あの日交わした約束を私はまた守れない
甘い紅茶の匂いと共にぼんやりとしていた意識が徐々にはっきりとしていく。
……寝ていた?確か、私は裏切りにあって……
横になっていた私は半ば反射的に上体を起こして座る。
そして……
――目が覚める
まぶたを開けた瞬間、眩しさを感じた。
この時の私にはそれが光なのだとは全く理解ができなかった。
その光の次に目に飛び込んできたのは灰色とも白ともつかない、ぼんやりとした輪郭の世界。
「――目が覚めたみたいだね、アニカ・ヴェスパー」
前方から穏やかな声色の男の声がした。
未だ視界が晴れない私に目の前にいるであろう何者かが話しかけてきたのだ。
聞こえた高さ的に身長は175センチ前後、そして落ち着いた響きと張りのある声質から年齢は20代と言ったところか。
声が反響し、空気は動かず、閉ざされた静けさを感じる……ここはどこかの部屋の中か。
「誰……そしてここはどこ……なぜ私は見えているの」
私は話しかけてきた男に立て続けに問いをぶつけ威圧的に質問する。
「君の今の状況では仕方ないのかもしれないが、質問はその都度その都度した方がいい。威圧的に取られてしまうからね」
目の前の男は私の様子を嘲笑うかのようにそう言った。
その声音には、軽やかさとほんの少しの皮肉が混ざっていた。
そしてこの時、はっきりと男の顔を見ることが出来た。
まぁ、大方予想通りと言ったところね……
「へぇ……そう捉えられてしまったのなら悪かったわね。で、答えは?」
視線をぶつけ、さらに圧を込めて問いかける。
そうすると、男は笑いながら
「強情だな。嫌いではないよ」
と、余裕のある口ぶりで言ってきた。
そして男は言葉を続ける。
「私の名はアマガミテンマ。ここは私が支配する仏滅領にひっそりと佇む古びた屋敷の一室さ。
そしてなぜ君の目が見えているのかだったね……答えは簡単。君は見事、転生に成功したのさ」
意味がわからなかった。転生なんてものが存在するはずがない。
転生とはつまり、死んだ人間が別の世界で生まれ変わること。
だがそんなものは、死という概念を受け入れられない弱者が作り出した都合のいい妄想に過ぎない。
「そんなことをいきなり言われて信じられるわけが無いでしょう」
私がそう反論するとテンマと名乗る男はすかさず言葉をかぶせてきた。
「ではなぜ、頭を撃ち抜かれた君が、今こうして私の前で平然と会話している?」
私はその言葉に返すことが出来なかった。
……私は死んだ。死んだはずだ。
だが、銃撃を受けたはずの後頭部には一切の傷は残っていない。ましてや、先天盲までもが治っている。
――これが現実だとしたら私は一体何者なの?
――これは生ではなく、死の延長線上にある何か?
様々な疑問が湧き上がり、理屈では到底説明のつかないこの状況に言葉を失っていく。
テンマは黙って私を見下ろしていた。その眼差しはまさに答えを知っている者のそれだった。
「まぁ君が転生を信じようが信じまいが構わないさ」
そう言いながらテンマは私と向かいにあるソファに静かに腰をかける。
テーブルに置かれていた紅茶のカップを手に取り、一口だけ含むとわずかに目を細めてから話を続ける。
「私が君を助けたのには理由があってね。僕の道具として働いて欲しい。ただそれだけさ」
「これはまた、ずいぶん思い切った発言ね」
あまりにも酷薄なことをあっさりと言うものだから笑みを浮かべつつもこの時の私はかなり驚いていた。
「もし貴方の道具になったとしたら何をすればいいのかしら?」
私の問いに対しテンマは愉快そうに声を上げて笑った。
まるで滑稽なものでも見るかのように。
「決まっているじゃないか!――……君に殺し以外の何を求めるというのか」
この男は危険だあまりにも狂っている。
「……対価が無ければ危険を犯す義理もないわ」
私は冷ややかに言葉を返す。
「対価……そうだね。私は君を元の世界に帰すことが出来る。私の目的が果たされた暁には帰してあげようかい?」
その曇りひとつ無い眼で放たれた言葉にこの時の私は何も返せなかった。
……あの世界で、私は死んだのだ。死んだ人間が帰る場所なんてものはあるはずがない。
それを理解していたからだ。
それでも、心の奥にひとつの迷いが芽生えていた。
「君にもいるだろ……もう一度会いたいと思う友が」
その一言が、胸の奥にあった心を呼び起こした。
笑い合った日々。語り合った夜。伝えられなかった言葉。
――人間は自らの心に嘘をつくことはできないものだ。
「……分かったわ。貴方を信じて、道具になってやるわよ」
「そう言ってもらえて、嬉しいよ」
「……思ってもいないくせに」
結局、行き着く先はいつも同じだ。
これこそが運命というものだろう。私が「殺し」から逃れることなど最初から許されていなかったのだ。
もしかしたら、初めから答えが決まっていたのかもしれない。
会話が途切れ、ひとときの静寂が訪れる。テンマは再びカップを持ち上げて冷めかけた紅茶を静かに口へ運んだ。
「……もう話は終わりかしら?」
「最後にひとつ。単純な確認だが、君の頭の中には銃弾が埋まっているようでね。今のところは問題ないようだがいつどうなるかは保証できない。取り除くのは可能だが……どうしたい?」
その問いに私は一瞬の迷いもなく答えた。
「必要ないわ。これは私が弱さを忘れないための戒めよ」
「いいね。実に面白い」
私の返答に鼻で笑いながらテンマは立ち上がる。
ゆったりとした足取りで扉へ向かい、それを開けながら振り返る。
「そうそう、今日からこの屋敷が君達の家さ。好きに使ってくれ」
そう一言だけ言い残して、テンマは部屋を後にした。
やがて、廊下が軋む音が止む……その瞬間。
「はぁ……はぁ……なんなのよあのバケモノは……」
私は思わず膝に手をつき震える声を漏らした。
あんなもの「人間」とは到底呼べない……
目の前にいるだけで意識を失いそうになる独特の圧を放っている。
私の全身が、あの存在に支配されていた。
――それほどまでにあの男は異質だったのだ。
「とにかく……今は私に出来ることをするだけね……」
◆◇◆◇
――視界が暗い。
ああ、そうか。私は今、死にかけているんだったわね。
思考の奥にさっきまで見ていた記憶の残り香がかすかに漂っていた。
テンマさんの皮肉めいたあの言葉……それが私の心の奥で微かに火を灯した。
倒れ伏していた身体がわずかに動いた。腕が震えながら支えを探す。
――あぁ……痛い。全身が鉛のように重い。
それでも私は何かに憑かれたように片腕で上半身を押し上げ、ふらつきながらもよろける足に力を込めて立ち上がった。
「――まだ立つなんて……まるでもがれた羽でバタつく虫みたいですわ」
相変わらず目の前には傷一つない最強が悠々と立ちはだかっていた。
「ずっとそこから動かないようだけど腰が抜けたのかしら?」
わざと軽く挑発するように言って、彼女の反応をうかがう。
「どうせ貴女、そこらじゅうにトラップを仕掛けているのでしょう?それに貴女の命は時間の問題……だったらじっとしているのが最適解……ですものね?」
最初から最後まで驕らない……か。
私は俯く。そんな絶望的な状況に思わず笑みがこぼれた。
――今なら……できるわね。
私は一歩、また一歩と震える足を必死にそしてゆっくりと前に出す。
「はぁ……自分の人生を考えると哀しくなってくるわ……」
そんな突拍子もなく零れた独り言にクラリッサは涼しげな瞳を細めた。
「一体、何が言いたいのかしら?」
私はそこで足を止め、静かに顔を上げた。
「ねぇ……貴女って死を感じたことってある?」
「……一度たりとも感じたことはないですわ」
私はそれを聞いて安堵した。
――良かった……これで私の人生は価値あるものになる。
リコナ……もう一度、君と話したかったな。
未来のことを、夢のことを、くだらない話で笑い合って……ただ、それだけで良かったのに。
そんな日々を思い出すと、頭の中が熱くなっていく。
――そろそろ、時間ね……最後にリコナに謝りたいことがあるの……
後悔、未練、恐怖、哀しみ……押し寄せるすべての感情が喉を塞ごうとしても、このひと言だけはどうしても言わなければいけないと、思った……。
「――ごめん、リコナ。約束、また守れそうにないわ」
その瞬間だった。
何かが空気を裂く鋭い音とともに、アニカの額に小さな穴がひとつ開いた。
まるで時間が止まったように身体はふわりと後ろへ傾き、そのまま何の抵抗もなく地面に倒れ込んだ。
――その顔には、ひとすじの涙をこぼしながらも……どこか穏やかな微笑みが浮かんでいた。




