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外伝・記憶(五)

記憶(五)


 部屋のチャイムの音で目が覚めた。

ソファに倒れていた体を起こすと、目の前のテーブルには、コーヒーポットとカップに注がれたコーヒーが、既に冷たくなって置かれていた。

あのまま、息苦しさの余り、気を失うように眠ってしまっていたのだ。

再びチャイムが鳴り、更に扉の叩く音がする。

ゆっくり立ち上がるとドアを開けた。

気だるげな表情の司が顔を出したので、透は一瞬戸惑った。しかも昨夜と同じ恰好だ。

「何?」

「あの、お客さん来てますけど、司さんに」

 客? いぶかしげな表情に透も困惑する。

確かにニューヨークへ来てまで来客などおかしな話だ。しかも、見たところアメリカ人の普通の中年の女性だったのだ。

「ロビーに待たせてますけど・・・ 確か、マリーさんとか言ってました。マリー・ゴードンさんって、ご存知ですか?」

『マリー』その名前を聞いた瞬間ハッと顔を上げた。

 元気にしていただろうか。

あの日を境に会ってはいない。 

世話になっておきながら、礼も言わず、突然ニューヨークから姿を消したのだ。

悪い事をしたと思ってはいたが、あの部屋に戻るつもりはなかった。

「マリー、・・・知ってるよ」

それだけ応えると、ロビーへ下りて行く。

 髪を切ったのか、それにしてもずいぶん太ったな。

思わず苦笑したが、面影は残っている。

一目見てそれが10年前、一年間共に過ごして来た使用人のマリーだと分かった。

「マリー、久しぶり」

「まぁ、お嬢様・・・」

言ったきり目を潤ませている。

そして肉付きのいい、そのふくよかな体がぎゅっと司の華奢な体を抱き締めた。

窒息しそうになって、思わずむせ返った。

マリーは慌てて体を離したが、司の両手を握ったまま離そうとしない。

「ごめんよ、心配かけたね」

マリーは言葉にならず、黙って首を横に振った。

それが、どれだけ心配をかけてしまったかが、痛い程に伝わってくる。

が、次のマリーの言葉に耳を疑うと息を呑んだ。

「あのお部屋はそのまま残っておりますよ」

「何で・・・、全部処分してくれって、言った筈だ・・・」

「でも、旦那様からあのままにしておくようにとの指示だったのです。それに、いつかお嬢様がいらした時に思い出せるようにと、おっしゃっていました」

 一瞬、マリーが、あの優しかったマリーが、全く知らない他人に見えた。

ふとその先から、異様な気配の視線を感じた。

 あいつだ。

冷ややかな微笑を浮かべた時に出来る両頬のえくぼ、Rに絶対的な服従を誓っているあの男。

あいつがマリーを此処に呼んだのだろう。

あの男の何かを挑発するような目を見ていると、先程のマリーの言葉が幻聴のように耳にこだまする。

何か得体の知れない糸に吸い寄せられるように、マリーを突き放すと、瞬間的に走り出していた。


 粉雪が舞う街角を、コートも羽織らず血相を変えて、全身黒ずくめの青年が走って行く。

すれ違う人々は一瞬振り返って、その後姿を目で追った。

とある高層マンションのエレベーターに飛び乗ると、壁に寄り掛かり、はぁはぁ、と肩で息をする。

一緒に乗っていた女性が、初めて見る住人に怪訝けげんな顔をした。

扉が閉まってもボタンを押さずにいるので、

「何階まで行くの?」

と声を掛けた。

 ハッと顔を上げると、最上階のボタンを押す。

女性はちらっと、俯いて肩で息をしている青年を見たが、エレベーターが止まったのでそのまま降りた。

扉が閉まり、再びエレベーターは上昇した。

扉が開き、外へ出ると廊下の一番奥まで足早に歩いた。

玄関の前まで来ると立ち止まり、ズボンのポケットに手を入れた。

いつの間にかその手に鍵が握られていた。

恐る恐る鍵を差込み回す。

カチャ と音がして鍵が開いた。

ドアのノブに手を掛け、ゆっくり回して扉を押し開けた。

ためらわず、一番奥の部屋へと入って行く。

 何も変わっていない・・・

茫然と部屋を見渡した。

 学習机 ・ 辞書や書籍の詰まった本棚 ・ サイドボードの上に乗ったステレオ ・ 白い布張りの一人掛の肘掛のロッキングチェア、 そして、白いシーツとカバーのかかったベッド。

何も変わっていなかった。

 ベッドを見た瞬間、底知れぬ恐怖に襲われ、気が遠くなりかけたが、思い切って布団をまくり上げ見ると、ホッと一息ついた。

洗濯された綺麗な真白なシーツだった。


「やはり来たな」

威圧的に響く声に一瞬ビクッとした司だったが、振り返ると、予想していたかのようにRが立っている。

「思い出したか?」

「何の事だ・・・」

Rから視線を逸らすと、何かの意志に操られるような感覚に陥って行く。

「お前がタランチュラであるという事をだ」

嘲笑あざわらうかのように司の背中を見つめる。

「分かりきった事を言うな。 指令は何だ」

早くこの場から立ち去りたい。 さっさと指令を受けてこの部屋から出たい。そう思っていた。

「いい心掛けだ。 が、今回はお前にてもらいたいものがあるそうだ。 例の大統領暗殺計画の件だが」

そこまで言うと、司の前を通り過ぎ、ロッキングチェアに腰掛けると肘を置いて両手を前で組んで司を見上げた。

「どうやらホワイトハウスにキーマンがいるらしいが、内密に事を片付けたいそうだ。 そこで依頼が来たのだが、そうそうのんびりもしていられなくなったという訳だ」

「ふん、そんな事、身内に訊いてもらえばいい事だ。 何もオレが出る事はな 」

見据えたような冷めた眼差しを投げ付けた。

「そこにいるんだろう、今教えてやるから出て来い、カーター」

すると、扉が開き一人のアメリカ人男性が入って来た。

グレーのスーツにサングラス、その雰囲気からただ者ではないことが見て取れる。

「わかったのか?」

カーターと呼ばれた男は、探るように司を見つめた。

「お前の末端の部下にキャロライン・パーカーという女がいるだろう」

その問いかけに、カーターは少し考えたが、思い出したように頷いた。

「確か彼女の姉はホワイトハウスの側近の秘書・・・ まさかっ!?」

カーターの顔色が変わる。

「ふんっ、後は身内でカタをつけろ。 オレはここまでだ 」

嘲笑ちょうしょうするかのような冷たい視線を浴びせると、一瞬Rを見る。

「ご苦労だった」

満足気に頷くのを確認し、部屋を出て行こうと、カーターの横を通り過ぎた時、何やら耳打ちすると、司はニッと口の端を上げて黙って出て行った。


 ******


 ホテルのロビーで呆然と入口を見ている透を見つけると、紀伊也は走り寄って肩を掴むとこちらを振り向かせた。

「透っ、司は!?」

「さっき、・・・、走って出て行っちゃいました」

入口を指差して応えた。

突然の事に何が起こったのか解らないのだ。

マリーという女性と久しぶりの再会を喜んだのも束の間、いきなり彼女を突き放すと、血相を変えて飛び出して行ってしまったのだ。

「透、ちょっと訊きたい事がある。確かホテルを手配したのは、お前だよな」

「え、ええ、そうですけど」

冷静だが威圧的とも取れる紀伊也の口調に、少したじろいでしまった。

「このホテルを選んだのはRの指示か?」

「・・・・」

思わず目を反らせた。それが答えなのだと紀伊也にはすぐ解った。

 -まったく・・・。

呆れたように溜息をついてしまった。

光月司として動いている時くらい、配慮して欲しいものだ。タランチュラと混同させて、万が一豹変してしまったら、どうする気なのだ。

それに、

「透、この後のスケジュールどうする気だ? 司は多分戻って来ないぞ。司抜きで撮影するのか?」

そのセリフに、思わずギョッとして紀伊也を見つめる。

そう言えば何も考えていなかった。Rから指令が出れば、そちらを優先させるに決まっている。しかし、司がいなければ、撮影は叶わない。

「どうしよう・・・」

透の呟きに、ほとほと呆れ果てると、黙って外へ出ようとした。司を探さなければならない。

「キイヤッ!?」

遠くで誰かの呼ぶ声が聴こえる。しかも聞き覚えのある声に、思わず振り向いた。

褐色がかったブロンドがストレートに肩まで揺れている。濃紺のタイトスカートのスーツをまとった女性が小走りに近寄って来たかと思えば、その両腕を広げて紀伊也の首に飛びついた。

「あっれまぁ、紀伊也のヤツ、いつの間にあんな美人と?!」

遠くでそれを見ていた晃一が目を丸くして、ナオと秀也を突付いた。二人とも珍しそうにその光景を見ていたが、秀也が晃一の袖を引っ張り、まだ見ていたそうにしているのを無理矢理連れて行った。

「キャロライン・・・どうして?!」

巻き付いていた腕を離させると、マジマジ顔を見つめる。

 彼女と別れてから3年が経つ。

学生の頃と違って見えるのはそのスーツのせいだろうか。だが、それだけではない気がした。何処かにしっかりとした意志があり、大人びている。

「仕事の打ち合わせでよくここを使うのよ」

 -そうか。 

そう言えば昨夜司が言っていたのを思い出す。

CIA、彼女はそこの捜査員だった。

「キイヤは?」

「ああ、撮影でね」

「そう、本当にミュージシャンなのね。ミュージシャンになるって聞いた時には、本当に冗談だと思ったけど・・・。 私はてっきり、ドクターか同業かって思っていたのに」

紀伊也は思わず苦笑した。

元々音楽が好きで、この世界に入った訳ではない。

司について行く。ただ、それだけだった。

確かに彼女の言う通り、医学についても学んだし、情報科学についても学んだ。ついでにMBAも取得したのだ。しかし、学んだからと言って、別にそれ専門の分野に就職しようと思っているわけではなかった。

自分にはやらねばならない事があったからだ。それは、自分にとっては絶対的存在だった。

 何故、司について行く事にしたのか、本当の理由はよく解らない。

ただ、高校生の時にバンドに誘われ、初めてステージに立った時のあの快感が今だに忘れられない。

あの時を境に、自分の中で何かが変わったのだ。

今までもそうだったが、更に司の傍にいなければならないという固定概念からおのれの意志へと変化して行った。

「君は変わっていないと言えば嘘になるな。綺麗になったよ」

目を細めて言う紀伊也の笑顔は、恐らく誰もが見た事もない表情だろう。

司にさえ見せた事がない。

「ありがとう。あなたは変わったわ。以前のように気難しくなくなったわね。輝いているわよ。でも、相変わらず近寄り難いのね」

悪戯っぽく笑うキャロラインが、懐かしく眩しい。

しかし、それを打ち消すかのように鋭い気配を感じて入り口に目をやる。

グレーのスーツにサングラスの男、カーターと目が合った時、紀伊也の眼球に一瞬鋭く冷酷な光が射した。

「キャロライン・パーカー」

近づくと彼は呼んだ。

ハッと振り返るキャロラインの顔付きが真剣になる。

「ボス・・・」

彼は紀伊也に「失礼」と言うと、彼女を促して奥へと入って行く。

扉の奥へ消える時、カーターは一瞬振り返り、軽く頷いた。

 -後で来いという事か・・・。

一瞬ためらったが、辺りにスタッフやメンバーの気配がない事を確認すると、後へと続いた。

扉を一つ開けて入ったところで、もう一つ奥の扉の向方から声が漏れる。

そして、紀伊也の耳にもう一つ別の声が聴こえて来た。





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