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バラとひなぎく  作者: 田仲絵筆
ローズ
14/37

マクレガー医師

 カール・マクレガー医師は思っていたよりも若い方だった。


 医師というからには、50過ぎの物静かな人を想像していたので、まだ20代だという体格の良い男性が「マクレガーです」と名乗った時には、虚をつかれた気分になった。


 短髪に、動きやすそうな黒いスラックス。シャツの上はベストだけというシンプルな格好も、私の中の医師のイメージと少し違う。

 どちらかというと、庭師などと同じく、作業労働に従事している方がふさわしいような機能性重視の服装を見て、私は奇妙な親近感を覚えてしまった。


 マクレガー氏は、私に婚約話を持ち込んだという、物好きな男性のうちのひとりだ。どうして彼が私の屋敷にいるのかというと、兄に謀られたのだ。



 何もない週末に寄宿舎暮らしのお兄様がガードナー邸にいることはあまりないので、朝に顔を見た時から、嫌な予感はしていた。

「何故いらっしゃるのですか」

「家族の顔を見たいと思ったらいけないのか?」


 その時点で気がつくべきだった。

「昼前に来客があるから茶を出すために屋敷にいてくれ」と言われて、特に疑いもせずにいつもの作業着ではなくて比較的小綺麗なワンピース姿で過ごしていた。

 お兄様の言葉の通り、呼び鈴が鳴って家人が来客を告げた。


「実に良いお宅ですね! 緑が生き生きとしている」

 廊下を歩きながら、案内の者にそう言っているのが聞こえた。声の大きい人だ。


 客間に通された背の高い男性は、大股で部屋に入って来ると、お兄様と私を見てにこりと笑った。

「ルイスさん、こんにちは。——ローズさん、初めまして。カール・マクレガーです。よろしくお願いします」

 そして、そう自己紹介したのだ。


 

 マクレガー氏は第一印象そのままに、快活で、よく喋る人だった。そしてよく笑う。私が淹れたお茶も大袈裟に誉めてくれて、二度もお代わりをした。


 爵位など持っていなくても、これだけ立派な職業の方なのだ。縁談など降るようにあるだろうに、何だってこんな遠いところに住む冴えない女と縁を結びたがるのかさっぱりわからない。


「実は、ファンなんですよ。貴方がたのお父様の」

 照れたようにマクレガー氏が見せてくれたのは、一冊の古い本だった。小口の部分は何度も開いたのだろう、色が変わっている。背の閉じ紐の部分は補強してかがり直した形跡がある。糸だけ新品だった。相当よく読み込まれているようだ。


 表紙の『薬用植物の植生図』という文字を見るまでもなく、父の著作なのはわかった。父が半生をかけて大陸中の薬用として使われている植物の植生や群落組成を調べて、五年ほど前に書き上げて出版した本だ。今のところ彼の最大の功績だろう。


 ちなみにこの本は、私の愛読書でもある。今は自室の引き出しに大事にしまわれているのだが、ぼろぼろ具合は負けず劣らずだった。


「特に高山地帯の章は素晴らしい。ほとんど未踏のペグ山地まで赴き、新種の苔類を採取するくだりは、探検記としても胸を躍らせて読んでしまう」

 マクレガー氏が目を輝かせて父の著作の感想を語るのを、感慨深く聞いていた。ファンだというのは本当のようだ。


「小児に多い喘病の特効薬も、脈の乱れに効果のある薬草も、希少で手に入りにくいものだったんです。この本にはその採取地と、全滅させないための方法が記されている。もちろんご存知だとは思いますが、いくつかの種は、ここの薬草園での繁殖に成功していますよね。おかげで、どれだけの命が救われたことか」


 母を亡くしたばかりの幼い私を置いて植物採集の旅に出てしまう父には、弟子たちからですら責めるような声があがったこともあった。

 だが、あの時の彼の研究が、周り回って医療の現場に活用されている。こうして現場をよく知っている当事者から実際に話を聞くのは、なんだか不思議な心持ちだ。


「父も喜ぶと思います。……お話、聞けて良かったです」

 上手く言葉が出てこなくて、噛みしめるようにそれだけを言った。


 お茶を出したらすぐに辞去しようと思っていたのに、話が興味深くて、つい聞き入ってしまった。

 マクレガー氏が四杯目のお茶を所望されたので、話のお礼のつもりで、丁寧に淹れる。これを出したら部屋から出ようと決めて。


「……だから、この前のガーデンパーティーは楽しみにしていたんですよ。憧れのガードナー博士にひと目会えるのか、とね。結局、実地調査に出かけられているということで、お会いできず、少しがっかりしてしまいましたが」

「それは、はるばる来てくださったというのに、申し訳ありませんでした」


「とんでもない。王都には、他の用事もあって出てきたので、気にしないでください。人には優先順位というものがありますからね。博士の最優先は社交ではないというだけです。崇高な業務を行なっているのですから、当然だと思いますよ」


 あのお父様が、何やら思慮深い人物に聞こえる。ものは言いようだな、と感心していると、それに、と私を見て続けられた。

「博士にこんなに美しい娘さんがいることを知ることができたので、それだけで、もう、王都に出てきた価値があったようなものです。あの日、王女殿下に言祝ぐ貴女を見て、ルイスさんにすぐ婚約者の有無を確認してしまいました」


 そうマクレガー氏が打ち明けた。少し恥ずかしそうに笑っている。

 それから真面目な顔をすると、立ち上がり、こちらを真っ直ぐに見てきた。


「そういう訳で、改めて求婚させていただきたい。どうか、私と結婚していただけないでしょうか。私の元に来て頂けるのなら、他には何も望みません。生涯貴女一身への愛情と、自由。また、ガードナー家との末永い友好を約束いたします」


 立派な方だ。医師という職業柄だけではない。この期に及んで私の意思を尊重しようとしてくれる。少し話しただけでも、誠実な人柄なのだろうというのが伝わってくる。

 私もちゃんと言わなければ。


「お断りいたします」

 

「お前なあ……」

 それまであまり口を挟まなかったお兄様が流石に苦い顔をしていた。

「私は、とっくに意思を伝えていたつもりでしたが」

「会ってみて、気が変わることだってあるだろうが。現に好印象を持っていただろう」

「それはそれ、これはこれです」


 対するマクレガー氏は、気を悪くしたふうもなく、椅子に座り直すと、「良いんですよ」と笑っていた。自分で断っておいてあれだが、相当失礼な自覚はある。人間ができ過ぎではないだろうか。


「実は、あまり色よい返事がもらえそうにないというのは、前もってルイスさんに聞いていたんです。でもどうしても諦められなくて、半ば無理矢理この場をセッティングしてもらったという経緯がありまして。領地へ帰る前に、言葉は悪いですが、駄目元でこうして会っていただけただけでも、良かったです」


 そうだったのか。断った相手にこんな騙し討ちみたいなことまでして会わせるなんて、あまりに人の心が無い非常識な振る舞いだとお兄様に腹を立てていたのだが、一応最低限の礼儀はわきまえていたようだ。


「お力になれなくて申し訳ない。しかし、これで妹の本性も露見してしまったことだし、マクレガー殿には、この先、もっと良い話が降るようにあると拝察いたします。御縁がなかったのは残念でしたが、今回の幻滅を踏み台にして今後ますますのご活躍を、陰ながら応援させて頂きます」

 そう言ってお兄様が深く頭を下げたので、私もそれに倣った。


「幻滅なんてとんでもない! お会いして、ますます素敵な方だと思いました。きっぱり断られてしまったので、今日のところは身を引きます。ただ、ひとつだけ訊いてもいいですか?」

「何でもどうぞ」

 マクレガー氏の言葉に、私は背筋を伸ばした。答えられることなら、せめて何でも答えよう。貴重な薬草の苗だって、希望されるなら、進呈しよう。


「ローズさんには、どなたか想う方がおありなのでしょうか」

 思わぬ問いかけに言葉に詰まってしまう。


 その時私の頭の中を掠めていたのは、淡いミルクティー色の髪の毛だった。あの陽だまりのような笑顔を思い出してしまう前に、私はゆっくりと首を振った。


 否定のつもりだったが、どうしても声に出して返答することはできなかった。

 マクレガー氏は、少しの間目を伏せた私をじっと見ていたが、大きく息を吐くと、少し笑った。


「分かりました。答えてくれてありがとう。正直、立ち去り難い思いはあるのですが、あまり長居をしても未練がましくなりそうだ。これを飲んだら退出するとします」

 そう言って、飲みかけだったティーカップを口に運んだ。


 その時、廊下の方が少し騒がしくなった。

「今、お客様がお見えです」という侍女のリンダの声がかすかに聞こえる。

 それに答える声は静かで、内容まではこの部屋まで届かなかったけれど、知っている声に似ている気がして心臓が跳ねた。


 静止に構わず近づいて来る革底の足音が、やけに響いて聞こえた。

 ノックとドアノブが回るタイミングがほとんど同じだった。私の目線はドアに釘付けになる。彼がなぜこのタイミングで現れるのか不思議で仕方がない。


「……またこれは、予定外の客が来たな」

 お兄様がこぼすのを意識の端で聞きながら、私は突然現れたセドリック様から目が離せないでいた。

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