第二章(三)
土曜日の夜、亮のプロデュースしたライブに出演し何曲か歌い終わった後、客席に交じってビールを飲んでいた。
「今日の出来も良かったよ。何だか知らない間にファンが増えてんじゃないの?」
タバコを吸いながら亮が笑いながら来ると司の隣に座った。
「へへ、どうもそうらしいね」
亮の手からタバコを奪うとそれを吸って上に向かって吐いた。
一本の煙は周りの煙に溶け込んでしまい、天井近くはもやがかかったように白くなっている。
「おーい、その不良な妹を何とかしろ」
亮の友人の祐一郎が呆れながら近づいて来ると、亮は司の頭を抱き寄せ、
「いーの、この兄にしてこの妹あり、なんだから」
と笑う。
思わずドキッとした司だったが、
「そうそう、この不良仕込みは兄貴譲りなのよ」
ねぇーっ、と二人は顔を見合わせ声を上げて笑った。
ったくしょうがねぇ兄妹だな、と祐一郎は笑うが、周りを囲んでいた司のファンは美形兄妹に思わずうっとりして見ている。それを見て更に呆れた。
「司、この後どうすんの?」
亮が耳元で言う。この後の打ち上げの事を訊いているのだ。
「ああ、ごめん、今日は帰る。宿題あってさ、今日はオレの番なんだ。ま、兄ちゃんがやってくれるって言うんなら、行ってもいいけど 」
「ばぁーか、誰がやるかよ。学生の本分なんだから自分でやりなさい」
亮は舌を出す。
チェーっ、司は口を尖らせるとビールを飲み干した。
暫く亮は司の隣で祐一郎と喋り、司は同じテーブルにいたメンバーと話をした。
最後のバンドの演奏が終わると、亮と祐一郎が立ち上がる。
「司、片付けくらい手伝えよ」
司の頭に手を乗せ、亮が言った。
へいへい、仕方なく立ち上がりメンバーに別れを告げると亮の後について行った。
「あの、暴れ馬に手綱を着けられるのは、亮さんだけだな」
晃一が司の後姿を見送りながら呟くと、メンバーは全員大きく頷いた。
司が家へ戻ると11時を回っていた。
-やれやれ、これから宿題か・・・。
とりあえず、全身の乾いた汗を流そうと自室のシャワールームへ入る。
-ふぃーっ、気持ちいい
ああ、なーんかやっぱ、打ち上げ行けばよかったかなぁ。
ライブの余韻を残したまま帰って来てしまった事に少し後悔したが、仕方がない。
シャワールームから出ると、青と白のストライプのパジャマに着替えた。そして、サイドボードの横の冷蔵庫を開けたが何も入っていない事にため息をついた。
「ありゃ、入れるの忘れたか。仕方ない、取りに行くか」
ドアを開けようとノブに手を掛け、自分がパジャマ姿だという事に気が付いたが、見付らなければいいか、とこっそり階下へ下り、台所へ入ると冷蔵庫から飲み物を取り出す。ふとカウンターを見ると、果物が置いてあった。誰かがこれから食べようと思って置いたのか、皿と果物ナイフまである。
「ラッキー」
にんまり笑うと、梨を皿に乗せ、ナイフと共に自分の部屋へ持って行った。
ペットボトルを開けて水を飲むと、デスクへ向かう。
「さあて、始めますか」
まず、英語の教科書を開きスラスラとノートに英文を書き写し、和訳を書いていく。そしてそれが終わると、数学の教科書を開いた。続いて化学、物理と進めていく。
「結構、あんなぁ・・・」
ようやく終わると1時を回っていた。
亮はまだ帰って来ない。
司はソファへ行き、梨の皮を剥き始めた。
料理は一切出来ないが、果物の皮を剥く事くらいは出来た。包丁の扱いは慣れていないが、ナイフの扱いはお手の物だ。それを半分に切って更に四等分すると、芯を削ってナイフを梨に突き刺し、口に運んだ。
「んー、美味い。なーんだ、こんなのつまみ食いしようとしてたのか」
半ば使用人にも呆れる。が、それをとがめたりはしないが。
二つ食べたところで、何となく目が冴えてしまい眠れそうもない。これでも読んでいれば眠れるだろうと、分厚い辞書を本棚から引っ張り出した。
暫くそれを暗記するように読んでいると、小さく軽くドアがノックされた。
ん?
ページの端を折って辞書を閉じてテーブルに置くと、ドアがそっと開けられ亮が顔を出した。
「お、まだ起きてたのか?」
「あ、お帰り。・・・シャワー浴びるの?」
亮は部屋の中へ入り、ドアをそっと閉じると「いい?」とシャワールームを指す。
「いいよ」
頷くと、亮は「悪いな」とシャワールームへ入って行った。
亮の部屋にはないのだ。
司は一応『女』だからという事で自室にユニットのバスルームを備え付けていた。
深夜に階下へ下りて、自宅のバスルームへ入るのは何となく気が引けてしまうし、誰かを起こしかねない。そこで、大抵11時以降になると亮は司の部屋を使う事にしていた。司も元より承知していた。
亮がシャワーを浴びている間、再び辞書を開いた。
「お、やってるな。・・・ ロシア語?」
少し熱心に読みすぎたのか、亮が出て来たことにも気が付かなかった。
「え、ああ」
亮が少し不安な顔になった気がして、慌てて閉じた。
「余り、無理するなよ」
濡れた髪をタオルで拭きながら左右に振る。そして手ぐしで梳かすと、冷蔵庫からペットボトルを出して水を飲みながら司の隣に座って肩を抱いた。
亮の言いたい事はよく分かる。でも、やらなければ亮にしわ寄せがいく事は分かっていた。とにかく亮に負担をかけたくない。そう思うと思わず熱が入った。
亮は、司の手から辞書を取り上げるとテーブルの上に置いた。
そして司の細く尖った顎を持ち上げると、顔を近づけ自分の唇を司の唇に重ねた。
ゆっくり離すと「おやすみ」と言って、額に口付けをして部屋を出て行った。
司は暫くソファに座ったまま辞書を見ていたが、ふと立ち上がると部屋を出た。
ノックもせずドアを開けると、亮はベッドに腰掛けてタバコを吸っていた。
「兄ちゃん、寝れない」
司は亮の隣に腰掛けるとそう呟いて自分の足をバタつかせた。
亮はフっと笑うと、サイドテーブルの灰皿を取り、タバコを押し付けて元に戻した。そして、司に向き直りながら両肩を抱いて口付けながらベッドへ押し倒した。
見た目には似たような薄い唇だが、実際は優しく温かく包み込んでくれる。
そんな亮の唇が愛しい。亮もまた消えて失くなりそうな柔らかい司の唇が愛しかった。
愛しすぎてこの唇から、もし他の男の名前など口にしようものなら殺してしまいたい、そんな気にさえなる。
徐々に二人の息が熱くなる。亮の手はすでに司を脱がせている。司もまた亮のバスローブを取っていた。お互い生まれたままの姿で重なり合っている。
二人にはこれが初めてではなかった。
初めてであれば、これ程までに全身でお互いを感じる事はないだろう。
司は自分の全てを亮に預け、亮の温もりを感じていた。亮は司を守ると決めた16年前から、他の誰でもなく司だけを見、愛してきた。二人は相思相愛、兄妹の域を超えた男女の間柄に他ならなかった。それが罪だとも汚れた愛だとも言われようが構わない。最初から覚悟は出来ている事だ。もし万が一、亮太郎に知れたらそれこそ二人を生かしてはおかないだろう。それすらも承知の上だった。
二人ともお互いに自分の命を懸けていた。
翌朝、何かの物音で目が覚めると司は慌ててパジャマを着て布団にくるまった。亮もバスローブを腰に巻きつけ布団に入る。お互い目を合わせて苦笑すると口付けをした。
そして、亮の腕に頭を乗せ、寄り添うように二度目の眠りについた。
ドンドンドンっ
突然、慌しくドアを叩く音に二人は目覚めた。
「亮、いるか!?」
その声が父の声だと分かると亮は気だるそうに起き上がった。
- ったく何なんだよ、こんな朝っぱらから・・・
二人はうんざり溜息をつく。そして司はもう一度目を閉じた。
「亮っ!!」
何だよ・・・ と応えるのと同時にドアが開かれる。
「何? こんな朝っぱらから。休みの日くらいゆっくり寝かせてくれる?」
朝のまどろみを邪魔され不機嫌になった。
そうでなくても朝一番に会いたくない人物だ。
「司を知らないか? 昨夜は一緒だったんじゃなかったのか? 部屋の灯りがついたままいないのだが」
-なんだ、司を探していたのか・・・。
が、次の瞬間、亮はハッとなったが、小さく溜息をつくと気だるそうに隣で寝ている司を揺り起こした。
うーん、何?
目をこすりながら気だるそうに起き上がり亮を見ると、顎で入口を指している。
「お前達・・・」
明らかに動揺しているのが分かる。取り繕っても無駄だろう、亮は黙って覚悟を決めた。
「何? 朝っぱらから、オレに何か用?」
寝起きの不機嫌な声に亮は司を見た。
司の目からは何を考えているのか読み取る事が出来ない程無表情な顔をしている。こんな司は初めてだ。
「何、変な想像してんだよ。昨夜はライブの話で盛り上がっちゃってそのまま寝たんだよ。・・・ねぇ、用って何? ないんならもう少し寝かせてよ。それに宿題なら昨夜のうちにやったからっ。おやすみっ」
明らかに迷惑そうだ。しまいには半分怒って再び布団をかけると枕に頭を埋めた。そんな司に亮は内心苦笑してしまう。
「とにかく・・・ 自分の部屋へ戻りなさい」
あくまで冷静さを保とうと必死になっているのが、苦しそうに搾り出すように言う声でそれが分かる。
亮は司の肩を叩き、部屋へ戻るよう促した。
亮を見上げると一瞬不安になったが、亮の目は心配するなと言っている。
このまま亮を一人にしたくはなかったが、仕方がない。起き上がると黙って出て行った。
亮太郎の横を通り過ぎようとした時、妙な気を感じたが、こちらの気を悟られないよう出て行くとドアを閉じた。
閉じられた瞬間、背中越しから亮太郎の声が聞こえた。
「自分のした事が分かっているのかっ!?」
思わずビクッとして振り返った。が、すぐ沈黙した。恐らく司がいる事に気付いたのだろう。司も慌てて自分の部屋へ戻った。
部屋へ入ると少しホッとしたが、心臓がドキドキしている。
ふと胸を押さえ見ると、パジャマを着ていた事に気付き、慌てて着替えた。
白い胸と腹にはいくつかの赤い斑点ができている。
昨夜、亮にきつく吸われた箇所だ。思わずそこに指を這わす。
亮・・・
急に不安になり、部屋のドアを見た。
本当に大丈夫だろうか・・・。
司には覚悟はできている。どうせ、皆の捨て駒なのだ。生かすも殺すも彼の意思一つだ。しかし、亮は普通の人間だ。それに光月家の将来をも託されている。
あれこれ考えながら亮の安否を気遣い、窓の外をぼんやり見ていた。
突然、ドアが勢いよく開かれ亮太郎がつかつか入って来ると、司を窓から引き離して力いっぱい頬を殴った。
無防備だったせいもある、勢いよく部屋の中央に弾き飛ばされてしまった。
「やれっ」
という亮太郎の声にハッと顔を上げると、黒服のSPの男の一人が司を羽交い絞めにする。
「何すんだよっ! 親父っっ!!」
振り解こうとしたが、相手は司の倍以上の体格の持ち主だ。後ろを取られては下手に動けない。みぞおちの横に一発食らった。瞬間にして急所は外せたが、思わず呻いて前にのめる。次の瞬間湿ったタオルを口と鼻に力いっぱい押し付けられた。
ハッとして思い切り吸い込んでしまった。
っ!! ・・・ しまったっ・・
思った瞬間意識が朦朧として来る。力が抜けてそのまま倒れてしまった。
そして、男が出て行くのと入れ替わりに亮が飛び込んで来た。
「司っっ!? ・・・お父さん、司に何をしたんですかっ!?」
近づこうとしてツンっと鼻に衝く匂いを感じて、手で覆う。
クロロフォルム・・・
そう思った瞬間、うっと司が呻いた。体をくの字に折り曲げ、胸を鷲掴みにしている。
はぁっ、はぁっ と激しく息をし、時折苦しそうに顔を歪めている。
「やはりな・・・」
亮太郎は諦めたように冷たく呟いた。
「司っ、しっかりしろ! どうしたっ!?」
亮は司に駆け寄ると抱き起こして揺さぶった。
司は微かに目を開けると、冷ややかに自分を見下ろしている亮太郎を睨んだ。
「確、かめたんだっ ・・・汚ねぇぞ・・・ううっ・・・ はぁっはぁっ ・・・」
更に胸を強く押さえて体を折り曲げる。呼吸も普通ではなくなっている。顔色も次第に失せてきた。
亮は苦しむ司を抱き締めた。
「安ずるな、発作だ。じきに治まる」
冷たく言い放つと溜息を一つついた。
次第に司の力が抜けていく。
亮は司を抱きかかえるとベッドの上に寝かせた。息は荒いがクロロフォルムの効力が出てきたのだろう、ぐったりと気を失いそうになっている。
亮は横たわる司を見つめていたが、やがて振り向くと憎悪のこもった目で亮太郎を睨むと拳を握り締めた。
「あなたという人は・・・。 許せないっ・・・」
「許されないのはお前の方だ。何をしたのか分かっているのか?」
亮太郎は落ち着き払っていた。そして軽蔑するように亮に視線を送った。
「お前はこの光月家に恥の上塗りをする気か。何故そんなに私に逆らう」
「・・・・」
「司はやっと真の能力者として成長してくれたと思っていた。タランチュラとして皆から恐れられる者として生かせる事が出来たものだと思っていたが・・・。 それをお前自らの手で妨げるとはな 」
亮を一瞥すると、通り越してベッドで横たわる司にも突き刺すような視線を送った。
「しかも・・・ 同じ血が流れている」
思わず亮も司を見た。
そう、偶然にも全く同じ血が流れていた。
二人は暫く黙っていたが、お互い何かを決断したかのように視線を元に戻す。
「亮、お前にはもう少し働いてもらおうと思ったが、ここまで来ては救いようがない。今までは親として目を瞑って来たが、それも庇い切れるものではない。タランチュラの為だ・・・ 覚悟は・・いいな 」
いつの間にか亮太郎の手には果物ナイフが握られていた。昨夜、司が持ってきたものだった。テーブルの上には食べかけの梨の乗った皿が置いてある。
亮は何も言わずに目を閉じた。
亮太郎は左手で亮の肩を掴み、ナイフを持った右手を静かに上げ、一気に喉元に突こうと振り下ろそうとした。
その時、うっ、と亮太郎は呻いて右手を何かに絡み取られよろけそうになってしまった。
金色の細い鎖が手首に巻きついているのだ。
二人は鎖に沿って視線を辿っていった。
そこには上半身を起こし、肩で息をしている司がいた。司が自分の右手をぐいっと引っ張ると、鎖は亮太郎の手首を更に締め上げ、その拍子にナイフが床に落ちた。
「司」
亮が司を見ると一瞬目が合ったが、何とも云えない冷酷で複雑な表情をしている。
「司、やめろ」
亮が司に向かって静かに言うと、するするっと巻きついていた鎖が戻っていく。
「親父、何をしている?! 兄ちゃんを殺す気か?!」
ベッドから下りようと体を動かそうとしたが、力が入らず肩で息をした。
「司、お前の為だ。亮はお前の妨げとなる。お前の邪魔者なのだぞ」
右手首を摩りながら諭すように静かに言うが、それは、まるで暴れだそうとする虎を制する調教師のようだ。
「兄ちゃんは殺させない。オレがいる限り・・・ 死なせないっ」
「お前は私には逆らえない、タランチュラ」
悪魔のように威圧的な亮太郎に一瞬二人は凍りついた。が、司はフっと不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、それはどうかな。オレは最強の能力者と言われているタランチュラだぜ。余り見くびらないで欲しいな。自分が生き残る為なら共食いだってする。・・・ それに、今まで遊学する為だけに世界中を飛び回っていた訳じゃない、R」
その目は、恰好の獲物を見付け捕らえようとしている主のようだ。
両手足を粘着糸に絡み取られ、バタつかせて更に身動きが取れなくなるのをじっと見据えるような冷酷な眼をしている。しかも微笑さえ浮かべているようだ。
今まで、何人がこの眼に殺られてきたのだろう。報告は受けていたが、実際に見たのは初めてだ。亮太郎は一瞬冷や汗が出そうになった。
「そうか、そうだったな。その言葉を聞いて安心した。亮、命拾いしたな。出来のいい妹に感謝する事だ」
蔑むように言うと背を向けた。
「だが、お前は私には逆らえない」
「・・・、分かっている」
何かの意志に操られているのか或いは束縛されているのか、司は頷いた。
そして、亮太郎は司には聞こえないように何か呟くと部屋を出て行った。
亮は一瞬凍りついたように亮太郎を見たが、彼が部屋を出て行ったのを確認すると、司の傍に腰を下ろした。
司のあんなに冷たく恐ろしい眼を見たのは初めてだったのだろう。肩を抱く手が微かに震えている。
しかし、うなだれて自分の両手の拳を握り締め、それを見つめている司の肩の方が激しく震えていた。
「司?」
「また・・・、一人犠牲になった・・・」
呟くように言うと、唇を噛み締めた。司を抱き締めた亮の手に力が入る。
「気にするな。俺がお前の傍にいつもいる。ずっと見守ってやるから。・・・もう誰も傷つく事はない」
「本当?」
「ああ、いつまでもずっと、見守っててやるよ。約束するから」
そう言うと、司の顎を持ち上げ、その震える唇にそっと唇を重ねた。
*****
兄ちゃん・・・。兄ちゃんだけには見られたくなかったんだ。
牙を剥くと歯止めが効かなくなるんだ。
・・・、あの時、オレを見ていた兄ちゃんの目が忘れられないよ。
一体、オレはどんな眼をしていたんだ・・・。
トントントン
軽くドアをノックする音に目が覚めた。どうやらいつの間にか寝てしまったらしい。
「お嬢様」
微かに杉乃の呼ぶ声がする。体を起こし、ドアを開けた。
心配そうにこちらを見上げている。
「お食事の用意ができましたが、どうなさいます?」
もう、そんな時間か・・・
振り向いてデスクの上の時計を見ると6時を回っていた。
「ありがとう。でも、食欲ないんだ・・・ ごめん」
!?
杉乃の手が自分の両手を取り、いたわしそうに摩っている。
「そうやって毎年毎年、亮お坊ちゃんを慰めておいでなのですね。きっと、天国で喜んでいらっしゃいますよ」
「ばあや・・・」
思わず胸が詰まって泣き出しそうになるのを堪え、唇を噛んだ。これ以上ここに居たら胸が潰されてしまいそうだ。
杉乃の手を振り払うと、走って階段を下り、外へ出た。
11月の半ば、夕闇に包まれようとする空気は冷やっとする。冷たい風が司の頬を撫でるように吹いた。
カチャ、ドアが開かれた。
「来ると思ってたよ」
黒一色に覆われ、うなだれて立っている司の肩を抱き寄せると、秀也は自分の部屋へ招き入れた。
ソファへ座らせ、ブランデーをグラスに注ぎ司の手へ握らせた。
冷たい手をしている。そっと両手でその手を握った。
「亮さんと話できた?」
司は黙って首を横に振った。
そっか・・・今年はダメだったか
というより、司が落ち込んでいたのだろう。話をしたという年もある。デビューをした年は沢山話をして、話したりないくらいだと言っていた。
「何か食べに行く? どうせ朝から何も食ってないんだろ。亮さんの好きなエビフライでも食べに行く?」
隣に腰掛け、顔を覗き込むように訊いた。
司は黙ってブランデーを飲み、一息つくと、秀也を上目遣いに見つめた。
「お前が欲しい」
呟くようにそれだけ言った。




