特別な力
「ただいま!」
王立学校から帰って来たフィルの声が廊下に響いた。オーレリアはぱたぱたとキッチンから走り出ると、彼に向かって微笑んだ。
「お帰りなさい、フィル」
フィルはエプロン姿のオーレリアをしげしげと眺めた。
「オーレリア、最近はよくキッチンにいるね。でも、無理する必要はないんだからね?」
気遣わしげにオーレリアを見つめたフィルに対して、彼女は首を横に振った。
「私が好きでやっているだけだから、何も問題はないわ。それに、せっかく時間があるから、ギルバート様に何を作ろうかと考えるのも楽しくて」
「そっか、それならよかった。兄上も、オーレリアの料理の腕を褒めちぎってたよ」
ほっとしたように笑ったフィルは、彼女に尋ねた。
「今は何を作ってたの?」
「さっきババロアを作って冷やしておいたから、それに添えるソースを作っていたの。ちょうどできたところだから、よかったらお茶にしましょうか?」
「うん! ありがとう。楽しみだな」
大きな碧眼を輝かせた彼は、嬉しそうに頷いた。
「制服を着替えたら、ダイニングルームに向かうね」
「ええ。準備をしておくわね」
小走りに部屋に戻って行く彼の背中を見つめて、オーレリアは温かな笑みを浮かべた。
***
ダイニングルームの扉を開けたフィルは、目を丸く見開いた。
「……兄上!」
ババロアとティーカップが並べられたテーブルに、車椅子に乗った兄のギルバートがついているのを見て、フィルは驚きのあまり、しばし言葉を失っていた。
ギルバートは、フィルを振り向いてにっこりと笑った。はっと我に返ったフィルは、兄の元に駆け寄るとそのまま彼に抱き着いた。
「いつの間に、また車椅子に乗れるようになったの? 身体は大丈夫?」
「ああ、すごく調子がいいよ。これも全部、オーレリアのお蔭なんだ」
彼は、ガラスのティーポットからカップにお茶を注いでいるオーレリアを、感謝を込めて見つめた。
「オーレリアは、いつも俺に細やかな気配りをしてくれる。ここ最近は、しばらく寝たきりで動きづらくなっていた俺の膝や足首の曲げ伸ばしを手伝ってくれたり、マッサージをしたりもしてくれているんだ。何てお礼を言えばいいのかわからないよ」
ギルバートの言葉に、オーレリアは遠慮がちに微笑んだ。
「微力ながら、私にもお手伝いできそうなことをしているだけですから。それに、ギルバート様が回復なさっていく様子を側で見られることが、何よりのご褒美です」
ことりとポットをテーブルに置いたオーレリアに向かって、ギルバートは愛しげに手を伸ばすと、彼女を抱き寄せて頬に軽く口付けた。
たちまち顔中を赤く染めて、口付けられた頬に手を当てたオーレリアを見て、フィルはくすりと笑みを零した。
「仲が良くって何より。……オーレリア、僕からもお礼を言わせて。兄さんに嫁いで来てくれて、本当にありがとう。こんな風に、また兄さんともお茶のテーブルを囲めるなんて。オーレリアが前に、僕に言ってくれた通りになったね」
ギルバートは椅子に座っているのではなく、まだ車椅子に乗ってはいたけれど、その表情がすっかり明るさを取り戻していることが、フィルには嬉しくて堪らなかった。
「オーレリアが来てくれてから、まだ一月経っていないよね? あなたはこんなに短期間のうちに、重苦しい空気が漂っていたこのエリーゼル侯爵家をすっかり変えて、新しい希望の風を吹き込んでくれたね」
しみじみとそう言ったフィルに、オーレリアはにこやかに笑った。
「フィルが私をギルバート様の元に連れて来てくれたことに、私もお礼を言いたいと思っていたの。ギルバート様も皆もとても優しくて、これほど幸せな時間を過ごせることに感謝しているわ」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ」
椅子に腰を下ろしたフィルは、ギルバートの手元のカップに注がれた薄黄色の液体を見つめた。
「兄上の、そのカップに入っているのは何? 甘くていい香りがするね」
鼻をひくひくとさせたフィルに、オーレリアは頷いた。
「これは、庭に生えているエルダーフラワーで作ったハーブティーなの。最近よくギルバート様が飲んでいらっしゃるのだけれど、フィルも飲んでみる?」
「うん!」
フィルの前にあるカップにもハーブティーを注いだオーレリアは、テーブルを囲む椅子に腰掛けた。
「このババロアも美味しそうだね」
「ふふ。そうだといいのだけれど」
早速スプーンを手に取って、ブルーベリーのソースがかかったババロアを口に運んだフィルは、きらきらと目を輝かせた。
「美味しい……!」
彼の横で、ギルバートも口元を綻ばせていた。
「とても美味しいよ。それに、このハーブティーも、爽やかな香りが気に入っているんだ」
カップを傾けたフィルも、兄の言葉に頷いた。
「本当だ。ほんのり甘くて爽やかで、飲みやすいね」
オーレリアはにこにこと目の前の二人を見つめた。
「それはよかったです」
ギルバートとフィルの楽しげな様子に、オーレリアも心の温まる思いだった。
(フィルも、今まで辛い思いを一人で抱えていたのでしょうね。こんなに明るい笑顔が見られて、嬉しいわ。ギルバート様も、最近ますます順調に回復なさっているし、本当によかったわ)
エルダーフラワーには、「苦しみを癒す」という花言葉がある。屋敷の庭でこの花に気付いた時から、オーレリアは、ギルバートの苦しみが少しでも癒えるようにとの願いを込めて、庭師にこの花を分けてもらっていたのだった。
フィルは、スプーンを口に運んでいた手を止めると、オーレリアをじっと見つめた。
「……兄上がオーレリアを忘れられずにいたことが、僕にもよくわかるな。あなたといると、心を照らすような光が、僕にまで見えるような気がするよ」
「えっ?」
光が見えるとは何かの例えなのだろうかと、不思議そうに瞳を瞬いたオーレリアに向かって、フィルは笑い掛けた。
「ねえ、オーレリア。僕たち三人は、きっと皆同じだよ。種類は違うけれど、それぞれ他の人とは違う、特別なものを持っている」
「特別なもの……?」
(フィルとギルバート様は、二人とも優れた才能に恵まれているけれど、私は違うわ。どういう意味なのかしら)
首を傾げたオーレリアに、ギルバートが優しく微笑んだ。
「オーレリア。君にはまだ自覚がないようだが、君の力は他に類を見ないものだと思う。心の美しい君だからこそ授けられた才能なのだろうな」
「私の力、ですか。私には、特に人と比べて褒められるような能力はないような気がしますが……」
戸惑うオーレリアを前にして、ギルバートとフィルは顔を見合わせた。
「謙虚な君らしいな。いずれわかってくると思うよ」
「僕もそう思う。とにかく、僕たちがオーレリアに凄く感謝しているっていうことだけは覚えておいてね?」
「……はい、ありがとうございます」
二人の言葉が意味するところは、まだオーレリアには呑み込めてはいなかった。けれど、それまで心許なく思っていた自分の存在が、エリーゼル侯爵家では歓迎されているということは確かに感じられた。ダイニングルームの大きな窓から差し込む温かな午後の陽射しの中で、オーレリアは胸の中までじんわりと温まるような思いだった。
ギルバートは、窓の外に視線を移した。
「今日もいい天気だな。ここからは、庭の様子がよく見えるね」
オーレリアは、瞳を細めた彼に笑い掛けた。
「鮮やかな花々が美しいですよね。もしお疲れでなかったら、後で庭に出てみましょうか?」
「ああ、久し振りに庭に出てみたいな。だが、君の負担にならないだろうか」
「ふふ。車椅子を押すくらいの力はありますから、そんなことはまったくお気になさらないでください」
フィルが二人を見てにっこりと笑った。
「今日は兄上の車椅子を僕に押させて! ねえ、いいでしょう?」
「じゃあお願いするよ、フィル。ありがとう」
ギルバートの身体に目に見える回復を改めて感じて、オーレリアは感慨深げに微笑んだ。




