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第九章・Ⅰ波紋(三の3)

 ホテルへ急ぎ戻り、帰り支度をするよう二人に頼む。午後の便で、東京に戻らねばならない。

「すみません、あと1時間後に出発です」

二人は黙って部屋へ戻った。

1時間あれば充分だった。

 扉を閉じて鍵をかけると、サングラスを外して互いの顔を見る。目が合うと同時に服を脱ぎ捨て、そのままもつれながらベッドへ転がり込んだ。

秀也は先程司に挑発された事への腹いせに責め、司はただ秀也が欲しかった。

お互い、ただ欲するままに激しく求め合う。司のしなやかな肢体が秀也の上で仰け反ると、秀也はそれを組み伏せて激しく責める。もういいっ、そう感じた瞬間、二人は同時に果てていた。

そして、激しいせめぎ合いの果てに、二人は官能からめて行く。

不意に司は、淋しさにも似た虚脱感に襲われた。

その時、更に予想もしない事が司を襲った。

秀也は官能の余韻から醒めながら、優しいラベンダーの香りをふと感じると、いつものように耳元に口付けをしながら囁いた。

「可愛いな、お前は」

そして首筋にも口付けをする。


 え ・・・ ? 


言い慣れたセリフに戸惑った。しかも司には初めて聞くセリフだ。今の一度だって、そんな言葉を言ってくれた事などない。

 ちょっと、待って・・、誰に・・?

司は秀也を見たが、秀也は司を見てはいなかった。二人の視線が合わなかったのだ。

体を起こして司の体をでようとしたが、司はそのままするりとベッドから抜け出すとバスルームへ行き、シャワーを浴びた。

バスローブを羽織って出ると、秀也はタバコを吸いながらベッドに座っていた。

司はサイドテーブルにあったブランデーのビンを取ると、ビンごと口に付けて飲んだ。

「もうちょっとマシなもの飲めよ」

呆れて言う秀也の声が、遠くの方で聞こえる。

秀也がタバコを消して、バスルームへ消えると、急いで服に着替えた。

鏡の前に立ち、自分の姿を見る。

黒い麻のシャツに黒い皮のパンツ いつもと同じだ。

髪が濡れている事に気付き、慌ててタオルで拭いた。そして、いつものように髪を左右に振って手ぐしで梳かした。

自分の顔を見ようとしたが、何だか自分ではない気がして、目を逸らしてしまった。

 突然、自分が何処にいるのか分からなくなってしまった。

秀也が既に着替えを済ませてバスルームから出て来ると、ぼんやり窓の外を見ている司を見つけた。手にはタバコを持っていたが、火もつけずにいる。

「どうした?」

髪を拭きながら近づいて行く。

「ん? あ、ああ・・・」

秀也に気が付いて振り向いた司に少し驚いた。

とても物憂げな表情でこちらを見ている。まるで誘っているかのようだ。

「司・・・?」

少し心配になったが、顎を持ち上げると口付けをした。

冷やっとした薄い唇は今にも解けて消えてしまいそうだ。

司は目を閉じて、秀也の優しく温かく弾力のある口付けを確かめた。

 やっぱり秀也だ

安心したように目を開けると秀也はそこに居た。

部屋の電話が鳴り、スタッフにかされて、急いで荷物を持って下へ降りた。

二人の髪が湿っているのが、遅れた理由だった。 何かをした後には必ずと言っていい程、シャワーを浴びないと気が済まない司だと、チャーリー達から言われていた事を思い出す。 が、今の皆には、そんな事はどうでもよかった。

先程の二人が忘れられない。

特に、司の妖艶な視線と体の線が、余りにも衝撃過ぎた。

今もサングラスにかかる湿った前髪、ボタンを3つ外した襟元から覗く肌、袖を半分位まで折り曲げて、そこから出た細い腕、そして薄い唇に銜えられたタバコ、それら全てにそそられている。

秀也が隣に立ち、司のタバコに火をつける。それだけで更に司を妖しく光らせた。

秀也の日に焼けた浅黒くきたえられた厚い胸に抱かれた司を再現させた。 

悩殺のうさつさせましたね」

柏崎が皆の視線を一身に浴びた司の元に行き、満足そうに言った。

「ふんっ」

鼻で笑うとタバコを吸った。


 帰りの飛行機の中で、司はずっと先程の虚脱感と、秀也の言葉を重ね合わせて考えていた。しかし、考えても思考を巡らせる事など出来ない。思い出しては秀也を見ていた。

サングラスをかけて物憂げに溜息をつき、気だるそうに髪をかき上げる司に、スタッフは目が離せない。秀也もそれに何となく気が付いていた。

 東京に戻るとその足で事務所へ向かう。明後日から再開されるツアーの打ち合わせと、明日のリハーサルの打ち合わせを行う為だ。

「司、具合でも悪い?」

紀伊也が、元気なく気だるそうにデスクに肘をついて、目の前のメールの山を見つめている司の側に来て言った。

「ん・・・」

サングラスも外さず、そのまま振り向いた司に、何となくドキッとさせられた。

「メール代わろうか?」

「帰っていいよ。あとはオレがやるから」

呟くように言うと元に戻り、サングラスを外して胸のポケットにしまうと、紀伊也を手で追い払った。

 溜まっていたメールを一通り開けて仕分けをすると、すでに10時を回っていた。

今日は何事もなく無事に終わったので、ホッと一息つくと、デスクから立ち上がりかけてふと電話を見た。が、何もなかったので、そのまま事務所を後にした。

早く自宅に戻って曲のアレンジもしなければならない。

 -息の付く間もないな 

考えただけで焦って来る。

何となくこのまま自宅に戻りたくなくなって、自然と秀也のマンションの前まで来ていた。 部屋を見上げると、微かにカーテンが揺れて灯りが漏れた。

 -居るのか 

行きかけて足が止まる。

そう言えば今日が週末だという事を思い出した。

 -また、彼女が来ているかもしれない


 司は自分の部屋に戻ると灯りをつけ、ボストンバッグを床に置いた。

冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出すとリビングへ行き、そのまま口につけて飲むと、テーブルに置いた。

そして、タバコに火をつけて一服吸うと煙を吐きながら、ふっと苦笑した。

 -アソベと言ったのはオレだよな。でも秀也・・あいつ、本気、なのかな。

灰皿を持ってピアノ前に座った。暫らくそのまま一本吸うと、灰皿をピアノの上に置き、扉を開ける。

ショパンの『夜想曲』半分程まで弾いて、指を離した。

不意に今朝の余韻に襲われ、自分の体を力いっぱい抱き締めた。

秀也に会いたい、秀也が欲しい。そう駆られて立ち上がり、電話をかけようと受話器に手を当てた。

その時電話が鳴った。

 ・・・ 秀也!?

咄嗟にそう思い、受話器を取る。

「お前の弱点は何だ?」

あの男の声だ。 

 ガシャン

咄嗟に電話を切った。そして電話を見つめる。

まるであの男は、自分の心の隙間を突いて来るかのようだ。

瞬間背筋に悪寒が走り、息が苦しくなるとソファに座り込んでしまった。

必死で呼吸を整えると、そのまま目を閉じて横になった。



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