第五章(五の2)
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
雅は紙パックのコーヒー牛乳を投げた。司はそれを受け取ると勢いよく上下に振り、ストローを挿して飲み始めた。
「まったく、ガキだな」
その姿を見て、とても今や人気絶頂のスターとはかけ離れたただの子供のように思え、雅は呆れた。
しかし、それは紛れもなく亮と一緒にいた時の司の姿だった。
「何の話をしていたんだ?」
少し気になって訊いてみる。
「うん? ああ、この部屋いい趣味してるだろって」
「ホントだな。 とても病室とは思えない」
雅も嫌味を込めて言い返した。並木が振り返り雅を見ると
「驚いたろ。この部屋はこの病院の中でも最高級の家具を施した特別室だ。ま、誣いて言うなら司専用の部屋かな」
と、更におどけた口調で付け加えた。思わず並木は吹き出した。
「何言ってんだ。大したモン置いてないクセに。院長室の隣に比べたら普通だぜ。それに・・・、 オレ専用だなんて言って欲しくないね」
ムッとして言い返す。
二人の会話に並木は不思議な目をした。それを見て司は説明する。
「ああ、この病院はね、オレの親父が出資してるんだ。で、院長はボンの一番上の兄貴。ボンはね、オレの亡くなった兄貴の親友なんだ。 一応優秀な心臓外科医でね、オレの主治医をしてくれてるワケ。 ね」
そう言うと視線を雅に向ける。
「一応、ってのは余計なんじゃないの。これでも指折り数える優秀なドクターなんだぜ。それに、誰のお陰で生き永らえてると思ってんの」
「はいはい、それはそれは、ありがとうございます。雅先生」
司は首をすくめた。雅も思わず横目で見ると笑った。
「雅先生?」
並木はそう言って、雅の胸の名札を見る。
「あは、分かった。 さっきからオレが、ボンボン言ってるからだろ。ボンの名前はね、みやびひろし。ひろしはね、平凡の凡って書くんだ。だからボンなの」
そう言うと、急に思い出したかのように声を出して笑った。
雅と初めて会った日の事が鮮明に蘇ってくる。
******
昨日届いたばかりの真白なピアノの前に座り、ドキドキしながら弾いていた。
やはりショパンがいい
モーツァルト音楽コンクールではふざけて名の通りモーツァルトを弾いたが、自分にはショパンの方が合っている。そう思いながら夢中で指を走らせる。
ま、出る事より、このピアノが欲しかったから賞の事などどうでもいい。
「お、早速試しているのか」
振り返ると、学生服に身を包んだ亮と友人が部屋へ入って来る。司は指を止めた。
「あ、兄ちゃん。 お帰りなさい」
そう言うと、ポンと椅子から飛び降りた。椅子の高さが司の腰まであった。
「こんにちは」
司は亮の友人にペコリと頭を下げた。
「こんにちは」
友人はくすっと笑いながら返した。亮が友人に向かって言う。
「妹の司だよ。前に話したろ、今ドイツにいるって」
「なあ、亮、ホントに妹なの? 弟じゃなくて?」
友人は司を見ながら言った。
どう見ても少年にしか見えない。薄茶がかった前髪は少し長めに垂らし、後ろは短くカットされている。前髪から覗く大きな切れ長の目は少女というよりは男っぽく鋭い。顎の線も亮に似てすっと尖っている。衣服も白いシルクのブラウスに黒い長ズボンを身に着けていた。何処にも少女の面影はなかった。
ただ、肌の色だけが真珠のように滑らかで白く弾けそうな色をしていた。
「どっちでもいいだろ、んなこと。 兄ちゃん、誰そいつ」
司はムッとして顎で友人を指した。亮は思わず苦笑する。
「親友のみやびひろし。ほら、病院の院長先生の息子だよ」
「院長? 光生会の?」
「そう、覚えてない?」
「ああ、あいつか。 あいつは嫌いだ」
ぷいっと横を向く司に亮とひろしは顔を見合わせた。
そして、ムッとしている司に向かって亮はピアノを指差した。
「どう? 感触は?」
ピアノの事を訊かれ、司は突然嬉しくなる。
「うん、最高だよ。やっぱり、黒より白の方がいい。 弾いてて気持ちがいいよ。それにね、やっぱりモーツァルトよりショパンの方がいいって、兄ちゃんの言うとおりだ」
目を輝かせながら言う司に亮は目を細めた。
もっと聞いて欲しかったが、ひろしと一緒だという事に気付くと口をつぐんだ。
「じゃ、またあとで。ひろし、行こう」
亮が部屋を出て行くと、司は少し寂しくなって再びピアノへと向かう。
何を弾こうか考えてしまった。そして、今弾きたい曲が見付らなくなってしまったので、途方に暮れ、亮に訊く事にした。
「兄ちゃん、入るよ」
恐る恐る部屋のドアを開けて中を覗くと、中央のテーブルにノートを広げて何かしている二人がいた。司に気が付くと手招きした。
「宿題、やってるの?」
思わず手に取った数学の教科書を見る。
「ああ、ひろしは数学が得意だからな」
「が・ぼん?」
「ん?」
二人は教科書の裏を不思議そうに眺めている司に目をやった。
「何これ? 何て書いてあるの。 が・ぼんって何?」
「が・ぼん?」
・・・・・・
少しの沈黙の後、突然亮が大笑いし、ひろしは何だかムッとしたように苦笑している。
「あははっっ、司、おもしろすぎっ! 最高だよ・・・ ははっっ・・・」
涙を流しながら腹を抱えて笑う亮にひろしは笑い過ぎだと頭をはたいた。
「司、それ、みやびひろし、って読むんだよ。雅凡、こいつの名前だよ 」
亮は司の顔を見ながら更に笑い転げた。
******
「まだ、五歳だったんだ。あの時」
遠くを見ながら懐かしそうに言う。
「が・ぼん ・・か。 くっく・・・」
思い出して笑った。
雅もあの時の屈辱にも似た思いが蘇り思わず笑った。
「参ったよ。どうしていいか分からなかった。亮なんか笑い転げてさ、お陰であの時からボンと呼ばれるようになったんだぜ。 ったく迷惑な話だ」
司は怒ったように笑いながら言う雅に苦笑した。
「でもさ、あの時、ボンが帰った後、二人で大笑いしたんだ。 兄ちゃんもさ、最初はボンの名前見た時、が・ぼんって読んだって言ってたもん。親の手前呼ぶに呼べなかったって言ってたよ。あはは・・・」
楽しそうに言う司に雅は目を細めた。司が亮の事でこれだけ楽しそうに笑っているのを見たのは何年ぶりだろう。
「オレと兄ちゃんはさ、十歳も年が離れてるんだ」
突然、話し出した。
「気付いた時には独りだったよ。でもね、兄ちゃんがいつも傍に居てくれた。毎年毎年知らない土地へ行って、いつも一から始めるんだ。面白いと言えば面白いけど、いつも独りだ。不安じゃないと言えば嘘になる。まぁ、毎日誰かが生活の世話はしてくれたけど・・・」
そこまで言うと口をつぐんだ。そしてフルートを見る。
二人は黙って司を見つめた。
「亮兄ちゃんだけだ、必ずオレの処へ来てくれたの。親父だってお袋だって、他の兄貴達だって、一度として来てくれたことないよ。何か問題起こさない限り・・・。嬉しかったなぁ。それに・・・、今、オレがこうして歌ってるのだって兄ちゃんのお陰だ。兄ちゃんがいなければここには居ないよ。全部兄ちゃんが教えてくれた。何もかも全部・・・」
俯いて言う司の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「司、ごめん」
突然、並木が呟いた。
「何で、兄ちゃんが謝るんだよ」
司は自然に応えていた。並木は「そんな事訊くつもりはなかったのに」と言おうとしただけだったが、司の言葉を受け入れていた。
「何で死んじゃったんだよ・・・。 ずるいよ、ずっと、見ててくれる って言ったのに・・・ 」
フルートを胸に抱えて頭を埋めた。
「兄ちゃん・・・」
肩を震わせ、声を押し殺して泣いていた。
「司・・・」
言いながら、並木はそっと司の肩を抱き寄せていた。
司には亮が今、自分を抱き寄せてくれているのだと錯覚を起こしてしまった。
「兄ちゃん!」
そう叫ぶと、並木の胸に顔を埋めた。
会いたかった
どれだけ会いたかったか。もう、何処へもいかないでっ、オレを独りにしないでくれっ! そう、心の中で叫んでいた。
雅は一瞬、目を疑った。そこには妹を抱き寄せた、兄、亮がいたのだ。
ガクン、と突然司の力が抜けた。
「司!?」
並木は驚いて雅を見る。
ハッと我に返った雅は慌てて司を抱き起こした。また、気を失ったかと思ったが、呼吸や脈に乱れはない。顔色も悪くない。それよりむしろ安心し切っているかのように無防備な寝顔だ。
司はいつの間にか、亮の腕の中で眠ってしまっていた。




