夜に堕ちる黒き翼
夜の帳が完全に降りた頃、俺たち三人はまず、神魔の秤のある部屋をめざし王城の外壁に張り付いていた。
月は雲に隠れ、辺りは暗闇に包まれている。見張りの兵士たちが松明を手に巡回しているが、その動きには規則性があった。
「……今だ」
俺の合図で、三人は素早く壁を登り始める。
ナディル地区で身を隠させてくれたあの老人……。
彼は何も聞かず、何も語らず、ただ静かに俺たちを匿ってくれた。
そして別れ際、一枚の古びた地図を手渡してきたのだ。
「これは……?」
「王城の地図です。裏口も、隠し通路も、全て記されております」
老人の目には、不思議な光が宿っていた。
「なぜ、こんなものを……」
「私にも過去というものがあるのですよ……」
それだけ言うと、老人は背を向けて消えていった。
あの老人は一体何者だったのか。
俺は今でも、その問いに答えを出せずにいた。
まぁいい……俺たちは今から生きるか死ぬかの勝負を仕掛けるのだ。
壁を登り切り、俺たちは城内へと侵入する。
地図の通り裏口の近くには隠し通路があった。
石壁の一部を押すと、密やかに扉が開く。
「すげぇ……本当にあったのか」
ヒキヤンが小声で呟く。
「二人とも音を立てないように……」
俺たちは狭い通路を進んでいく。
時折、壁の向こうから兵士たちの足音や会話が聞こえてくる。俺は息を殺し、慎重に前へ進んだ。
廊下の角で立ち止まり、様子を窺う。
二人の兵士が巡回してきた。松明の明かりが、廊下を照らしている。
「……一旦止まる」
俺たちは物陰に身を潜める。
兵士たちは何も気づかず、そのまま通り過ぎていった。
「ふう……」
ノエリアが小さく息を吐く。
「神魔の秤がある部屋はもうすぐだ。あと少し……」
俺は地図を確認する。
――その時だった。
「――おやおや……誰かと思えば、最悪の犯罪者じゃないですか」
背後から響いた冷たい声に俺たちは凍りついた……。
ゆっくりと振り返ると、そこには薄笑いを浮かべたカイ・フェアラートが立っていた。
「カイ……!」
俺の背筋を、冷たい汗が伝う。
いつから気づいていたのか。いつからついてきていたのか。
カイの存在に……誰も気づけなかった。
「これはこれは、随分と大胆な侵入ですね。王殺しの犯人が堂々と王城に戻ってくるとは」
カイの声には、愉悦が滲んでいる。
まるで壊れかけた楽器が奏でる旋律のように、不気味で狂気じみた恐ろしさを感じさせる笑みだった。
「逃げろ!!ヒキヤン、ノエリアさん!!」
俺は恐怖によって声が出しずらい中、必死に叫んだ。
「俺がこいつを抑える!!あれを手に入れてくれ!!」
「兄貴……!」
「ヒキヤン……行きましょう!!」
俺はカイに二人の目的地を悟られないように濁して言った。
二人は一瞬迷ったが、俺の真剣な眼差しを見て頷いた。
ヒキヤンとノエリアは、俺と言葉を交わさずに廊下の奥へと駆け出していく。
カイは追おうともせず、ただ俺を見つめていた。
「いいのですか?お仲間を先に行かせて」
「お前の狙いは俺だろ。なら、俺が相手をする」
俺は剣を抜き、構える。
カイは小さく笑った。
「勇敢ですね。いや、愚かと言うべきでしょうか」
廊下に、重い沈黙が落ちた。
俺たちは向かい合い、互いの出方を窺う。
カイはゆっくりと俺に向き直る。
その目には、いつもの薄笑いではなく、何故か冷たい怒りが宿っていた。
「テンセイ・イセカイ・シュタイン。貴方は不思議な男ですね」
「……どういうことだ」
「僕は今、怒りを抱えています」
カイは一歩、前に踏み出す。
「一つ。王が殺され、三翼傑としての信頼を失ったこと。そのせいで、とても動きづらくなってしまいました」
カイの声が、低く響く。
「我々三翼傑は王の盾……それが誇りであり、存在意義らしいですよ。しかし、王は死に、その盾としての役割を果たせなかった。
国民からの信頼は地に落ち、僕たちは貴族層から役立たずの烙印を押された」
「それは……」
「二つ。僕の研究を妨げられたこと」
カイの目が、冷たく光る。
「実は僕、研究者なんです。界隈では名の知れた、ね。
私が研究しているのは『人間の限界』
――人はどこまで生き、どこまで耐え、どこまで強くなれるのか」
「狂ってるな……」
「狂っている……?いいえ、これは純粋な探究心から来るものですよ」
カイは淡々と語る。
「そして僕は最近、素晴らしい研究材料を見つけたのですよ。目を疑うような力を持つ、実に興味深い存在を」
それを語るカイの瞳は、まるで新しい玩具を手に入れた子供のようにキラキラとしていた。
だが、次の瞬間には一変し、お気に入りの玩具をなくした子供のように怒りと悲しみを滲ませた。
「クラリスが牢に入れた隙を見計らい、僕はその者を奪い去ろうとしたのですが……」
カイの声が、一段と冷たくなった。
「その者は僕より先に、一人で脱獄してしまった」
「一人で……?」
「ええ。実に驚きました。あの牢は厳重に封じられていたはずなのに。
あの子は、研究者としては垂涎の的だったのですが……」
カイの薄笑いが、完全に消えた。
「最高の研究材料に逃げられたこと。これが何より許せない」
空気が、ピリピリと張り詰める。
「貴方がここに来たのは、神魔の秤を手に入れるためでしょう?」
「なっ!?」
俺は思わず、声を漏らす。
なぜ分かった……こいつ!
「図星ですか」
カイは静かに笑う。
俺の反応を楽しむかのように……。
「貴方は神魔の秤を使い真犯人を見つけ、自分の無実を証明したい……実に良い判断です」
俺は息を呑む。
「全てお見通しって訳か……。だったらどうする、ここで俺を殺すのか」
「別に、貴方になど微塵も興味は無いのです。僕には王が死のうがなんだろうが関係ないんですよ」
次の瞬間――カイは耳を疑う発言をした。
「――まぁでも、リューゲ王は死んで正解だったのかもしれませんね」
「貴様何を言ってッ!」
「奴は無能でした。クズでバカですよ。王の器ではなかった。死んで当然だと思います」
カイの目が、冷たく光る。
「僕はもっともっと研究をして、真の『人間の限界』を知りたいというのに……研究材料となる転生者や下流階級の奴隷なんかの援助もしてくれなかった。
貴族の反感を買い、三翼傑という立場を利用しにくくはなりましたが結果オーライです」
そう語るカイはどこか楽しげに見えた。
「つまりは王が生きようが死のうが、貴方たちが何を企んでようが、僕には興味がない。
僕が興味があるのは、人間の限界を知る……それだけです」
俺は思わず歯を食いしばる。
こいつのやってる研究とやらは俺でも分かる……悪だ。
その時、俺は静かに言った。
「――お前は……間違ってる」
「間違っている?」
「ああ……お前は人間の限界を知りたいと言った。でも、お前は肝心なことを知らない」
俺はまっすぐにカイを見つめる。
「人間の本当の強さは、限界を超えることじゃない。何かを守るために戦うことだ」
カイの表情が、わずかに変わった。
「お前みたいに、人を道具としか見ない奴には、一生理解できないだろうな」
……その瞬間、俺たちの間に静寂が落ちる。
カイの薄笑いが、消えた。
その目には、なんとも言えない静かな怒りが宿っている。
「……面白いことを言いますね」
カイの声が俺の腹の底まで響く。
「では、その理論が正しいか……実験してみましょうか」
カイが一歩、踏み出そうとした、その瞬間――
――ドガアアアン!!
突然、横の壁が爆発した。
石の破片が飛び散り、煙が立ち込める。
「な、何だ!?」
俺は咄嗟に身を守る。
カイも目を細め、煙の向こうを見つめた。
――煙がゆっくりと晴れていく。
なんとそこには――小柄な小さな女の子が立っていた。
そして俺の方を指さし、廊下に響き渡る元気な声で叫んだ。
「――ああ!!テンセイ様だぁぁぁ!!」




