濡れ衣
「ん……」
意識がゆっくりと浮上してくる。
重い瞼を開けると、視界には見知らぬ天井が広がっていた。いや、天井ではない。円形に組まれた石造りの壁が、遥か上方で開いている。
そこから差し込む不穏な月明かりだけが、この空間を照らしていた。
「ここは……?」
声が大きく響いた。
体を起こそうとして、右手に違和感を覚える。何か冷たく、硬いものを握っている。
視線を落とすとそれは、剣だった。
柄を強く握りしめた右手には、黒ずんだ液体が付着している。
俺は一瞬でそれが何かを理解した。
――血だ……
心臓が跳ね上がる。
「なんだ、これ……」
震える声で呟きながら、周囲を見渡す。
そこは円形の建造物の内部で、中央には女神の銅像が立っていた。その銅像の足元に――人が倒れていた。
「……!?」
俺は思わず息を呑む。
俺は剣を取り落とし、よろめきながらその人物に駆け寄った。倒れているのは豪奢な衣装を身に纏ったふくよかな体をした初老の男性。頭には歴代の王様の肖像画で見た王がつける冠。
間違いない……この人は……この人が!
――プリアーポス・リューゲ――リューゲ王国の国王だ!
「リューゲ王!!しっかりしてください!!」
肩を揺さぶるが、反応はない。恐る恐る首筋に手を当てる。
……脈はなかった。
「嘘だろ……」
指先から血の気が引いていく。国王の胸元には、深々と刺し傷が開いていた。
服には乾いた血が大量に染み込み、鉄の匂いを放つ。
そして、俺の手に握られていた剣。
刃には、まだ生々しい血が付着している。
「違う……俺じゃない、俺は……」
言葉が出ない。頭が真っ白になる。
なぜ俺はここにいる……?
なぜ剣を持っていた……?
なぜ国王が死んでいる……?
馬車で眠りに落ちたところまでは覚えている。
その後の記憶が――ない。
俺は震える手で国王の体に触れる。
「冷たい……」
そう呟いて、俺は息を呑んだ。
異常なほど冷たい。まるで氷のように。死後硬直が始まっていることを考えても、この冷たさは尋常ではない。まるで氷の中に漬けられていたような――
「待て、落ち着け……考えろ」
自分に言い聞かせる。だが思考はまとまらない。
恐怖と混乱が俺を縛り付け、呼吸すら苦しい。
月明かりだけが、静かにこの惨劇を照らしている。
円形の建造物は、まるで処刑場のように見えた。石造りの壁が音を吸い込み、恐ろしいほどの静寂が支配している。
「そ、そうだ……マイヤちゃんは……?」
はっとして周囲を見渡す。だが、マイヤちゃんの姿はどこにもない。
「マイヤちゃん!マイヤちゃん!」
叫ぶが、無情にも返ってくるのは自分の声の残響だけ。
息が荒くなる。心臓が早鐘を打つ。
これは罠だ。そう直感した。
夕食の料理に何か混入されていた。あの眠気は薬によるものだったんだ。そして俺は眠らされている間に、ここに運ばれて――そう考えたところで、ふと違和感に気づいた。
「……なんか、床がジャリジャリするな……」
足の下で、何かが細かく砕けるような感触。
まるで砂の上に座っているような――そんな奇妙な違和感だ。
俺はしゃがみ込み、指先で床をなぞる。光を反射する小さな粒がいくつも散らばっていた。
「……ガラスの破片か?」
俺はその中でもひときわ大きい一粒を拾い上げる。
親指の爪ほどの大きさの透明な結晶だった。
「冷たい……?なんだこれ……」
まるで氷のようだ。けれど、手の中で溶ける気配はない。
冷たさがじわじわと指先から腕へと伝わり、背筋に嫌な感覚が走った。
――何か、おかしい。
「――誰かいるぞ!」
その瞬間だった。突然、外から声が響いた。
複数の足音が近づいてくる。松明の明かりが、入口から差し込んできた。
「動くな!そこで何をしている!」
武装した警備兵たちが、次々と建物内に入ってくる。
彼らの視線が、俺と――その足元に倒れる国王の遺体を捉えた。
「王……!リューゲ国王が!」
「貴様、何をしたッ!!」
剣を抜いた兵士たちが、俺を取り囲む。
「違う!俺じゃない!俺が目を覚ました時には、もう……!」
必死に弁明するが、状況が圧倒的に不利すぎた。
血塗られた剣。返り血を浴びた服。そして目の前には、刺殺された国王。
「言い訳は牢獄で聞く!捕らえろ!」
「やめろ……やめてくれ!」
兵士たちが一斉に飛びかかってくる。
抵抗する余裕もなく、俺は地面に組み伏せられた。冷たい石床に頬が押し付けられ、両手を背中で縛られる。
「俺はやってない!」
「国家転覆罪だ。テンセイ・イセカイ・シュタイン、貴様を逮捕する」
冷たい声が、頭上から降ってくる。
月明かりの中……女神像が静かに微笑んだ気がした。
◆◇◆◇
牢獄は湿っていて、カビ臭かった。
石壁に囲まれた狭い空間。小さな窓からわずかに光が差し込むだけで、ほとんど暗闇に近い。
床には藁が敷かれているが、それも湿気を含んで冷たい。
俺は壁に背を預けたまま、膝を抱えていた。
あれから何日経ったのか。取り調べは何度か行われたが、どれだけ説明しても信じてもらえなかった。
当然だ。状況証拠があまりにも完璧すぎる。
マイヤちゃんはどうなったんだろう。無事なのか。それとも――
考えたくない可能性が頭をよぎる。
「――おっと……エリュシオンの国王さんじゃないですか」
突然、声が響いた。
顔を上げると、牢の前に人影が立っていた。月明かりを背に受けて、顔は見えない。だが、その声には聞き覚えがあった。
知的で、どこか楽しげで、そして――不気味だ。
「誰だ……?」
「もうお忘れで?カイ・フェアラートですよ。三翼傑の一人の」
人影が一歩前に出る。月明かりが顔を照らし、その容貌が明らかになった。
中性的な顔立ち。細く鋭い目。薄く笑みを浮かべた口元。
「あぁ……覚えているぞ」
「それはそれは……良かったです」
カイは牢の格子に手を添え、じっと俺を見つめてくる。
「それで……国王殺しの国王さん。気分はいかがですか?」
「俺はやってない」
「ええ、もちろん。そう言いますよね、誰だって」
軽い調子で言いながら、カイは首を傾げる。
「でも証拠は揃っています。あなたの手に剣。返り血。そして誰もいない密室で、リューゲ王は冷たくなっていた。完璧な状況証拠です」
「罠だ……誰かが俺を嵌めたんだ!」
「ほう。誰が?」
「それは……」
言葉に詰まる。夕食にあの夕食に薬が入っていたなんて言ったって、肝心な証拠がない。
そして、薬が入っていたと証明できたとしても城の中の人物なら誰でも犯行は可能だ。
「言えないのですか?……まぁ、そうでしょうけど」
鼻で笑うカイの笑みが深くなる。
「もういいでしょう。どちらにせよ、あなたの運命は決まっています。国家転覆罪。王殺しの罪。これは死刑以外にありえません」
「……俺は違う」
俺の囁くを無視し、カイは続ける。
「でも不思議ですね……なぜあの場所だったのか。なぜあのタイミングだったのか」
カイは格子越しに顔を近づけてくる。
「偶然にしては、あまりにも完璧すぎる。まるで誰かが綿密に計画したかのような――ね?」
「何が言いたい……?」
「別に。ただの独り言ですよ」
カイはくるりと背を向ける。
「ああ、そうだ。一つ忠告しておきましょうか。この牢獄、意外と脱獄は簡単なんですよ。鍵さえあれば、ね」
「……何?」
「何でもありません。では、また」
そう言い残して、カイは暗闇の中へ消えていった。
足音が遠ざかり、再び牢獄内に静寂が戻ってくる。
俺は壁に頭を打ち付けた。
「くそ……」
何が何だか分からない。あいつは何を言いたかったんだ。
それから数日が経った。
取り調べも尋問も、もう行われなくなった。裁判の日程が決まったのだろうか……。
その先に待つのは、間違いなく死刑だ。
半ば諦めかけ、藁の上で天井のシミを数えていた……その時だった。
カチャン、という金属音が響いた。
「――起きろ、ゴミ兄貴!」
「――早く行くよ〜」
聞き慣れた声に俺は反射的に跳ね起きる。
なんと、開いた牢の格子の前に二人の人影が立っていた。
「ヒキヤン!?と……ノエリアさん!?」
「声がでかい!バカ!」
その二人に俺は顎が外れんばかりの大きな声を出してしまった。
「追手が来る前に逃げるぞ!」
「待って、どうして……」
「説明は後だよ!」
ノエリアも迫力のある声で急かしてくる。
「マ……マイヤちゃんは!」
「あのガキは後だ!」
「必ず助けるから今は耐えて〜」
ヒキヤンが俺の手を引っ張る。
三人は廊下を駆け出した。
俺たちの足音が響いたのだろう……。それに呼応するように警備兵の怒号が背後から響く。
「そっち!」
ノエリアが先導し、曲がりくねった通路を抜けていく。
この牢獄は城の外に設置されていて、ここさえ抜け出せれば外に直結している。
だが、出口を真正面からはいくらなんでも突破できるわけが無い。
「あそこが出口だ!」
すると、ヒキヤンが遠くを指さしながら叫ぶ。
その方向を見ると、城壁に人が一人入れるぐらいの穴が空いていた。
「あそこから入ってきたのか!」
「さ、出るよ〜!」
三人は順番に城壁に空けられていた穴から外へ飛び出す。
冷たい夜風が頬を打った。
「こっちだ!ナディル地区に逃げ込むぞ!」
ヒキヤンの言葉に従い、俺たち三人は暗闇の中を走り続けた。
◆◇◆◇
ナディル地区――リューゲ王国の最下層地域。
華やかな王都の裏側に広がる、貧困と絶望の吹き溜まり。
ここには国の自由主義政策から零れ落ちた者たちが集まっている。
職を失った者、奴隷として売られる寸前の者、そして既に人としての尊厳を奪われた者たち。
自由を謳うこの国では、全てが商品となる。
土地も、物も、そして人間さえも。
金さえあれば何でも手に入る代わりに、金がなければ何も持てない。その歪んだ自由主義の果てに生まれたのが、このナディル地区だった。
治安維持のための警備兵すら、この地区にはほとんど立ち入らない。
犯罪者の隠れ家としても知られ、法の手が届かない無法地帯と化している。
「ここが……ナディル地区……」
「貧困層と奴隷が住む場所だ。追手もそう簡単には入ってこれない」
ヒキヤンが簡潔に説明する。
だが、その表情はとても暗い。
「自由の国……リューゲ王国の裏の顔なの……」
ノエリアが皮肉めいた口調で言った。
ナディル地区に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
立ち並ぶのは、今にも崩れそうなボロ家ばかり。
道は舗装されておらず、泥と汚水が混ざり合っている。腐敗臭のようなものが鼻を突き、どこからか呻き声が聞こえてくる。
空から、冷たい雨が降り始めた。
三人は軒先に身を寄せる。雨は次第に強くなり、泥道を叩く音が響く。
「はぁ……ここなら雨ぐらいなら凌げるな」
ヒキヤンが安堵の息を吐く。
「でも、ひどい場所……」
ノエリアが周囲を見渡しながら呟いた。
道端には、ボロ布を纏った人々が蹲っている。子供も、老人も、区別なく飢えに苦しんでいる。誰も彼らを助けようとはしない。ただ雨に打たれ、泥にまみれ、静かに息をしているだけだ。
「自由主義国家……か」
俺は呟いた。
「自由という名のもとに、格差が極限まで広がった国。金を持つ者は何でも手に入る。持たざる者は、奴隷として売られるの……」
「人身売買が、ほぼ合法化されてるんだよ。この国じゃ」
ヒキヤンが吐き捨てるように言った。
雨音だけが、静かに響いている。
その時、俺の裾を何かが掴んだ。
「……?」
見下ろすと、びっしょりと濡れたボロ布に包まれた小さな少女がいた。
痩せ細った体。泥だらけの顔。虚ろな瞳。
彼女は震える手で俺の服を掴んだまま、今にも息絶えてしまうのではないかと自然と想像させられるようなか細い声で呟いた。
「お……お兄ちゃん。な……何かちょうだい?」
俺は何も言えなかった。
雨が、その小さな体を容赦なく打ち続ける。
ノエリアもヒキヤンも、黙ったまま俯いていた。
――これが、この国の真実。
――自由という名の、絶望。
冷たい雨だけが、この荒廃した街を支配していた。




