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第九章・亀裂 Ⅰ波紋(一)

ツアーを前に煮詰まった司を襲う出来事に戸惑いは隠せない。追い詰められて出してしまった言葉に秀也は・・・。

第九章 亀裂 

 Ⅰ.波紋


 七月に入り、梅雨もようやく明けて来た。

あの脅迫電話以来、司は毎日事務所に顔を出した。時々メールを開封しながら、あんな事言わなきゃ良かったと、思うくらいに量が多い。

あれから電話もなければ、変な郵便物も来なかった。一通り見終わると、今度は事務所と同じビルにあるスタジオに入る。アルバムの曲のアレンジに試行錯誤していた。何だか上手く行かないのだ。 

 司にしては、珍しく煮詰まっていた。お陰でレコーディングが進まない。そして、あと2週間後に始まるツアーのアレンジにも苦労していた。

やらなければならない事が山程あるのに、なかなか事が進まないので、メンバーもスタッフも徐々にイライラして来る。司も焦っていた。全てが司次第で事を進めているのだ。

 ピアノの前に座ると溜息をついた。

こんなに上手く行かないのは初めてだ。

何をこんなに焦っているのだろう。

ピアノのキーを叩こうかと、指先を付けようか付けまいか迷っていた。

「司、少し休むか」

不意にナオがスタジオに顔を出し、コーラの缶を投げた。それを受け取ると、力なくナオを見て、サンキュとだけ言った。

「焦っても仕方ないよ。とりあえずライブに集中しようぜ」

「ああ、・・・ ごめん。 オレがいけないんだ」

「また、そうやって抱え込むんだからぁ。俺達だって悪いと思ってるんだぜ、お前に任せっきりだしな」

「それは言わない約束だろ。最初にオレが、お前等を巻き込んだんだから」

「やめろよ」

「ごめん、もう言わない 」

相当煮詰まっているようだ。ナオは司の肩を軽く叩くと出て行った。

 溜息をついて、飲み干したコーラの空き缶をピアノの上に置くと、タバコを取り出した。

そこへチャーリーが入って来る。

タバコをくわえようとしたが、手を止めて入って来るチャーリーを見た。

 何かあったのか?

一瞬不安になった。自分の勘さえも鈍くなっているような気がした。

「なぁ司、今日はもう終わりにしよう。そういう事になったから」

時計を見るとまだ6時だ。

「もうみんな帰ったよ」

 え? 司は信じられないと思ったが、皆が気を利かせてくれた事に気付くと少し情けなくなってしまった。

「わかった」

タバコをしまうと、ピアノの蓋を閉じておもむろに立ち上がった。

 事務所に入ると、本当に誰もいなかった。デスクの上も綺麗に片付けられ、スタッフも皆帰宅したようだ。

がらんとしたオフィスを見て、思わず苦笑してしまった。

誰もいないオフィスは初めて見る。何だかとても広い所のような気がした。

 電話が鳴った。

ヤケに大きな音で響いている。司は近くのデスクの電話を取った。

「まだ、止めるつもりはないらしいな」

 っ!? 

あの男の声だ。

まるで司が一人、事務所に居るのを知っているかのようだ。思わず辺りを見渡したが、広いオフィスには司一人しかいない。

「貴様っ、何のつもりだ・・」

「随分と追い詰められているようだな、光月司」

それだけで電話は切れた。

ギリッと歯を噛み締めると受話器を電話に押し付けた。

まるで、心の中の動揺を挑発しているかのようだった。


 外に出るとまだ明るい。

夕暮れの街というのはいつ以来だろうか、思い出す事も出来ない。

何となく歩きたくなってサングラスをかけると、悟られないように、司のオーラを消して歩きはじめた。

 街は仕事帰りのOLや、学校から帰宅途中の学生や高校生で溢れ返っている。金曜日という事もあり、何だか皆楽しそうだ。 

皆、この時間を楽しく生きている。そんな気がした。

反対側の歩道では、誰かを待っているのだろうか、走って来る車を覗き込んで見ている女の子がいた。 彼氏でも待っているのだろう、そわそわしているが、何だかとても嬉しそうだ。

思わず立ち止まって見ていた。


 あんなふうに待っていた時がオレにはあっただろうか・・・

 もし今、自分が普通の女として生きていたら、彼女のように、ああやって好きな人を心待ちにしているものだろうか


突然、彼女の目がパッと輝いた。遠くからでもそれが分かる。待ちわびていた車が来たようだ。

何気にその方向を見る。

 ? 

見覚えのある車だ。

彼女の姿が車で見えなくなった。運転席の彼が、助手席を開けたようだ。

窓にはスモークが張ってあり、顔が見えない。

そのまま車が走り出した。

思わず、車のナンバーを確かめて息を呑んだ。

暫らく司は茫然と走り去って行く車を見つめていた。

しかし、あっという間に、それは見えなくなった。

 ふうっ・・・

溜息をつくと再び歩き出した。

あとは何処をどう歩いたのか、周りの景色さえも見ないで家の前まで来ていた。

そのまま自分の部屋へ入り、灯りをつけた。

広いリビングが更に妙に広く感じる。

ソファへ行かず、壁に寄り掛かって部屋を見渡すと、そのまま座り込んでしまった。そして、膝を抱えて天井を見上げた。

フロントガラス越しに見えた秀也の顔が忘れられない。

 あんな表情かおでオレを迎えに来てくれた事が、今までにあっただろうか・・・

秀也がそばに居てくれる事が余りにも当り前過ぎて、何処かへ行ってしまうなんて事は、考えた事がなかった。

単純に彼女の事は友達としか思っていなかったが、急に不安になって来ると同時に、自信が無くなって来た。

自分には、彼女と同じように、あんなに嬉しそうな表情で秀也を待つことなど、もはや出来そうもない。それに、今更自分の生き方を変える事も出来ない。そう思うと急に胸が締め付けられそうになって、司は自分自身の体を強く抱き締めた。

不意に晃一の言葉が寄切った。

『お前、秀也いなくなったらどうすんの?』

あの時は冗談で『死んじゃうかも』と言った。

しかし今は、本当に死んでしまうかもしれない、と思った。

少なくとも、秀也なしでは生きてはいけない、そう思っていた。


 ピンポーン


玄関のチャイムの音に、顔を上げて立ち上がり、ふらふらと歩いて行く。

誰が来たかなど、どうでも良かった。

扉を開けると晃一が立っている。

「フッ、晃一か・・・」

思わず苦笑してしまった。

「ケっ、いきなりこれかよ。結構なご挨拶だな、心配して来たのに。ナオ、帰るか?」

後ろを振り返りながら言うと、ナオが晃一の脇から顔を覗かせた。

「司、これでも食おうぜ」

持っていたピザの箱を突き出す。

司はナオと晃一を交互に見ると、何故か泣き出しそうになってしまっていた。

今、何もかも全てが上手く行かず、煮詰まり過ぎて、出口の見えない迷路にハマり、立往生してしまっている所に、自分を導くように救いの手が差し伸べられたような気がした。

「サンキュ」

それだけ言うと、二人を中へ入れた。

二人の後姿を見ながら仲間というものに感謝した。

 こいつらとは、一生、友達でいたい

そう強く願った。



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