握り締めた拳
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トラヴィスを含む魔物討伐隊は、岩に覆われてごつごつとした山の中腹を登っていた。時折現れる小型の魔物たちを薙ぎ払いながら、隊は順調に前進を続けていた。トラヴィスが魔剣を振るった先で、兎にも似た姿をしたカーバンクルが悲鳴を上げて倒れた。
(このくらいなら、何も問題はないな……)
魔剣の手応えを確認していたトラヴィスは、岩の上で痙攣しているカーバンクルを見つめた。
(昨日の違和感や、今朝体調が優れないように感じたことは、俺の思い過ごしだったのだろうか。まあ、魔剣士が治癒師と初めてパートナーを組む時は、治癒師の力に身体が馴染むまで、多少の時間を要するとも言うからな。特に気にする必要はなかったのかもしれない)
小さく安堵の息を吐いた彼は、彼の後ろで山を登っているブリジットの姿をちらりと振り返った。
(彼女の方が、オーレリアよりもずっと魔力が高いことは確かなんだ。これから彼女が俺と組むことに慣れてくれば、俺はきっと、今まで以上に強くなれるはずだ)
トラヴィスの視線に気付いたブリジットが、にっこりと美しい笑みを彼に向けた。表情を緩めた彼は、再び進行方向に視線を戻した。
「いたぞ、トロールだ!」
トラヴィスの少し前にいた騎士から、そう叫ぶ声が聞こえた。トラヴィスの視界の先には、褐色の毛に覆われた巨体が、まだ遠くに小さく映っていた。トロールは、ゆっくりとした動きで山腹の岩の間を移動しているところだった。
この日、魔物討伐隊を先頭で率いていたのは、国王の甥に当たる騎士だった。彼は隊のメンバーを振り返った。
「この山の麓では、数体のトロールの目撃情報があった。あの一体のほかにも、恐らくこの付近に何体かは潜んでいるはずだ。さほど多くはないだろうが、気を引き締めて臨んでくれ」
他の騎士たちと共に、トラヴィスは彼の言葉に頷いた。先日の祝勝会でも、トラヴィスは彼から、今後も期待していると声を掛けられていた。
できればここで彼に良いところを見せておきたいと、そうトラヴィスは考えていた。
(ここで俺が目立った活躍をすることができれば、彼の覚えもさらにめでたくなるだろう。トロールなら、今までにも何度か対峙しているし、かなりの巨体だって仕留めている。俺なら造作なく倒せるはずだ)
彼は魔剣を握り直した。
(トロールは狂暴で力は強いが、たいした知性は持っていないからな。あの怪力と自己再生能力は、まとめてかかって来られたら厄介だが、一匹ずつ囲い込んで倒せば、たいしたことはないだろう)
トラヴィスは辺りを見回した。さっき視界に捉えたトロールのほかに、さらにずっと大型の個体が一体、彼の視界の端に映った。
(どうせ倒すなら、最も強い個体がいい)
過去の魔物討伐と同じ調子でそう考えたトラヴィスは、最大のトロールに狙いを定めていた。
岩陰から、他にも二、三体の中型のトロールがのろのろとした動きで姿を現した。ようやく隊に気付いた様子のトロールたちは、何事かといった様子で彼らの方を振り向いた。
「いくぞ! 手分けしてかかれ!」
隊長の号令に、騎士たちはそれぞれトロールに向かって走り出した。前衛部隊の彼らの後に、少しだけ距離を置いてから治癒師たちも続いた。
トラヴィスは風を切るように全力で走ると、まだ驚き戸惑っている様子のトロールに向かって、高く跳躍して斬りかかった。
心臓を狙ったトラヴィスだったけれど、慌てて逃げようと身体を捻ったトロールの動きは、その巨体の割には意外にも素早く、彼の魔剣は空を切った。
(くそっ)
彼のほかにも、数人の隊の騎士や魔剣士たちが同じトロールに向かって駆けて来ていた。次第に近付いて来る彼らの姿を見て、トラヴィスは小さく唇を噛んだ。
(……これは、俺の獲物だ)
トロールの行く手を遮った騎士の姿を認めて、逃げようと走り出していたトロールは速度を緩めると、狼狽えてきょろきょろと辺りを見回した。すかさず、再びトラヴィスはトロールに向かって跳躍すると魔剣を振り上げた。
(今度こそ、俺が仕留める)
おろおろとしているトロールの背中側から心臓を目掛けて、トラヴィスは思い切り魔剣を突き立てた。
トロールの血飛沫が舞い、その絶叫が辺りにこだました。
確かな手応えと、深くトロールの身体に沈んだ剣に、トラヴィスは身体中の血が沸き立つのを感じていた。
(これで、俺の勝ちだ)
にやりと口元に笑みを浮かべたトラヴィスだったけれど、トロールは倒れることもなくその場に立ち尽くしていた。
(……?)
崩れ落ちないトロールにトラヴィスが困惑していると、トロールはぐるりとその首だけを後ろに向けた。その怒りを滾らせた金色の瞳を見て、彼はさあっと全身から血の気が引くのを感じた。
(まさか、そんなはずは)
魔剣をトロールの身体から引き抜こうとしたトラヴィスだったけれど、いくら力を込めても抜けなかった。さらに奥まで突き刺そうとしても、抜こうとしてもぴくりとも動かない魔剣に、トラヴィスの頭は真っ白になっていた。
「トラヴィス、逃げろ!」
味方の騎士の声に、トラヴィスがはっと我に返った時には、彼はぶるりと身体を揺すったトロールから地面に振り落とされて、その巨大な拳が目の前に迫っていた。
振り下ろされるトロールの腕に味方の騎士が投げた剣が刺さり、その軌道が逸れた。けれど、トロールの強力な一撃はトラヴィスの脇腹を掠め、彼の身体は大きく吹き飛んだ。
「ぐっ……」
衝撃に身体を震わせながら地面に這いつくばったトラヴィスは、必死になって顔を上げて周囲を見回すと、やや離れた場所に立っている顔面蒼白のブリジットを視界に捉えた。トラヴィスと目が合った彼女は、慌てて彼に向かって治癒魔法を唱えた。
ダメージを受けてから一呼吸遅れて治癒魔法を掛けたブリジットを、霞んでいく視界にぼんやりと映していた彼の耳に、切羽詰まった仲間の声が届いた。
「トラヴィス!」
トロールを囲む他の騎士たちには目もくれず、怒り狂ったトロールはトラヴィスにとどめを刺そうと追い掛けて来ていた。
仲間の声に上半身を起こしたトラヴィスに向かって、今度はその頭を目掛けてトロールが拳を振り上げた時、彼は恐怖に身を竦めて固まっていた。しかし、そのままトロールは動きを止めると、瞳の光を失ってどさりと横向きに倒れた。
「大丈夫か?」
仲間の魔剣士は、とどめを刺すためにトロールの首を刎ねてから、トラヴィスに向かって手を差し出した。
「……らしくないな。確かに強力なトロールだったが、お前なら涼しい顔で一撃ってところだろうに。調子でも悪いのか?」
「ああ、ちょっとな」
青い顔をしたトラヴィスの言葉に、納得したように彼は頷いた。
「それなら、無理はするな。死を覚悟した魔物ほど、恐ろしいものはいない。命を落としてからじゃ遅い、いったん下がってろ」
魔剣士はトロールの身体に刺さったままになっていたトラヴィスの魔剣を抜くと、彼に向かって放り投げた。
トラヴィスは無言で魔剣を受け取ると、駆け寄って来たブリジットに支えられるようにしながら、よろよろと後方に下がった。
(どうなっているんだ……?)
どうにか命拾いした彼は、心臓がばくばくと大きな音を立て続ける中で、必死に頭を巡らせていた。
(今まで、この状況でトロールが倒せなかったことは一度もない。どういうことだ? なかなか見ないような巨体ではあったが、突き刺す力が弱かったのか、スピードが足りなかったのか、刺す角度がまずかったのか……)
トロールは一撃で仕留めないと面倒なことになると、当然彼も知ってはいたけれど、これまで当たり前のようにほとんどの魔物を一撃で倒してきた彼にとっては、魔剣の一振りで難なく命を奪えるだろうと考えていた。
(それとも、オーレリアがいないからか……?)
考えたくなかった可能性に、彼は改めて思い至っていた。
今までは、トラヴィスが何も言わずとも、絶妙なタイミングで彼に合わせて癒してくれたオーレリアの顔が、再び彼の脳裏に浮かんだ。
(俺に捨てられてすぐに嫁いだという彼女は、いったい今、どうしているのだろうか)
治癒師としてのブリジットとの相性が、今後次第に改善していくことにも希望を捨て切れなかったトラヴィスだったけれど、これほど早く彼女を手放したことを悔やむことになるとはと、自らの不運を憂いて、ぎゅっとその拳を握り締めていた。




