ひなぎくの花束
「もし承諾してくれる気になったら言ってほしい。両家への報告は私がするから」
そう言ってくれるセドリック様は、私に負担がかからないようにと考えてくれているのだろう。
ただ、すでに心の中では、この話は断ることに決めていた。
容姿から社交力から、全てにおいて釣り合わない婚約者を連れて来ても、周りからの反応は失笑か侮蔑だろう。
私には慣れた視線でも、セドリック様に恥をかかせることは耐え難い。
そう決心しておきながら、あれから数日経っても断ることができなかったのは、私の弱さのせいだ。
セドリック様のせっかくの好意を拒絶するということが、私にはたまらなく怖かったのだ。
その週末、私は弟子達と買い物に出かけていた。外出から戻ると、例によってデイジーがぷりぷり怒っていた。
「おっそい! 何やってたの? お茶が遅くなっちゃうじゃないの」
「ティータイムには充分間に合う時間でしょう。今日は大通りのベーカリーで買ってきたショートブレッドよ」
「はあー、手づくりじゃないなんて……」
デイジーの文句を聞きながら紙包みをテーブルに置く。この子私のお菓子が好きすぎるな。さて今日はどんなお茶にしよう。
その時、かすかな花の香りが鼻を掠めた。
見ると食堂の花瓶に、ひと抱えもあるような量の雛菊が生けられている。
白い一重咲きのものに、ところどころ八重の桃色が混じっていて、とても可憐な印象だ。私はその花から目が離せなくなってしまった。
「どうしたの、こんなにたくさん」
多分、お母様や使用人の趣味ではない。お母様は花を見分けるのが下手なりに、薔薇や蘭や椿などの華やかな花を好むし、基本的にこの屋敷では、切り花は飾られることがない。
デイジーが嬉しそうな顔をした。
「昼頃、セドリック様が持っていらっしゃったのよ」
「……セドリック様が、これを?」
「そう。いきなり来るものだから何かと思ったら、街中で売られている花を見かけて、どうしてもうちに届けたくなったんですって」
そう言ってデイジーはくすくす笑う。
「誰に、とは言わなかったけど。セドリック様って上流貴族のはずなのに、結構露骨なこともなさるのね。こんなにたくさんの雛菊。こっちが照れてしまったわ」
「そう。きれいね」
掛け値なしに自分の内から出た言葉だった。
白くて小さい、健気に咲く野の花。
こんなにたくさんの。
野に咲く花は、花畑や温室で手間をかけて咲かせる花が多く並ぶような、きちんとした花屋では売っていない。きっと、花売りの娘から買ったのだろう。
その娘は、まだ日が昇る薄暗いうちに野原へ出かけて、一面に咲く可憐な花を見て歓声を上げ、ドレスの裾が朝露に濡れるのも厭わずに、せっせと花を摘んだんだろうか。
男の人が両手で抱えるほどの量を、セドリック様はどんな顔をして買ったのだろう。どんな気持ちで家まで届けてくれたのだろう。
これがセドリック様のデイジーへの愛情なのだとしたら、私はその気持ちに一点の影も落とすわけにはいかない。
私はその花がどうしようもなく愛しく思えて、そっと顔を寄せた。
「先日は、花をどうもありがとうございました」
明らかにデイジーに宛てて贈られた花だったが、一応私からもお礼を言っておく。
例によって、学園の温室だ。
セドリック様がこの温室に来るのは、少し久しぶりだった。
「こちらこそ、急な訪問で申し訳なかった。街角であの花を見かけたら、どうしても届けずにはいられなくなったんだ。あんまり、綺麗だったものだから」
私は微笑んだ。綺麗だった、本当に。贈られたデイジーが、羨ましくて仕方がなくなるほど。
「例の話も、返答が遅れていてすみません」
「返事は急いでいないよ。君のペースで考えてくれると良い」
「いえ、今お返事します」
私はそう言って、頭を下げた。
「せっかく頂いた話なんですけど、やっぱりお受けできません。ごめんなさい」
沈黙のあと、頭上でセドリック様が何か言いかけてやめたのがわかった。相変わらず、顔をちゃんと見ることができない。もうこの時点で到底釣り合わないということなんだろう。
「分かった。……うん。君の意思は知っていたのに、漬け込むような提案をしてしまったな。こちらこそごめん」
理由を訊ねることもせず、そう言ってくれる。セドリック様は何も悪くないのに、謝られると胸が痛くなる。私はただ黙って首を振った。
「断っておいて厚かましいお願いなのですが。良かったら、今まで通り接して頂けたらと思います」
「もちろん。どうかこれからも、いい友人でいてほしい」
セドリック様が手袋を取って右手を差し出してきた。おそるおそるこちらも右手を伸ばす。
ぎこちない握手をしながら思い切ってセドリック様を見上げると、彼はあのいつもの陽だまりのような笑みを浮かべていた。
眩しくていつものように目を逸らしてしまいそうになるけど、何とか持ちこたえる。
——いい加減に認めよう。これは恋だ。
さんざん心の内で否定してきたものの、認めてしまえばこの感情はあかるく暖かで、光そのもののような幸福感のかたまりだった。
きっと、これから何年経ってもこの光は衰えることはないのだろう。
一旦自覚してしまうと、この感情は思わぬ多幸感を私にもたらした。
「……今はまだ負担になってしまうだけだけど、必ずこちらで、準備を整える。そうしたら、改めて言いたい事があるんだ」
「楽しみにしています」
セドリック様の思い詰めたような告白も、笑みを浮かべて聞く事ができる。
デイジーに対する気持ちなど、とっくに知っていると伝えてあげたかったけど、この人がそう言うのなら、まだ黙っていよう。
この人が私を友人だと言ってくれるのなら、せめて私は隣にいても、恥ずかしくない人間になりたい。
そしてこの感情を抱いたまま朽ち果てていくのが、今の私の望みになった。




