微笑んで吐いた嘘
セドリック様が花を持ってうちを訪ねて来たのはそれからいくらもたたない週末で、あいにくと屋敷にいたのはあたしだけだった。
兄様は学園だし、姉様は珍しく買い物に出ている。弟子達が一緒だったので、工房併設の金物店へでも行っているのだろう。
随分と間の悪いことだった。ついでにあたしの機嫌もあまり良くない。姉様が弟子達と出かける日は、大体あたしは機嫌が悪い。
「約束をしていたわけではないので、仕方がないな」
本当だわ。普通、人の屋敷を訪ねる時には前持って約束をするなり、先触れを出しておいたりするものだ。急に来られても、こうやって行き違いになることもあるわけだし。
セドリック様はあまり衝動的に動く方ではないのに、姉様が絡むと結構思いもよらない行動を取ることがある。
この前はあたしが頼んだわけだから、文句は言えないけど。
「……これを」
セドリック様は少し困ったように、手に抱えていた大量の花を私に差し出してきた。あたしは慌てて両手を出して受け取る。片手では持ちきれないほどの、雛菊だった。
ばらばらにならないように粗末な紙で包まれているだけのそっけない装飾なので、手に感じる重みは、ほとんどが花自体のものだ。
白にほんのわずか混じる赤や薄紅がアクセントになっている。香りまで控えめなその花は、珍しいものではなかったけれど、これだけの量があると圧巻だ。
あたしはおもわずその色彩に見とれた。少しだけ、苛々していた気持ちが和らいでいく。あたしにくれた花でもないのに。彼が飾り気のないこの花を誰にあげたかったのかは一目瞭然だった。
「街でこの花を売っているのを見かけて、どうしても、届けずにはいられなくなってしまって」
姉様の名前は言わなかったけど。とうとう肚を据えて告白でもしに来たんだろうか。
何もかも上質なもので身を固めている彼には、ほとんど野草と言ってもいい雛菊みたいな花は、正直あまり似合っていない。薔薇の花束でも持っていた方が、よっぽど絵になる人だ。
それでも、姉様にあげるために、人目をものともせずに花を抱えてきたのだろう。
それにしても気になるのが、よりによって、雛菊? あたしと同じ名前の花を、わざわざあたしの姉に贈ったりするかしら。
そこまで考えて、あたしはふと気づいた。あの、これさ、もしかしてセドリック様、花の名前知らないんじゃない?
「これがどういう花なのか、ご存知ですか?」
「ローズの好きな花だろう。学園の温室前の花壇の片隅にも、ひっそりと植えられている。彼女が世話をしているのを見たことがある」
やっぱり。
姉様の好きな花だーってテンション上がって花売りから買い占めちゃったとか、そんな感じかな。
ほんとこの人ねえさまのことになると色々残念になるな……。
よりにもよってこんな致命的なミスをするなんて。
貴族は、庭園の花や実益のある薬草の名前は習っても、その辺に咲いている野草の名前など知らないのだろう。
あたしの心を、ふたたびどす黒いものが覆っていく。
貴族なんてのは、表面上はとりすましておきながら、その実どうやって周りの足を引っ張るかってことしか考えていないような人種だから、あたしみたいに整った顔も、社交する上で重要な勘の良さも持っているのに血筋は無い子供なんて、小さな頃は恰好のサンドバッグだった。
——この子、男爵家の血を引くだれとも血がつながっていないんですって。それどころか、貧民の出身らしいわよ。
——まあ。平民の子供が貴族の子供のお茶会に顔を出すだけでも図々しいのに、注目されないと気が済まないの? 少しぐらい顔が整っていて、知恵がまわるからって思い上がっているのではなくて? 貴族にとって一番大切な血統を持っていないくせに。
-——父親が誰だかもわからないって本当? おぞましいこと。うちの子には関わらないで頂戴ね。
——大方、母親は貴族相手に『商売』するのが上手だったんでしょう。上手くやったわね。今度はその手管を娼館へ行ってレクチャーしてあげるべきだわ。
——この子と同じ継子の兄が跡取りになるらしいわよ。ガードナーの名声も地に堕ちてしまうわね。おいたわしいこと。いくら男子が居ないからって、せめて身元のしっかりした家系から、養子を取れば良いのに。
——あら、あそこは、唯一正統な血筋をひいているお嬢さんも、人と関われない性質ですもの。そろそろ学園へ入学する歳なのに、一度も社交の場に出たことがないんですって。よっぽど人前に現れるのに、障りがあるんでしょうよ。
お茶請けのお菓子を味わうように、彼女達はそんな噂話をした。
幼いあたしが何もわからないと思っていたのか、平民出身の子供なんて動物と同じ存在で、何を聞かれても構わないと思っていたのか。
あたしはそれを、いつもにこにこして聞いていた。お母様がそうしなさいと言うもので。
姉様みたいにそんな集まりには出ないで引きこもっていたかったけれど、あたしには植物に情熱を捧げるだけの才覚も無かった。
社交の場に出るたびに憔悴するあたしを、どうして姉様だけが気がつくのだろうか。
人目につかないようにこっそりと泣いた日、お茶の時間に出されるのは、決まってほんの少しだけ塩味のするミルクティー。汗をかいたりしたら、塩分補給が大事だといつも言っている姉様のことだから、あたしが泣いたことも分かっていたのだろう。
「あんなもの、行かなくたって良いのよ」
「でも、この家でくらしていくためのぎむだって、かあさまが」
「私は行ったことがないし、これからも行く気は無いわ」
「ねえさまは、ちゃんとしたこのうちの子だから、必要ないのよ」
言い募るあたしを、姉様は散歩に連れ出してくれた。
近所の森に行くと、湖のほとりに白や薄紅の小さな花がたくさん咲いていた。
「きれいでしょう」
見とれて声も出せないあたしに、姉様が自慢げに言った。
「ありふれている花だけど、私はこれが一番好き。誰の世話を受けなくても、春になると一面花を咲かせるの」
花を見る姉様の横顔は優しい。
「私は園の中でも外でものびのび育つ、この花が少し羨ましい。私は植物園が好きだけど、それはきっと、他のところでは生きていけないから」
だから貴女に名前を付けて欲しいと言われた時、この花から名前をもらった。外から来て、私の手を握った小さな手の力強さが、この花に重なったから。
貴女はわざわざ柵の中でお世話されながらでないと咲けない他の花と自分を比べる必要はない。貴族出身じゃないということは、貴女の強みなのよ。
そんな意味のことを、姉様はあたしに話したんだと思う。
貴族も平民も、観賞用の貴重な花もありふれた野草も、全部同じ目線で語っているのが、とても姉様らしかった。
「貴女は何処ででも生きていける。可憐で強い、この花みたいに。……デイジー」
誇らしかった。姉様が一番好きな花だと言ってくれた名前が。
その時に、あたしは、貴族の娘として生きていくことを決めたのだ。
姉様みたいに植物を上手に育てたり見分けたりすることはできないけど、社交ならまあまあ上手くやれる。家族を馬鹿にしていた人達だって、いつか見返してやれるかもしれない。
セドリック様にとっては、名前も知らないただの野草かもしれないけど、あたしにとってはずっと、大事な大事な花の名前だった。
それをこの人は、あっさりと奪っていく。姉様の心も、花を贈る権利も。
それが、どうしても許せなかった。
一度は姉様との仲を認めようと思った人だ。同情心がもたげないわけではなかったが、でもこの好機をどうしても見逃すことができない。
これはあたしにとって絶好のチャンスだった。
姉様とセドリック様を完全に引き離すための。
姉様がずっとここにいてくれるのなら、どんな嘘だってつける。
「ちゃんと伝えておきますわ。セドリック様が、わざわざ花を買って、うちを訪ねていただいたこと」
帰ってきて、花瓶に生けられている大量の花を見て目を丸くしている姉様に、あたしは笑って告げることができた。
「セドリック様が持っていらっしゃったのよ。誰に、とは言わなかったけど。こんなにたくさんの雛菊。こっちが照れてしまったわ」
あたしと同じ名前の花を、セドリック様が贈る意味。
わざと誤解させるように、含みのある言い方をした。姉様はあっさりとそれを信じた。
「……きれいね」
悲しげに微笑む姉様の笑顔を、今でも覚えている。




