雨の温室
あの後も、お兄様の縁談を受けろ攻勢が酷くて、週明けの学園の温室がひどく懐かしく感じた。
その日は雨だったので、いつもはかすかに流れてくる学園内の喧騒が遮断されて、雨音しか聞こえない。
湿度も高いので、こころもち薬草たちが生き生きしているように見える。今日は水やりも必要なさそうだ。
私は図書スペースの机に頬杖をついて緑を眺めたり、蔵書に目を通したりして、久々のひとりの空間を満喫していた。
ここのところずっとガーデンパーティーの準備で忙しかったので、静寂に身をひたすのは久しぶりだった。
不意に温室の扉が開く音がして、人影が入って来る。今日は誰も来ないと思っていたのでびっくりしてしまった。
人影がセドリック様だとわかっても、まだちょっと信じられなかった。ぽかんとしている私をセドリック様が見る。
「どうしたの、幽霊でも見たような顔をして」
「いえ、今日いらっしゃるとは思わなかったので。……あの、少し濡れてます」
校舎からは中庭を突っ切らないとこの温室に来ることができない。セドリック様は珍しく少し息を切らしていたので、走って来たのだろう。それでも雨の中をここまで来たのだ。
土砂降りというわけでもないのでそこまでではないが、雫がまとわりついていた。
椅子を勧めながら何か拭くものを、とあたりを見回しても、汚れを拭うためのぼろ布しかない。さすがにこれで髪や服を拭いてくださいとは言えなかった。
「大丈夫。今日は暖かいから、すぐに乾くよ」
私の逡巡をよそにセドリック様は上着を脱いで空いている椅子の背もたれに掛けると、自分も座り、懐からハンカチーフを取り出して髪を押さえた。
刺繍が入っていて、持ち主に見合って高級そうだ。血迷ってぼろ布を渡さなくて良かった。どうして私は清潔な布ひとつ持っていないのだろう。
「こんな天気の中わざわざいらっしゃるなんて、何か用事でもおありでしたか」
何か言わなくてはと思って、先ほどから疑問に思っていたことを訊いてみた。だが、口に出してみるとまるで用事がなければ来るなとでも言っているみたいだと思って後悔する。
「いや、べつに、そういうわけじゃない。ただ、雨の中、君がどうしてるのかなって、気になって。……あー、いや、あとルイスから、ちょっと君の話を聞いたものだから」
「兄から?」
私は眉をひそめた。嫌な予感しかしない。
「求婚されているんだって?」
まさかその話だとは思わず、何度か瞬きを繰り返す。
「ルイスが、ずいぶんと嬉しそうだったよ。何でも、ガーデンパーティーでの活躍ぶりに惹かれた人が縁談を持ち込んだそうだね」
あの兄は、性懲りも無く周りに何を吹聴しているのか。
「それは、断りました」
「ああ、そうなんだ」
セドリック様は気が抜けたような顔をした。何故かほっとしているようにも見える。
「ルイスは話をすすめたそうにしていたけれど」
それは私の知ったことではない。
「話がすすんでも、どうせすぐに立ち消えになります。土いじりしか能のない、社交ひとつできない人間を妻にしたところで、その家の者が恥をかくだけでしょう。改めて見て、私を望む貴族がいるとは到底思えません」
「そうかな。もし、いたら?」
セドリック様がこちらを見る。例え話のはずなのに、とても真剣な顔をしていた。
「緑にたたずむ君を、美しいと。社交などしなくても構わないから結婚してほしいと望む者が現れたら、どうする? 求婚を受ける?」
私は少し考えて、首を振った。
「私があの屋敷を自分から離れることは、ありません。私の望みは、いつまでもあそこで植物達の世話をし続けることです」
お兄様には呆れられた私の望みを、セドリック様は真剣に聞いてくれている。
「貴族の妻という立場に私の幸せはありません」
「……そうか」
セドリック様は俯いた。どうしたことか、少し打ちひしがれているように見えた。
「何かありましたか」と問えば、力の無い笑顔が帰って来た。
「いや、少し、自分の傲慢さに嫌気がさしていて」
……セドリック様が傲慢なら、世界中の大体の人が傲慢だろう。
そうは思うものの、意味がわからない。なぜ彼はこんなに悄然としているのか。
「そういえば、ガーデンパーティーに来ていただいて、どうもありがとうございます」
気分を変えてもらいたくて、必死に話題を探した。こちらこそ、とセドリック様が笑う。「色々新鮮だったよ」というので何のことだろうと首を傾げる。
「ガーデンパーティーで見た君は、同僚達に囲まれて楽しそうにしていた。今まで見たこともないくらい。あそこが君の居場所なんだと、ひと目で分かった」
「そう見えましたか」
「うん」
私は思わず顔を綻ばせた。嬉しかったのだ。
最近執拗にお兄様がお見合い話を勧めようとしてくるので、あの場所にいられなくなるのではないかという不安は感じていた、少しだけ。
自分で思うよりそのことが堪えていたのだろう。セドリック様の言葉をこれほど嬉しく感じるなんて。
これではどちらが元気づけられているのか分からない。
「あんな格好で、失礼しました。あの日は完全に庭師役だったんです」
王女様との一件では思いもかけず注目を集めることになってしまったが、貴公子と庭師の取り合わせは周りから見ると珍妙に見えただろう。
セドリック様に恥ずかしい思いをさせてしまったのではないかと、少し不安だった。
「美しかったよ」
セドリック様がぽつりとこぼした。
顔は私の方ではなく、向こうの壁の方を向いている。
「王女殿下を言祝ぐ君は、気高さと優しさを併せ持つ、春の女神プラーヌのようだった」
「……はあ。ありがとうございます」
ここで、あまりにもぴんとこない社交辞令を言われても、私は微妙な反応しかできない。
よく「魔女みたい」とデイジーに笑われている灰色の作業ワンピースを着た私を美と慈愛で有名な女神プラーヌに例えるなんて、セドリック様も意外とセンスがない。深く考えて言った訳ではないだろうけど。こっちを見てすらいないし。
私もセドリック様に、あの日の正装はまるで夏の男神シャルビオンのようでした、とか返したほうが良いのだろうか。でもシャルビオンって男女問わず気が多いことで有名な神様だから、例えるのは失礼かな。常套句がまるで分からない。
そもそも、この温室には、社交辞令なんて持ち込む必要はないのに。私は、少し残念に思って、そう思うことの身勝手さに気がつく。
私が意識なんてせずに常に土の色や植物の植生、茂り方に気を配っているように、セドリック様も貴族としての社交が無意識にまで身についているだけなのだろう。
それを身につけることをほとんど放棄している私が残念に思う資格はなかった。元はと言えば、私が自虐的なことを言ったのが駄目だったのだ。
相変わらず表情には出ていないだろうが、頭の中はぐるぐるとくだらないことばかり考えている。
今更ながら、ふたりきりで話しているという状況に気づいた。
考えてみたら、今までも、温室にふたりだけという状況はあったのだけど。でも、私は植物の世話をしていて、セドリック様は離れた場所で本を読んでいて、こうやって差し向かいで会話をすることなどほとんどなかったのだ。
——家族以外の男性とは、不必要に同じ部屋でふたりきりにならないこと。きちんとした理由がある場合でも、部屋のドアは開けておくこと。
唐突にそんな文言が浮かんだ。淑女としての教育を受ける際、真っ先に習うことのひとつだ。今がその状態に当たるかどうかを考える。
温室は温度と湿度を保つため、二重扉になっている。閉めておかない訳にはいかないし、セドリック様も毎回確認はしてくれていた。
私はそれを形式的なものだと思っていたので、特に気にすることもなく返事をしていた。
今はそのことが気になってしまう。不意に訪れた沈黙のせいだ。
セドリック様は少し俯いている。
何か言わなくてはと私が口を開きかけた時、温室のドアが開く音がした。
「やっぱりここにいた」
聞き覚えのある声だったものの、声の主は少し意外だった。
「……デイジー」
赤いレインコートを着たデイジーが立っていた。
「どうして、学園に?」
「どうしてって、姉様を迎えに来てあげたんじゃない。雨が止まないから、箱馬車で来たのよ」
そうは言うものの、雨だろうが嵐だろうが、今まで一度もデイジーがお迎えに来たことはない。
「それに、来年の入学に備えて、一度見ておきたかったのよ。建物はまあまあ立派ね。ここは随分と古くさいけど」
そう言って温室の中を見まわして、鼻で笑う。
「まあ、姉様にはお似合いかしら」
そしてセドリック様を見て、嬉しそうな顔をした。
「セドリック様! お会いしたかったわ」
「よかった、デイジー。私もちょうど君と話したいと思っていたんだ」
セドリック様もデイジーを見て、立ち上がった。
その時、今まで耳に入っていなかった雨音が、急に強くなった気がした。デイジーのレインコートを見たからだろうか。
そういえば今日は雨だったのだ。途中からすっかり忘れていた。
「嬉しいわ。どこかふたりで話せるところはないかしら。 ……ああ、姉様。授業が終わる頃にまた来るわね」
「ローズ、じゃあ、また。帰り道は気をつけて」
そう言って、ふたり並んで出て行ってしまった。私はひとり取り残されて、少し途方に暮れたような気持ちになる。
この温室ではひとりでいるのが当たり前のはずだったのに、置いて行かれたような気持ちになってしまうのはどうしてだろう。
雨を忘れるはずだ。セドリック様と話している最中は、陽だまりにいるような錯覚をしてしまっていた。
それは本当に錯覚なので、早く直さなくてはいけない。日陰に生える草は日光が当たる場所では枯れてしまうのだから。




