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バラとひなぎく  作者: 田仲絵筆
デイジー
24/37

花の名前

 あたしは何だかじっとしていられなくなって、屋敷の外に飛び出した。

 夕暮れの植物園はもう閉園の時間を過ぎているので、人がいない。西陽のオレンジ色の光が照らす無人の園内を、ドレスの裾が汚れるのも気に留めずにひたすら走る。


 今が盛りの薔薇園もあるフラワーガーデンへ続く小径は、何度も通っている。

 多くの貴族が好んで訪れる場所。

 植物園にあまり興味を持っていない母様やあたしでさえ、ここだけは割と訪れている。薔薇に囲まれてお茶会をしたいという貴族のご婦人方のリクエストも絶えない。



 何年も社交界に顔を出し続けているうちに、蔑まれていたあたし達母娘(おやこ)とも、親しくしたがる方が増えてきた。

 一番大きなきっかけは、植物園で定期的に行われる、ガーデンパーティーだったと思う。


 王族の代理でうちが主催するパーティーに出席できるということは、ある種のステータスだ。

 あからさまに招待状を目当てに近づいて来る人を見て、あたし達と仲良くすると得をするということに気付き始めたのだろう。

 元々貴族というのは損得で人付き合いをする人達だ。オセロのコマをひっくり返すように、近づいて来る人間が増えた。


 はらの内では何を考えているか分からなくても、表面上は、親愛の笑顔を向けてくる。かつてあたしを嘲笑したのと同じ顔で。


 ——デイジーさんは、本当に美しいわね。まるでこの薔薇の花みたいだわ。貴族らしく、華やかな花。羨ましいこと。


 ——お姉様の名前が、ローズさん……でしたっけ。あちらは完全に名前負けね。お会いしたことはないけれど。逆だったらぴったりだったのに。


(馬鹿みたいだ)

 あたしは目についた薔薇の茂みに手を突っ込むと、そのまま力任せにその忌々しい花を引き抜こうとした。

 棘が刺さって、指先に痛みが走るけれど、そんなことは知ったことではない。あたしはずっとこの花が大嫌いだった。


 意外と頑丈で抜けなかったので、ぶちぶちと花の付いた枝を引きちぎって、地面に投げ捨てる。


「ちょっ、お前、何してんの!」

 いきなり後ろからはがいじめにされて、引きずるように茂みから離された。

「離してよ!」

 ジルだった。そう言えば、閉園後も庭師はいるのだ。あたしは舌打ちしそうになる。


「馬鹿、やめろって!」

 ジルはしばらくあたしを押さえつけていたが、あたしが諦めて力を抜くと、ようやく手を離してくれた。


「あーあ、手、傷だらけじゃん。さっさと屋敷に戻って手当てしてもらいな。消毒しないと、化膿するぞ」

 てっきり怒鳴られると思っていたのに、真っ先にあたしの傷なんか心配するものだから、らしくもなく涙が滲みそうになってしまった。慌てて横を向く。

「平気よ、こんなの」

 

「……何だよ。いつもとりすましてるあんたらしくもない。どうした。お嬢の結婚でも決まったの」

 そういえば、ジルもあたしと一緒に、あの日屋敷へと向かうセドリック様を見ていたのだ。そう考えるのも当たり前だ。

 でも、今その台詞はあたしの神経を逆撫でするだけだった。


「姉様はずっとうちにいるわ! 誰とも結ばれず、何処へも行かず、植物のことだけ考えていれば良い。それが姉様にとって一番幸せなのよ!」


「そんな顔で言う台詞じゃねえだろ」

 そう言うと、ジルは懐から手巾を出して、あたしの顔に当てた。木綿の洗いざらしのそれは、意外と清潔そうだ。

「それで手拭いて。ほら、これも塗っとけ」と言って、小さな容器を差し出してきた。黄色っぽい膏薬あぶらぐすりが入っている。


「傷薬は庭仕事の必需品だぜ」

「……ありがと」

 にやりと笑うジルにお礼を言うと、「素直じゃん」と皮肉っぽく返された。

 あたしは何だか力が抜けてしまって、容器を受け取ると、その辺の芝生に腰をおろした。

 促されるままに、何があったかぽつりぽつりと話しはじめる。


「どっちみち両想いでもうまくいかなかったんじゃねえの。名門貴族の跡取りのぼっちゃんと社交ができないお嬢なんて、続くわけがねえじゃん」

 あたしはその辺の地面に座り込んで、話をしながら、薔薇に鋏を入れているジルの後ろ姿を見ていた。


「それで、お嬢を独占したくて両想いの男との仲を邪魔した挙句、自己嫌悪にかられて飛び出して、よりにもよって俺が丹精こめて育てた薔薇に八つ当たりしたってか。どうしようもねえなあ、本当に」

 あたしは黙って聞いていた。こうやって言葉にされると、我ながら本当に酷い。仮にも師匠の娘に対する口の利き方ではないが、到底咎める気にはなれなかった。

 ジルは本当のことを言っているだけだ。


「……よし。何とか見られるようになった」

 座り込んだまま見上げると、剪定を終わらせたらしきジルが、あたしが台無しにした薔薇の木立を見ている。

 確かに、綺麗になっていた。完全に元通りとまではいかなくても、掴みかかられて、花をむしられたとは誰も気づかないだろう。


「薔薇の棘ってさ、実は外敵に対してはあんまり役に立たなくて」

 そう言いながら、ジルは、傍らの地面に散らばっていた、あたしが投げ捨てた花のついた枝をいくつかひょいと拾った。

「害虫が付くのを防ぐことも出来ないし、世話してる人間の手を傷つけるだけっていう」


 本当にあたしみたいな花だと思った。悪い意味で。少しばかり美しいから、香り高いからといって、それが何になるだろう。

 弱くて、自分の身もちゃんと守れないくせに、周りへの攻撃だけは一人前の馬鹿な花。


「棘で客の手が傷つかないように取っちゃうかって話になったこともあるんだけどさ。でも駄目なんだよ。蕾のうちに棘を全部取ると、すぐ折れるの。茎が弱くなって、花を支えられないんだ。棘は棘なりに、生きるために必要なものなんだ」

 そんなことを言いながらも、大きな剪定鋏の先端で器用に棘を落としていく。


「ほら」

 おもむろに、棘を取った薔薇の花を数本渡されて、あたしは目を丸くした。

「……あたしに?」

 驚きすぎて思わずそのまま受け取ってしまう。何の理由もないのに、男の人から花をもらったのなんて初めてだ。


「花は無事だから。勿体無いだろ」

 ジルもたいがいお人よしだ。手間をかけて育てた花をぐちゃぐちゃにされても、怒りもせず、こうやって薬や花までくれるなんて。


 あたしがさっき踏みにじった花は、そんなことなんかなかったかのようにみずみずしく咲いている。

 赤い薔薇。姉様と同じ名前を持ちながら、あまりにも主張し過ぎているその色の花を、あたしはまったく好きになることができなかったのに。


「棘を取った薔薇は、すぐに折れてしまうんでしょう。花瓶に飾ることもできないじゃない」

 予想外のジルの行動にあたしはすっかりうろたえて、憎まれ口をきくことしかできなかった。


「ここまで育てば、もう大丈夫。花が咲く頃には、茎も丈夫になって、棘は必要なくなるから」

 そうなのか。

 成長すると、棘がいらなくなるのか。

「……あたしも、そうなれるかな。今は棘だらけかもしれないけど、いつかは」

 思わずそう呟いた。


 返事がないので顔を上げると、ジルがものすごく変な顔であたしのことを見ていた。

「はあ? 知らねーよ。そんなのあんた次第だろ」

 何となく肯定の言葉を待っていたあたしは、肩透かしをくったような気分だ。今、完全にその流れじゃなかった? ここは取りあえず「そうだな」とか言ってくれるところじゃないの。


「え、ていうか、あんた自分を薔薇の花に重ねてんの。正気か? 薔薇ってあれだぞ、花の女王だぞ。どんだけ自己評価高いんだよ」

「だ、だって、みんなによくそう言われるし……」

 心底呆れたように言われて、思わずしどろもどろになる。


 美しい容姿を持っているところも、それでいて気位の高いところも、薔薇の花のようだ、とは、社交の場に出ればよく言われる言葉だった。

 それが棘のある花、という隠れた意味を持つ、称賛だけの言葉だけではないことも知っている。


 でもこうあからさまに言われると、なんだか自分がとてつもなく身の程知らずな事を言っているような気がして、恥ずかしくなってきた。


「みんなって誰だよ。まさか貴族の社交辞令真に受けてるわけじゃないだろうな。あんなの全部口から出まかせだって、あんたが一番よくわかってるだろ」

 わかっている。誰よりも。ついこの前まで侮蔑を吐かれていた口で称賛を語られたことなんて、一度や二度ではない。


「お嬢も人を植物に喩えるのが好きだけどさあ……。——まあ、あれはお嬢なりの処世術か。でも俺に言わせれば、完全に別物っていうか。あんたの性格が悪いのを花のせいにされても困るし」

 そう言って、ジルは、さっき刈り込んだばかりの薔薇の茂みを指し示した。


「大体見ろよ。この可憐さ、清冽さ! どこかあんたと被るところあるか? なんで一片の疑問もなく、こんなものと自分を同一視できるのか不思議なんだけど」

「うっ、うるさいなあ、そこまでたたみ掛けるように言わなくたっていいじゃない!」

 何とか反論するが、恥ずかしさで頬が熱い。

「なりたい理想があるなら、そうなれるように自分で頑張れよ。人間は努力ができる生き物なんだから」

 

 あたしは手に持っていた薔薇を見る。ずっとこの花のようだと言われてきた。

 なりたい理想は、雛菊だった。

 控えめで優しげで、強くてどこにでも咲いている花。同じ名前を持っているのに、決してあんな風にはなれないんだと、半ば諦めていた理想。


 でも、無理に自分を当てはめようとしなくてもいいのか。

 薔薇でも雛菊でもなく、あたしはあたしとして、変わるように努力するしかないんだ。


 あたしを縛っていた、花の名前という美しい鎧であり呪いでもあったものが、ゆっくりと剥がれ落ちていく。

 あとに残ったのは、どうしようもなくわがままで、独占欲が強くて、自分のために、大事なものを傷つけることも構わない、救えない子供だった。

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