結婚指輪
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オーレリアがエリーゼル侯爵家に来てから、半月ほどが経っていた。オーレリアが慣れた様子でギルバートの部屋の扉をノックすると、部屋の中からギルバートの明るい声が返って来た。
「失礼します」
部屋のドアを開けたオーレリアの腕には、可憐な花々が覗く花瓶が抱えられていた。
ギルバートのベッドに近いテーブルの上に、オーレリアは花瓶をそっと置いた。ふわりと漂った甘い花の香りに、ギルバートは瞳を細めた。
「良い香りだね。部屋の中も、一気に明るくなったようだ」
花瓶には、ピンク色の薔薇と、白くふわふわとした小さな花が飾られていた。オーレリアはギルバートを見つめて微笑んだ。
「ちょうど庭に綺麗に咲いていたので、庭師の方にお願いして、何本かいただいてきたのです」
「そうか。わざわざありがとう」
上半身を起こそうとギルバートが身体を動かしたことを感じて、オーレリアは手を貸そうと彼の側に近付いた。彼は笑顔でオーレリアを見上げた。
「君が来てくれてから、身体の内側から少しずつ新しい力が湧き出してくるようなんだ。もう、君の手を借りなくても、身体を起こすくらいならできるようになったよ」
ベッドに手をついて、ゆっくりとした動きではあるものの、しっかりと上半身を起こしたギルバートを見て、オーレリアは信じられないような思いで瞳を潤ませた。
(少し前、この家でお会いしたばかりの時には、あれほどお辛そうなご様子だったのに……)
死を待つばかりだと思われていた彼を看取りに来て欲しいと、フィルに頼まれた時のことが、オーレリアにはずっと昔のことのように感じられていた。
(ギルバート様は、このところ毎日顔色も良いし、何より明るい瞳をしていらっしゃると思ってはいたけれど。お身体までこれほどの回復が見られるなんて、神様に何て感謝したらいいのかしら)
オーレリアは顔いっぱいに笑みを浮かべると、彼を見つめた。
「素晴らしいですね。ギルバート様のお身体の具合が日に日に良くなっていらっしゃるようで、本当に嬉しいです」
ギルバートは愛しげにオーレリアを見つめ返した。
「君が俺に奇跡を起こしてくれたんだ。……少し前までは、俺自身も、自分の身体がまた動くようになる日が来るとは想像してもいなかった。だが、今は、未来に対しても希望が膨らんでいるよ」
輝くような笑みを浮かべたギルバートが、オーレリアに向かって両腕を伸ばしたのを見て、彼女は勢いよく彼の腕の中に飛び込んだ。
「よかった……」
そう呟いたオーレリアの頬には、ほんのりと熱が上っていた。ギルバートに回された腕の温かさを感じながら、彼女の胸は幸せな気持ちで満たされていた。
その時、部屋のドアをノックする音が二人の耳に届いた。
「はい、どうぞ」
返事をしながら、慌ててギルバートの腕の中から飛び退いたオーレリアの目に、開いたドアの陰から覗くアルフレッドの姿が映った。オーレリアの火照った顔を見て、微笑ましげに瞳を細めたアルフレッドは、一礼をしてから部屋の中に進むと、ギルバートに小さな包みを手渡した。
「旦那様、先程ようやくこちらが届きました」
「ああ、ありがとう」
包みの中身をわかっている様子の二人のやり取りを、オーレリアは不思議そうに聞いていた。彼女に向かって温かな笑みを浮かべてから、アルフレッドは再び一礼すると部屋を辞した。
ギルバートは、改まった様子でオーレリアを見上げた。
「少し遅くなってしまったが、君に受け取って欲しいものがあるんだ」
「はい、何でしょうか?」
ギルバートが包みを解くと、その中から紺色のビロードの小箱が現れた。彼は、その小箱の蓋をそっと持ち上げた。何が入っているのだろうと、ギルバートの手元を覗き込んだオーレリアに向かって、彼はくるりと箱を回転させて中身を示した。
(わあっ……)
小箱の中には、一対のシンプルな金の指輪が入っていた。ギルバートは穏やかに笑った。
「見ての通り、俺たちの結婚指輪だ。君が来てくれてから、それまで痩せ細っていた俺の指のサイズが変わったこともあって、準備に時間を要してしまったんだ。待たせてしまって、悪かった」
オーレリアは笑顔で首を横に振った。
「それは、ギルバート様が健康を取り戻していらっしゃるということですもの。むしろ喜ばしいですわ」
ギルバートは、小さな方の指輪を手に取ってからオーレリアを見つめた。
「この指輪を、君の左手に嵌めさせてもらっても?」
「はい……!」
喜びがひたひたと胸に満ちるのを感じながら、オーレリアは左手を彼に差し出した。彼女の手を取ったギルバートは、その薬指に結婚指輪をすっと嵌めた。
ぴったりと左手薬指に嵌った結婚指輪を、感動の面持ちでしばらく眺めていたオーレリアは、小箱の中にあるもう一つの結婚指輪に視線を移した。
「こちらの指輪は、私からギルバート様の指に嵌めさせていただいてもよろしいですか?」
「ああ、ありがとう」
彼から差し出された白く形のよい左手を取ると、その薬指に、オーレリアは丁寧に結婚指輪を嵌めた。嬉しそうに口元を綻ばせたギルバートは、再びオーレリアを見つめた。
「君が嫁いで来てくれたというのに、俺は夫らしいことは何もしてやれずに、すまないな。書面の上で籍を入れただけで、すっかり君に甘えているというのが正直なところだ。……だが、君を想う気持ちは誰にも負けないつもりだよ」
彼女の左手を取って口付けると、ギルバートは続けた。
「君がフィルに頼まれて、俺の最期の時間を共に過ごすために来てくれたことは理解している。だが、今では、俺は君と歩む未来を夢見ているんだ。これからも、ずっと俺の側にいてくれるかい?」
「はい」
即答したオーレリアは、花が綻ぶように笑った。
「まだ私はギルバート様のお側に来たばかりですが、これほど幸せで穏やかな日々は、今までの人生で初めてです。ギルバート様のお側に置いていただけるなら、私はほかに何もいりません。それに、ギルバート様は必ず、これからもっとお元気になりますから」
包み込むようなギルバートの愛情を日々感じて、オーレリアはトラヴィスによって傷付けられた心を癒されるのと同時に、すっかり彼に心惹かれていた。そして、ギルバートに必要とされること自体にも喜びを感じていた。彼が少しずつ回復していくことが、オーレリアにとっては自分のこと以上に嬉しかった。
何の躊躇いもなく首を縦に振った彼女に、ギルバートも笑みを返した。
「大切にするよ、オーレリア」
サファイアのような深い青色の瞳でギルバートに見つめられ、オーレリアの胸は大きく跳ねた。
(何てお綺麗なのかしら……)
ギルバートは、オーレリアがエリーゼル侯爵家に来たばかりの頃も美しかったけれど、彼女が来てからというもの、日を追う毎に、さらに輝くばかりの美貌を取り戻しつつあった。
眩暈がするほど美しいギルバートに至近距離から見つめられて、かあっと頬を染めていたオーレリアの顎に、そっと彼の手が伸ばされた。
ギルバートの顔がゆっくりと近付き、彼の唇がオーレリアの唇に優しく重ねられた。
(……!)
初めて彼に唇に口付けられて、オーレリアは息が止まりそうになっていた。
柔らかなギルバートの唇の感触に、彼の唇が離れてからも、その余韻に胸を大きく跳ねさせていたオーレリアは、真っ赤になったまま彼に向かって微笑んだ。
「お慕いしております、ギルバート様」
ギルバートは彼女の身体をきつく抱き締めた。時が経つにつれてしっかりと力強くなる彼の腕の感触が、オーレリアには頼もしく感じられた。
そして、ギルバートと自分の左手薬指に輝いている揃いの結婚指輪からは、彼と夫婦になったことが確かに感じられて、オーレリアはくすぐったいような喜びを感じていた。
ギルバートの温かな腕の中から、彼女は彼を見上げた。
「……もしも、ギルバート様のお身体に障らないようならですが。もう少し様子を見てから、車椅子で庭に出てみませんか? 初夏の花々があちこちに咲き誇っていて、とても綺麗なのです」
オーレリアがエリーゼル侯爵家に来たばかりの時、ギルバートは長いこと車椅子すら使えずにいると、フィルがそう嘆いていたのを彼女は耳にしていた。次第に回復していくギルバートを見ていると、彼なら車椅子も遠からず使えるような気がオーレリアにはしていた。
「それはいい考えだな。体調はもう大分上向いているから、じきに車椅子も問題なく使えるようになりそうだ。庭に出るのも楽しみだよ」
オーレリアが置いた花瓶に飾られている、屋敷の庭で咲いていた花を眺めて、ギルバートは明るい表情で笑った。彼女も彼につられるように微笑んだ。
「ご無理だけはなさらないでいただきたいのですが、私も楽しみです。……ところで、薔薇と一緒に花瓶に飾っている、白くて小さな花が見えますか?」
「ああ、愛らしい花だな。この花も、薔薇とはまた違った甘い香りがするようだね」
香りを確かめるように大きく息を吸い込んだギルバートに、オーレリアは頷いた。
「それはエルダーフラワーという花で、見た目も可愛らしいのですが、実は薬効のあるハーブなのです。癖もなくて飲みやすいので、今度庭師からいただいたら、ハーブティーにしてお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、ありがとう。是非飲んでみたいよ。……君は、いつも俺の未来に光を与えて、明るく照らしてくれるね」
つい先日までは、自分を待ち受けている未来にすっかり希望を失くしていた彼は、眩しそうにオーレリアを見つめた。
オーレリアはギルバートを見つめ返すと、はにかむように笑った。
(……ギルバート様がなぜ私のことを望んでくださったのかも、いつか教えてくださるかしら)
再び抱き寄せられた彼の腕の中で、オーレリアは幸せな気持ちに浸りながら、ふとそんなことを考えていた。




