夜会にて
いつも読んでいただいてありがとうございます。
ここからデイジー編です。しばらく不定期投稿になります。
あたしがものごころついた頃には姉様はもう今の姉様で、陰気で無表情で、貴族の娘だっていうのに社交ひとつできなくて、家族や使用人相手にさえ目を合わせないようにぼそぼそと喋るような人だった。
そんな姉様が、一番最初にあたしにくれたものがある。
それは、小さな花の名前。
後生大事に育ててもなかなかきれいに咲かない庭の高級な花みたいなのではなくて。何処にでも生えていて、抜いても抜いても次の春には一面に花を咲かせるような。
野原一面に咲いた花を見て春の訪れを知った人々が顔を和ませるような。
姉様が一番好きな花なんだといつか言っていた。
その名前をあたしにくれた。
だからあたしはあたしが持っているものの中で、自分の名前がいちばん好きで、唯一の誇り。
***
今日も社交界はあの人の話題で持ちきりだ。
「ねえねえ、聞いた? もしかしたら今日の夜会に、フォスター子爵がお見えになるかもしれないって話」
「えーっ、帰国されていらっしゃるの?」
「やだ、知らなかったの? 三日前に王宮に馬車が到着したって騒ぎになったじゃない」
「今回は長かったわね。半年ぶり?」
「本当に長かったわ。フォスター子爵がいない社交界なんて、メインディッシュのないディナーみたいなものですもの」
短かった。あっという間に平和な半年が終わってしまった。
「ヒューバート王子殿下の留学の付き添いで、二年間国にいなかった時に較べたら、まだマシだけどね」
あの二年間は良かった。あのまま帰ってこなければよかったのに。
あたしは表面上ではにこやかに相槌を打ちながら、公爵家のサロンの熱気に辟易としてきていたところだった。
喉を潤すために取ってきてもらったフルートグラスの中でしゅわしゅわと泡をたてるローズフレーバーのお酒は、色は綺麗だが、やけに甘ったるい。
香りも、姉様の淹れる薔薇のお茶の方が、余程香り高い。
「それにしても、いつまで独身なのかしら、フォスター子爵」
最近夜会では、大体この話題になるな。
フォスター子爵は、この国でも指折りの切れ者だと評判の外交官だ。
そのキャリアも、外見も、未婚令嬢の憧憬を一身に集めるには、充分すぎるほどだった。
そしてなにより、いまだに独身であること。
目ぼしい殿方は軒並み既婚者か婚約者がいるので、完全に独り身の子爵の妻の座を射止めようと、水面下でそれはもの凄い権謀術数が繰り広げられているのだ。
「まっていらっしゃったわ!」
誰かの鋭いひと言で、あれだけ騒がしかった場がぴたりと静かになる。そして、さざなみのようにざわめきがひろまってゆく。
みんなが一斉に振り向いたので、あたしもそちらを見た。
談笑しながら歩いてくる、男性数人の集団だった。いずれ劣らぬこの国のエリート官僚達だ。
その中でも、ひときわ注目を集める存在。
淡い茶色の髪を肩まで伸ばし、結んでいるのがいかにも今風だ。
着ているタキシード姿は周りとそう変わらないのに、何故かとても洗練されて見える。
この華やかな容姿と誰からも好かれやすい性格の貴族が結婚はおろか、恋人ひとり作らないでいつまでも独り身でいる理由は、社交界でも大きな注目の話題のひとつだった。
もっと遊びたいからだとか、スペックに釣り合う花嫁候補がなかなか現れないからだとか、他にもいろいろ、それらしい噂はいくらでも耳に入ってきていた。
でもどれも事実ではない。あたしはそれを知っている。
集団の中から、彼が一瞬こちらに目をとめた。あたしと目が合うと、周りに断ってこちらに来ようとする。来なくていいのに。場が歓声に包まれる。
「ちょっと、こちらにいらっしゃるわよ!」
「やあ」
「ごきげんよう」
仕方がないので立ち上がって、彼に近づくと、膝を曲げて挨拶をした。
どうせ三日前に会ったばかりだというのに。
「君がいるとは思わなかった、デイジー。あまり夜遅くならないうちに帰るんだよ」
ひと言目がそれか。あたしの保護者きどりか何かだろうか。
私は淑女らしく、扇で口元を隠して、笑い返す。
「ご心配なく。わたくしもう19になりましたのよ。退出のタイミングぐらい、心得ておりますわ」
彼は「そうか、でも家族に心配はかけないようにね」と笑うと、じゃあ挨拶をする人達がいるから、と言って行ってしまった。最後に「ローズによろしく」と付け加えて。
誰が伝えるかボケ、と思うものの、顔には出さない。
令嬢達のところに戻ると、案の定囲まれた。
「フォスター子爵をご存知なの!?」
「どうやって知り合ったの!? なんだか仲が良さそうでしたけど」
分かりやすく羨望の眼差しだ。
悪い気分ではないけど、どうせならもっと別のことで羨ましがられたい。
あたしはにっこりと笑い返す。
「言ってなかったかしら、家族の古い知り合いなの」
こう言うと、質問攻めにあうのもいつもの流れだ。付き合っている人はいるの? とか、よかったら紹介して頂けないかしら、とか。
「ごめんなさい。詳しいことは何も知らないのよ。紹介できるほど気安い仲でもないし」
少し困ったように言うと、周りも引き下がってくれる。
「そう、貴女も知らないのね。何だか穏やかそうに見えて、謎めいたところがあるのよね、フォスター子爵。もしかして、道ならぬ恋でもしていらっしゃるのじゃないかしら」
せつなげに呟く令嬢につられたように振り返ると、彼はあっという間にたくさんの人達に囲まれていた。
後ろ姿でも目立つ人だ。
あたしは笑いを噛み殺した。この場でばらしてやりたい。公爵夫人に秋波を送られて、伯爵令嬢に頬を染められて、外務大臣に肩を抱かれて誇らしげに紹介されているあの人がいまだに独身の理由。
遊び足りない訳でも、王族の愛人な訳でも、外国に恋人がいる訳でもない。単に七年も前の、想いが通じることすらなかった恋を引きずり続けているだけなんだって。
横顔がちらりと見えた。いつもと同じ穏やかな顔で笑っている。
彼の本性を知っている人は、そう多くないだろう。
好きな人にはびっくりするほど臆病で慎重で、そのくせ、一番側にいるために、七年間姉の友人の座に居座り続けている人。ちょっと引くほどの執着を上手く隠しているなあと、いつも感心してしまう。
横顔をじっと見ていると、目が合った。
距離があるのに、律儀に笑いかけてくれる。周りでまた黄色い声があがった。特別扱いは、あたしが姉様の妹だからだ。
彼はあたしを同志か何かだと思っている。冗談ではないと思いながら、あたしも笑顔を返した。
セドリック・ランバート伯爵令息改め、セドリック・フォスター子爵。
——あたしの天敵。




