安らかな寝顔
オーレリアの元婚約者だったトラヴィスによる突然の訪問以降は、エリーゼル侯爵家には平穏な日々が戻ってきていた。
日に日に強さを増していく陽射しが窓越しに照り付けるのを感じながら、オーレリアはギルバートの部屋で、ベッドの縁に腰掛けた彼の膝をゆっくりと持ち上げ、曲げたり伸ばしたりしていた。
「足に痛みはありませんか、ギルバート様?」
「ああ、大丈夫だ。それに、足にも感覚が戻って、力が入るようになってきたように感じるし、関節の可動域も広がってきたような気がするよ。……少し、試してみたいことがあるのだが」
そう言うと、ギルバートは片足ずつ試すように持ち上げてから、ベッドの縁に手をついて腰を浮かせた。
「……!」
立ち上がりかけてよろめいた彼を、オーレリアは慌てて支えた。彼女はそのままギルバートに肩を貸しながら、嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ギルバート様! ご自分の足で立てましたね……!」
まだ完全には力が入らない様子で、バランスを取るのにも苦心している様子が見受けられたものの、どうにか身体を起こしたギルバートも明るい顔をしていた。
「ありがとう、オーレリア。そのうちに自分の足で歩けるようになるのではないかと、そんな期待も膨らんでくるよ」
「ふふ。近いうちに、きっとそうなりますわ。ギルバート様のお身体の回復には、目覚ましいものがありますから」
オーレリアはにっこりと笑った。
(最近、ギルバート様のお身体は、加速度的に良くなっていらっしゃるもの)
それは、オーレリアがギルバートに魔法を掛ける時に覚える感覚とも、どこか比例しているように思われた。彼女がギルバートに魔法を掛ける時に感じる手応えは、どんどんと確かなものになってきていた。
オーレリアは、ギルバートと過ごしながら、できる限り彼の身体の使い方を把握しようと努めていた。魔物との戦闘時のように劇的な動きをする場合とは異なり、生活に必要なささやかな身体の動かし方ではあったけれど、彼の利き腕の使い方や身体の捻り方といった小さなことでも、観察すればするほど、彼女には感覚的に彼の身体のことがわかるようになるような気がしていた。ずっと以前に一度だけ見た、人並み外れた魔剣を振るう彼の様子も併せて思い起こしながら、オーレリアはできる限りの意識を彼の身体に向けていた。
ギルバートに肩を貸したまま、オーレリアは彼に尋ねた。
「……このまま、少し歩いてみますか?」
彼は微笑んで頷いた。
「ああ。しばらく君の肩を借りていても?」
「ええ、もちろんです」
ギルバートは慎重に、一歩一歩ゆっくりと足を進めた。
まだ覚束ない足取りではあったけれど、オーレリアの肩にそれほど体重を乗せることもなく、上手く平衡感覚を掴んできているように彼女には感じられた。
(きっと、身体の使い方のセンスが元々良くていらっしゃるからだわ。後は、身体を支える足の筋肉が回復して、関節がもう少しスムーズに動けば……)
彼の両足の動きを見ながら、オーレリアは思わず魔法を唱えていた。ギルバートが腕を回しているオーレリアの肩から、淡く白い光が彼の身体を包み込んだ。特に、彼の両足の部分が強く発光しているのを見て、ギルバートは瞳を瞬いた。
「これは……」
次に踏み出した彼の一歩が力強く床を踏んだのを見て、オーレリアは胸が弾むのを感じた。その次の彼の一歩も、またしっかりと床を捉えていた。
ギルバート自身も驚いた様子で、そのまま流れるように足を進めていった。部屋を一周してベッドの前までくると、彼はオーレリアの肩を借りたまま、二人でベッドにぼふりと倒れ込んだ。
ふかふかとしたベッドに身体が沈むのを感じながら、オーレリアはギルバートに向かって輝くような笑みを浮かべた。
「素晴らしいですね、ギルバート様……!」
ギルバートは感動を隠し切れずにオーレリアを見つめた。見つめ合った二人は、ベッドの上でくすくすと一緒になって笑い出した。
「……信じられないな。俺の身体に、君の魔法はいとも簡単に奇跡を起こしてくれるね。何が起きているのか、まだ自分でもよくはわからないが、またこんな風に歩けるようになるなんて……」
「それは、ギルバート様が、ご自身の身体の扱い方がお上手だからだと思います。きっと、他の方なら、歩けるようになるまでにずっと時間がかかったことでしょう」
「いや。君は凄いよ、オーレリア。君の才能は、天才という言葉でも表し切れないな」
ギルバートはオーレリアの身体を優しく抱き寄せた。
(……!)
柔らかなベッドの上に横たわったまま、ギルバートの温かな腕に包まれて、オーレリアの胸はどきどきと高鳴っていた。
サファイアのような碧眼に、女神でも仰ぎ見るかのような光を浮かべてオーレリアを見つめるギルバートの姿に、彼女はかあっと頬に血を上らせていた。
オーレリアはどぎまぎとしながら口を開いた。
「あ、あの、ギルバート様。きっとお疲れのことでしょう。エルダーフラワーのシロップも作ってありますし、炭酸で割った冷たいお飲み物でもお持ちしますので……」
身体を起こそうとしたオーレリアを、ギルバートが引き留めるように抱き締めた。
「いや、飲み物よりも、もう少し君とここでこうしていたいな。……君は嫌かい?」
ますます顔を赤くしながら、オーレリアはぶんぶんと首を横に振った。
「いえ! そんなことは……」
どこか楽しそうな笑みを浮かべたギルバートは、自分の額をこつりとオーレリアの額に合わせた。
「ありがとう、オーレリア。あまりに君が可愛いから、放してしまうのが惜しくて」
間近に目を瞠るような美貌が迫り、オーレリアはくらくらと目が回りそうだった。
愛しげにオーレリアを見つめたギルバートの唇が、そのまま彼女の唇に重ねられた。
(……!)
幾度か短いキスが繰り返され、それから長く口付けられて、オーレリアは身体が蕩けてしまいそうになっていた。
(ギルバート様って、こんなに甘い表情をする方だったかしら……!?)
身体中から力が抜けていくのを感じながら、オーレリアは彼の腕に身を任せていた。
***
ギルバートの部屋に軽快なノックの音が響いた。
「ただいま、兄う……えええっ!?」
兄の部屋の扉を開けたフィルは、彼の目の前でベッドから下り、ゆっくりと立ち上がったギルバートを見て、目を丸く見開いていた。
「兄上、立つこともできるようになったんだね……」
フィルに微笑んだギルバートは頷くと、静かにというように唇に人差し指を当て、ベッドの上に視線を移した。
ベッドの上では、身体を横たえたオーレリアがすうすうと穏やかな寝息を立てていた。
ベッドの側まで近付いたフィルは、眠っているオーレリアを見つめると、小声でギルバートに囁いた。
「よく眠ってるみたいだね」
「ああ」
頷いたギルバートは、彼女を起こさないよう、抑えた声で続けた。
「オーレリアはさっきも俺の足に魔法を掛けてくれたし、このエリーゼル侯爵家に来てからというもの、ずっと甲斐甲斐しく力を尽くしてくれていたから、きっと疲れも出たのだろう。彼女は、いつも自分のことは後回しにして、俺のことを優先してくれるのだが、せめて少しは休んで欲しいと思っているんだ」
「うん、僕も兄上と同感だよ」
微笑み合ったギルバートとフィルは、並んでオーレリアの無垢な寝顔を眺めていた。
「……何だか、こうして寝ているところは、少しだけ幼く見えるね」
くすっと小さく笑ったフィルに、ギルバートも笑みを返した。
「そうだな。穢れのない優しい天使が側で眠っているような、そんな気がしていたよ」
自分の腕の中で、いつの間にかうとうとと眠ってしまったオーレリアのことを、ギルバートは溢れるほどの愛しさを感じながら見つめていたのだった。
明るい陽射しが満ちる部屋の中、二人は温かな瞳で、安らかなオーレリアの寝顔を見守っていた。




