してしまったという意識がずっと拭えなかったのもまた事実だ」
そういえば、セドリック様にお兄様がいたという話は聞いたことがある。身体の弱い人で、幼いうちに亡くなってしまったらしいけれど。
簒奪という言葉に、兄様がぴくりと反応した。それはずっと兄様が言われ続けてきた言葉でもあるからだ。
最近は、一族の者と結婚し、経営者として非の打ち所がない兄様にそんなことを言う人はあまりいなくなった。相変わらず姉様は積極的に社交をしようとしないし。
このふたり、性格的にあまり合うとは思えないのに付き合いが続いているのは、根っこのところで似た感情を抱えているからかもしれない。




