守り抜くと誓った
息を吸えば、自然と息を吐く。
その当たり前に誰も疑問は浮かばない。
それと同じように命令されたら遂行する……。
例え人殺しだろうとなんだろうとそこに疑問は浮かばない。
それはご主人様の命令なのだから……
「――貴方の人生は主人のもの、命令に従えばいいのよ」
物心つく前から、毎日毎日そう母に言い聞かせられていた。
メイドたるもの私情は捨てる。それが常識だと習った私は様々な主人から数え切れない命令を受け、数え切れない遂行をし成長していく。
いつしか私の心は完全に消え去り、命令を聞くだけの道具と化していた。
……けれど、ほんの一瞬だけ、私の心が動いた時があった。
――それは、まだ私が幼かった頃のこと。
◆◇◆◇
あの日、私は庭園で一人で理由もなく無表情で佇んでいた。
そんな私へ一人の幼い少年が駆け寄ってくる。
シュタイン家の息子、テンセイ様だった。
「ねえねえ、お姉さん!」
目の前のこの世をまだ知らない小さな少年は人懐っこい笑顔で私に話しかけてきた。
私はメイドとして適切な対応を取ろうとしたが、幼いテンセイ様は構わず続けた。
「お姉さん、いつも一人で寂しくないの?」
なんて無邪気な瞳なのだろうか。
一人が寂しい……?全くもって意味がわからない。寂しいという感情そのものが、私の中には存在しなかった。
「僕ね、一人でいる人を見ると、心が冷たくなるんだ。
お父さんが言ってたよ。人は人の温かさに触れて成長していくんだって」
その言葉に、私の胸の奥で何かが小さく震えた。
寂しい――そんな感情があることすら忘れていた。
「お姉さんが笑ってるところ見たことないや。でもね、きっとすっごく素敵な笑顔なんだと思うな!」
そう言って、テンセイ様は満面の笑みを浮かべた。
その時、凍りついていた私の心の奥深くに、小さな小さな灯が点ったような気がした。
「ねぇ!僕と友達に――」
「――テンセイ様!そろそろお部屋に戻りますよ!」
遠くからテンセイ様の使用人の声がする。
「時間だ!お姉ちゃん、またね!」
その少年を私を置いて温かな場所へと走っていった。
――もう……ここに来るのはやめよう。
私には笑顔など必要ない。メイドに感情は不要なのだから。
そう自分に言い聞かせながら、私は胸の奥の小さな灯を無理やり消した。
◆◇◆◇
それから数年の月日が流れ、幼い少年との出会いも忘れていた頃。
私は病弱な体を抱えたシュタイン家の奥方様の介護を任されていた。
奥方様は優しい方だった。時折、私に「ありがとう」と言ってくださった。
命令ではなく、感謝の言葉。
それが私の心にどれほど温かく響いたか、当時の私にはまだ理解できなかった。
ただ、胸の奥が妙にざわついていた。
まるで忘れていた何かを思い出しそうになるような、そんな感覚。
「ハッシュさん、貴女はいつも無理をしている」
ある日、奥方様がそう仰った。
「私にはわかるの。貴女の目は、まるで氷の底にいるみたい。でもね、貴女の中から温かいものを感じるの」
その言葉に私は何も返せなかった。
そして、奥方様が静かに息を引き取られた日、私の胸に言葉にできない痛みが走った。
――これは……何?
初めて感じる、喪失の痛み。
奥方様との日々が、少しだけ私の心を溶かしていたのだと、後になって気づいた。
葬儀が終わり、私は新たな配置を告げられた。
「――お前を我が息子の専属メイドに任命する」
――テンセイ様の、専属メイド。
私の胸に、不思議な感覚が広がった。
それが何なのか、当時の私にはまだ分からなかった。
◆◇◆◇
「今日から専属メイドとして仕えさせていただくことになりました、ハッシュ・ラッシュ・メイドリルと申します。なんなりとご命令を」
「俺はテンセイ・イセカイ・シュタイン、これからよろしくな!」
テンセイ様は私をじっと見つめ、そして言った。
「……昔庭園にいたメイドだよね?覚えてるよ」
私はあの時を思い出すと共に胸が締め付けられるように痛んだ。
このお方は、覚えていてくださったのか。
あの何気ない日を……私のことを。
「あの時、俺は子供で何も分かってなかったけど……今なら分かる。ハッシュはずっと一人で、苦しんでたんだよね」
優しい声が、冷たい心の奥に届く。
得体の知れない「何か」か込み上げるのを必死に押し殺し、私は俯いた。
「……なにかご命令があればお申し付けください」
それしか言えなかった。
テンセイ様は少し寂しそうに微笑んで、それから明るく言った。
「命令か〜そう言うの好きじゃないだよな……
――そうだ……じゃあ命令だ!俺と友達になってくれよ!」
…………え
生まれて初めて「命令」に対して疑問が浮かんだ。
友達……?私は今まで、そんなものを持ったことがない。私からしたらおとぎ話の世界の話だ。
友達とは何なのか?定義は?条件は?
一体どうしたらご主人様の命令を遂行することが出来るのか……分からない。
「ど……どう……すれば良いのでしょうか……」
震える声が自然と漏れる。無論、私には友達のなり方などわからない。
「何もしなくていいんだよ、一緒に何気ない日常を楽しんで、それを共有し合うのが友達って奴だと思うが」
楽しむ――その感情は、私の中からはとっくの昔に消え去っていた。
それはメイドとしての役目を果たすため不必要なものだからだ。
でも――この命令を遂行するには、その感情を取り戻さなければならない。
――あぁ……もう私の中に「私」はいないんだ。
これは「私」を大切にしなかった私への罰。
命令に従えなかった私は、もう……
「――言っておくけどこれは拒否権がある命令だからな」
「……え?」
「命令なんて言い方をしたけど、これは俺の願いだ。お前がどうするかは、お前が決めていい」
――そんなこと、今までなかった。
命令は絶対だと、そう教え込まれてきた。
私に選択の余地がある命令なんて、考えたこともなかった。
既に私の心は深い……深い深淵の中に落ちていった。
でも……もし、失くしたはずのその心を取り戻せる可能性があるのなら私は――私は――
「友……達。友達になりましょう」
「喜んで!」
そう言ってテンセイ様はまっすぐに手を差し出してきた。テンセイ様のその笑顔は、まるで太陽みたいにまぶしい、けれど太陽と違いずっと見ていられる優しい笑顔。
――あぁ……なんて温かいのだろう。
それは、初めて私の中で未知の感情が生まれた瞬間だった。
氷に閉ざされ凍りついた「私」がそっと溶けていく。
永遠の氷の中に閉じ込められていたはずの私の心が、温かさに包まれ、ゆっくりと解放されていくのを感じた。
テンセイ様は私の人生を取り戻させてくれた。
だからテンセイ様の人生を……命を、何があっても守り抜くと、そう心に誓った。
――これは命令では無い、私が選択した答えです!
ハッシュはカインの喉仏めがけて最高速度で六角を刺しにいく。
(防ぐのは不可能!この傷は深い、こいつは放っておいても時期死ぬ。ここはリスタートを使って回避する!)
「十秒――ッガ!」
カインの発声が止まる。
なんとハッシュは自分の左手をカインの口に突っ込み時間の発声を止めたのだ。
(――まずい!これでは……)
「グガッ……」
喉仏に六角が深々と刺さる、それは貫通する程の威力だった。
普通の人間はこれで死ぬのだろうが、カインはハッシュを蹴り飛ばし距離をとる。
ハッシュは転がりながらも受身を取り、鳩尾の傷を右手で押えながら立ち上がる。
「ヒュー……ヒュー……」
カインの喉から空気が抜け、呼吸に合わせて音が鳴る。
「やはり……その能力は戻る時間を口にしないと使えないようですね……。どうしますか、お互い……死ぬのも時間の問題……ですが」
ハッシュはもう限界が近い、喋る事さえままならないのだ。
ハッシュの言葉を聞き、カインは絶望の表情を見せるかと思いきや無表情のままおもむろに胸についている内ポケットへと手を伸ばす。
――ザッ……ザー
カインの胸あたりから機械音のようなものが響き渡る。
それと同時、カインの表情が喜悦に染り、口角が上がる。
――ザッザザ……一時間前
カインの声がした、それは実際に言っている訳では無い、そう録音機に事前に録音した音声だった。
(ケケッ!万が一のために常に持ち歩いてんだよ、じゃあなメイド!)
カインの姿が戦場となった裏路地から消え去る。
瀕死のハッシュは一人、血の滴る戦場に取り残される。
だがその状況にハッシュは薄ら笑いを浮かべ、ボソッとこう呟く。
「あとは頼みましたよ……。私はテンセイ様の元へ……戻らなければ……」
腹部を押さえたハッシュの手はじっとりとした温もりで濡れていて指の隙間から血が溢れ出し、地面にぽたぽたと落ちていく。
歯を食いしばりながら足を引きずるように前へ進む。
「テンセイ様、今すぐ戻りま――」
――パンッ!
……重い金属的な衝撃音が冷たい風が吹き抜ける薄暗い裏路地に鳴り響く。




