植物園に焦がれた少年《過去》
過去話です。
その日ローズが屋敷に帰ると、乳飲み子を抱いた女性と目つきの悪い男の子がいた。
男の子はローズと同じ年ぐらいだろうか。目が合うと、舌打ちして目を逸らされた。
なんだこいつ、と思っていると、女性にちゃんと名乗りなさい、と怒られていた。
「ごめんなさい。礼儀とかちゃんと教えてなくって。私はタバサよ。この子に名前はまだないの」
そう言って女性は赤ちゃんの手首を掴んで、ローズに差し出して来た。
握手のつもりだろうか。差し出された手は小さくて作りものみたいだ。ほんの少し強く握っただけで、折れそうな指。
ローズがおそるおそる手を差し出すと、小さな手のひらが、ぎゅっとローズの指を握った。あたたかい。
思わぬ強さは、ひどくローズを戸惑わせた。
こんなに小さいのに、なんて力強いのだろう。
「ほら、あなたも」
女性が少年を促す。その少年は渋々口を開いた。
「……ルイス」
父は彼らをこう紹介した。
「家族になる人達だよ」
てっきり弟子が増えるのかと思ったら、なんと父はその女性と結婚することにしたらしい。ローズに新しい母と兄弟が出来ることになった。
寝耳に水ではあったが、まあ決まったことなのだろうと、割とあっさりと受け入れた。
もちろん使用人達は大反対だった。一番反対したのは、メイド頭のホランドさんだ。
「動物を飼うんじゃないんですから、そんな大事なことを、勝手に決めないでください! ローズお嬢様に新しい母親が必要だというのはわかりますが、せめて身元のしっかりした方にするべきです。お嬢様だっていきなり得体の知れない人が家族になるなんて、恐ろしいでしょう」
ホランドさんは、いつも自分のためを思ってくれているのはわかっている。だが最後の言葉だけは承服しかねた。
「怖くはないわ」
本当だった。だってあの3人の中でいちばん弱いはずの赤ちゃんが、いちばん清潔で、ふっくらとして、何も怖いものなどないようにすやすや眠っていたのだ。
いちばん弱いものを大事にしている女性と少年が、怖いわけがない。
大人たちが話し合いをする間、園内を案内してやりなさいと言いつかって、ローズは渋々ルイス少年を庭園に連れ出した。
同じ年頃の子供なんかと話したことなどほとんどない。
まあ、でも、あれだけぶっきらぼうな自己紹介しかできない子だ。社交力はローズと似たようなものだろう。意外とそう考えると気は楽だった。
もしかして、この子が自分の兄弟になったら、しょっちゅう礼儀作法について怒っているホランドさんの矛先が半分この子に向かって、怒られる回数が少なくなるかもしれない。
そんな下世話な考えが頭を掠めて、それも悪くない、とひとり心の中でほくそ笑むローズだったが、後年それがとんでもない考え違いだったと思い知ることになるのは、まだ先の話だ。
「庭園です」
「フラワーガーデンです」
「温室です」
やる気のない案内役のローズを先頭に、ふたりは園内をてくてくと歩いた。
いつのまにか足音がひとつだけになっていたので、ローズは立ち止まって振り返る。
後ろの方でルイスが、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「どうしたんですか。次はおすすめの薬草園ですよ」
けげんな顔をしたローズに、ルイスがひとりごとのように呟く。
「この柵の中になにがあるんだろうって、ずっとかんがえてた」
柵というのは、植物園の周りをぐるりと取り囲んでいる高い青銅のフェンス囲いのことだろう。
植物の意匠がところどころに凝らされている柵はびっしりと蔦やつるばらが覆っているので、外から中の様子を知るのは難しい。
有料の植物園は、ある程度裕福な者しか訪れない。
そこまで法外な値段でもないが、わざわざ植物を見るために料金を払う生活困窮者はいなかった。
「この中がどうなってるのか知りたかったんだ。入っていくのはみんなきれいなかっこうの貴族や金持ちばかりだし、ここはきっと天国みたいにきれいなとこなんだろうなって……。そしたら、あの人が、お前の父さんが、俺に中の子になるかいって言ったんだ」
「天国みたいでしょう」
思わぬ褒め言葉を聞いた気がして、ローズは胸を張った。
「いや、思ったより普通だった。山に入っても見れるような花とかあるし」
やっぱりいけ好かない子だ。
「でも、やっぱり、ちがう世界に来たみたいだ。ゴミも落ちてないし、酔っ払って寝てるおっさんもいない。きれいな格好をした人しかいない。木も花も芝生も、ちゃんと大事にされていて、ぜんぶきれいだ。俺が知ってる場所とはぜんぜんちがう……」
ローズにとっては遊び場みたいなこの場所を、この子はずっと外から眺めていたというのだろうか。
それから少しして正式に再婚が決まり、ルイスは植物園の子になったのだが、何度かぼうっと園内を眺めている姿を見た。
まるで夢を見るような目つきだと思った。
更に何年か経って、読み書きもできなかった少年は、家庭教師が驚くほどの速さで知識を吸収していた。
もともと利発な子ではあったのだろうが、早く周りに追いつこうと寝る間も削って勉強する様子は、脅迫的ですらあった。
「この分なら、問題なく学園に入学できると思いますよ」
家庭教師のお墨付きをもらってもいまいち浮かない顔をしているのは、決定的にある才能に欠けていることが分かってきたからだ。
どうやら、ルイスは植物に関しては、覚えが悪い。これは母親のタバサの遺伝らしく、彼女も牡丹と芍薬の区別もつかない。
植物に興味がない者など別に珍しくもないが、ガードナーの者としては致命的だった。
とうとう、ルイスが学園に行かないと言い出したのは、入学の前年だ。
「どうせ、どんなに勉強しても、植物園にとって、この屋敷にとって俺は、役立たずのままだ。相応しくなんてなかったんだ、この場所に俺は。最初から……!」
初めての本心をさらけ出したルイスの激昂に、皆何も言えなくなっている中で、ローズがぽつりと言った。
「お兄様、私、社交が苦手なんですよ」
わかりきっているであろうことを告白するようなローズの言葉に、ルイスが何を今更という顔をした。
「あと、数学も不得手です。数字を見ると眠くなってしまって、フリードリヒ先生にお兄様を見習えと怒られてしまいました」
「…………」
「この家の当主になるためには、社交も経営もできないと駄目なんですって。でないと植物園がつぶれてしまうって」
敢えて父のことは話に出さなかった。彼はああ見えて、その世界では高名な学者なのだ。あの域までいけば、多少の瑕疵は目をつぶってもらえるだろうが、二代続けて社交がからきしな当主では、本当に家が潰れてしまう。
「だからお兄様が、お父様の跡を継いで、ここの当主になってください」
「お嬢様!? いったい何をおっしゃるんですか!!」
悲鳴のような声を上げたのは、この家に長くいるホランドさんだ。
「だって、園にとっても、ここで働いてる人達にとっても、その方が絶対にいいもの。そう思うでしょう。――その代わり、立派な経営者になって、植物園を盛り立てて、ここを世界一の場所にしてくださいね」
絶句しているルイスに、そして私を雇ってください、と付け加えることも忘れなかった。
その夜、帰って来て話を聞いたローズの父とルイスは、長い話をしていたようだ。
ローズがルイスに決意表明をされたのは翌日のことだった。
「お前の苦手なことは、俺が全部やる。勉強も、社交も、経営も、売り込みも、面倒ごとは全部引き受ける。何だってやる」
「そこまでやられると、今度は私のいる意味が無くなってしまうと思うのですが」
「お前には植物があるだろ。唯一無二の才能だ。黙ってそれを伸ばせ」
「はあ。まあ私はありがたいですけど……」
「……だから、植物園を俺にくれ」
ローズはルイスの顔を見た。大真面目だった。
細かいことを言うと植物園は国のもので、ガードナー家は単に全権を任されているだけに過ぎない。だけど、そういうことではないのだろう。
昨日の当主を譲るという話を呑むと言っているのだ。
植物園に憧れて、夢でも見るような目をしていた少年。やっぱり自分はここには相応しくないのだと、目に涙を溜めて激昂した昨日のルイス。
ローズはほんのかすかに笑った。
「いいですよ」
「俺が当主に相応しくないと思ったら、すぐに撤回して良いから」
「もちろんです。頑張って外面を取り繕ってください」
幼い約束だ。法的根拠があるわけでもない。
でも自分たちが決めたことは、何よりも揺るがないものだと、ふたり共わかっていた。
次の年にルイスは予定されていた通り王立学園に入り、今に至るまでずっと、周囲の期待に応え続けている。




