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バラとひなぎく  作者: 田仲絵筆
デイジー
26/37

イリス

 セドリック様は外交官という仕事柄、年の半分以上は国外へ出かけているような方だけど、出立と帰国の際は必ずうちを訪れる。それ以外にも何かと名目をつけて、割とよく来る。慣例みたいなものだ。


 学園を卒業して進路が分かれても、ルイス兄様との友人関係は続いていた。それが7年も経てば、普通にあたし達家族とも気が置けない付き合いになる。


 三日前の訪問も、帰国の際に手紙で国に帰るから近々訪問するっていう先触れは一応もらっていたものの、まさか帰りの馬車で直接来るとは思わないじゃない。

 半年ぶりに王都に城の馬車で帰って来たのだから、普通は何を置いても王城に直行して挨拶をするものだろうに。



「久しぶり」


 そう言って、その日半年ぶりに屋敷を訪れたセドリック様からは、少し憔悴している印象を受けた。


 表向きはいつもと変わらず穏やかな笑顔だ。

 きっちりと着込まれた礼服は少しの乱れもなく、半年前に比べて伸びた髪に似合っていた。

 相当な長旅だっただろうに、疲れも見せず紳士然とした優雅な佇まいは、流石この国の顔である外務官僚だと、あたしですら感心してしまうほどだった。


 ただ、よほど気をつけてみないと気づかないほどわずかにではあるが、表情に憂いのようなものがある。

 少しだけ気になったものの、長い馬車旅のせいかと思い、口には出さなかった。


 馬車を厩番にまかせて、そのまま二階の応接の間にお通しする。うちの応接間の窓は大きくて、ここから植物園の庭園を一望できるようになっている。

 季節ごとに色を変える庭は、来客者がいつも「まるで絵画のようだ」と褒め讃えるうちの自慢の佳景だ。初秋の今は、黄色や橙に色を変えはじめた葉がきれいだった。


「君はいつも突然だな」

 知らせを聞いて業務を中断して降りてきたルイス兄様は、表面上は戸惑ったような顔を見せていたけれど、半年ぶりの友人の来訪に、嬉しさが隠しきれていない。


「すまないな。ちょうど通り道だったから」

 セドリック様はしれっと答えながら、兄様と握手を交わしている。


 そこへ、小さな人影が開け放っていたドアの陰からひょっこりと顔を出した。イリスだ。

 イリスは今年二歳になるお兄様の娘で、つまりあたしの姪にあたる。


(出たわね)

 こいつはよくお人形さんみたいと言われる可愛らしい外見をしながら、機嫌が悪いとあっという間に怪獣になるのだ。もちろんあたしとは基本的に敵対関係にある。


「ごめんなさい、ちょっと目を離した隙にこっちに来てしまって」

 乳母ナニーのマリサが慌ててやって来た。最近は本当にちょろちょろと屋敷中を走り回るので、追いかける方も大変だろう。


「イリス、むやみに屋敷内を走り回ってはいけない。特にこの階は、来客が来るから立ち入らないように言っているはずだ。乳母ナニーをこまらせるのもいけない。入ってしまったものは仕方ないが、お客様に挨拶をしなさい」


 マリサに気にしないように声をかけてから、兄様が屈んでイリスと目を合わせて促した。イリスはきょとんとした顔をしてから、大真面目な顔で「はい」と片手を上げた。

 一見いい返事だが、たぶん意味はわかっていない。単なる最近のブームだ。


 まだ半分動物みたいな子にそんなことを言っても通じないだろうに、兄様は実に細かくいちいち口うるさい。

 どのくらいうるさいのかというと、あの礼儀にうるさかった女中頭のホランドさんが、たまに「まだそこまで言わなくても、大丈夫ですよ」と苦笑いをして兄様を留めることもあるぐらいだ。


 もっともホランドさんは、昔に比べてだいぶ寛容になったし、イリスは兄様の小言を言われてもまったく堪えている様子はないので、丁度いいのかもしれない。「この自由さは、ガードナーの血筋なのかしらねえ」とホランドさんが言っていたので、そういうことなのだろう。


 セドリック様はひょいとイリスを抱き上げた。


「こんにちは。大きくなったな、イリス。私のことを覚えている?」

 セドリック様に正面から覗き込まれて、イリスは不思議そうな顔をしていた。半年ぶりに見る大人の顔なんて、この歳頃の子供が覚えているはずはない。

 それでも抱かれるままになっていて、人見知りをしないところを見ると、印象は悪くないようだ。


「……ローズと同じ眼の色だな」

 セドリック様がイリスを見る顔は優しかった。確かに、黒髪に灰色の眼は、兄様や私たち母子ではなく、お父様やお姉様と同じ色合いだ。

「ガードナーの者らしいだろう」

 何故かお兄様が誇らしげだった。イリスがガードナーの形質を色濃く受け継いだことを一番喜んでいるのは、この兄様なのかもしれない。


 イリスは降ろされて頭をなでられると、そのまま兄様のところへ行って、足元に隠れるようにしがみついてしまった。なんだかんだで珍しい来客に照れているらしい。いつもよりおとなしいし。


 セドリック様は窓際に立ったまま、イリスを見て微笑むと、窓の外の景色に目をやった。

「それで、ローズは?」

「姉様は今時分は、園の見廻り中ですわ。もうすぐ戻って来ると思いますけど」

 あたしは親切に答えてあげる。どうせ来訪の目的なんて、姉様の顔を真っ先に見たいからに決まっている。


 やがてセドリック様の来訪が伝わったらしく、速足の足音が近づいて来た。

 ノックのあとにドアが開いて、ローズ姉様が入って来る。


「ろーじゅー!」

 姉様を見たイリスは顔を輝かせると、とことこと小走りに姉様のところへ寄って行った。本当にこの子はちっともじっとしていない。それを追いかけるようにセドリック様が振り向いた。

 姉様もまっすぐにセドリック様に向き合う。


 もうとっくに二十歳はたちを過ぎているというのに、髪も結い上げず、化粧もしていない素肌を晒している貴婦人がどれだけいるだろう。


 最近はきちんとした格好で人前に出る機会が増えたとはいえ、来客の予定もない時は、相変わらずエプロンをまとった庭仕事用の粗末な麻のワンピース姿だ。下町の娘だってもう少しましな格好をしているんじゃないだろうか。


 それでも、陽の光をまとい、まっすぐに立つ姉様をセドリック様は眩しいものでも見るように見つめていた。

 もうかれこれ7年ぐらいの付き合いになるのに、このふたりはいつまでもこんな感じだ。いい加減飽きないのはすごいと思う。


 姉様は足元にまとわりつくイリスを抱き上げると、セドリック様と眼を合わせて、ほんの少し笑った。

「おかえりなさい、セドリック様」

「……ただいま」


 セドリック様も笑い返した。毎回のやり取りだ。出国の際は行ってらっしゃいを、帰国の際はおかえりなさいの挨拶をするのが慣例になっている。いつもの気取った笑顔ではなく、心底嬉しそうな、照れたようなこの笑みを社交界で見せることはない。

 多分セドリック様は、このやり取りのためだけに、いつも国に帰るなり真っ先にうちに来るんだろう。


「もしかして、作業を中断させてしまったかな」

「ちょうど休憩にしようと思っていたので」

 セドリック様は相変わらずの姉様の素っ気ない言葉にも、気を悪くする風でもなく、嬉しそうな顔をしていた。


「良かったらお茶を淹れますね。時間はありますか?」

「ありがとう。……じゃあ、一杯だけ。実はこのまますぐに城へ向かわなくてはならないんだ。後続の馬車が半刻もすれば追い付いて来るはずだから」


 えー、ほんとに時間ないんじゃん。

 うちに寄るために、もしかしたら無理をしてかなり急いで来たのかもしれない。


「ここに先に立ち寄ったのは、届けたいものがあったからで。ーーまだ馬車に積んであるんだが、スネークウッドの苗木を手に入れることができたんだ。確か、以前に欲しがっていただろう?」

 一応口実は用意しているらしい。


「スネークウッド!?」

「まあ、木の苗がお土産なの? 随分と個性的なのね」

 姉様とあたしが同時に口を開いた。思わず嫌味な口調になってしまうのは、長年の癖みたいなものだ。当の姉様はぱあっと顔を輝かせているので、まったく効いていないだろうけど。


「よくそんな貴重なものが手に入りましたね。……ずいぶんと高価だったのではないですか?」

 値段に思い当たったらしく、少し顔をくもらせて訊く姉様に、セドリック様は笑って見せる。

「そうでもないよ。たまたまだけど、現地の森林管理をしている人と仲良くなって、相場よりかなり安く手に入れることができたんだ」


「そうなんですか。……あの、とても嬉しいです。ありがとうございます」

「うん。そう言ってもらえると、持ってきた甲斐があった」

 ほんの少し口元を緩める表情は、姉様の最大限の喜びの表現だ。それを見つめるセドリック様を見ながら、あたしは値段の話は本当のところはどうなのか怪しいと思っていた。

 姉様はセドリック様を疑うなんて思いもつかない顔で顔を上げる。


「馬車にあるのね? 温度管理が難しい木だから、すぐに温室に運ばないと」

 そう言って、今すぐにでも出て行きたそうなそぶりを見せる。

 まさか半年ぶりに会うセドリック様を置いて行く気だろうか。植物のことになると見境ないのは相変わらずだ。


「一応、裏庭で作業をしていた庭師達にはことづけてきたけど」

「じゃあジルにも伝わりますね。なら安心だわ」

 姉様がほっとしたような顔をする。それを見つめるセドリック様は一見穏やかに笑っているけど、別の感情を押し殺しているような表情をした。

(……あーあ)


 セドリック様の激情を、姉様は知らない。そんな感情があることすら気付いてもいないだろう。

 ごくたまに顔を覗かせる、負の感情に気付くのはだいたいあたしだ。

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